ごめんなさい
底の底にまでどっぷりと沈み込んでいた圭太郎の意識が、唐突に水面へと引っ張り上げられていく。
「圭太郎……大丈夫ですか?」
いつの間にか、ソフィアが圭太郎の目の前に立っていた。
そして、胸元に引き寄せるように、圭太郎の頭がソフィアに抱え込まれていく。
石鹸混じりの甘い香りと、風呂上がりの軽装も相まって、顔全体が柔らかく心地の良い弾力に包み込まれたところで、圭太郎の意識は覚醒を終える。
「……んぐ、もう出てたのか?」
「もうって……あれから四十分は経っていますよ?」
「マジか……いつの間に……」
どうやら深く考え込み過ぎていたらしい。
体感とは大きく違い、結構な時間が経過していた事にそこで気がつくと、圭太郎は訴えかけるように視線を上に向けて、
「じゃあ、次は俺が入るから」
と、ソフィアに離すようにと促したが、
「駄目です。放っておけない顔を圭太郎はしてました」
ソフィアが大きく首を振る。断固としてそんなのは認めない、そういうスタンスらしい。
これはテコでも動かなさそうだが、流石にこのままは色々と不味い。精神的にも、身体的にも。圭太郎も健全な男子高校生ではあるのだ。
「……いや、そんな事は別に」
「ノー。そんな事ありました。よしよし、私がいっぱいいっぱい甘やかしてあげますね」
ソフィアが圭太郎の頭を労わるように撫で始める。
慈愛に満ちた手付き、今のソフィアは聖母と呼んでも過言では無い。冷たく乾いていた心に、ホットミルクにも似た温かな感情が注がれる。
このまま甘えても良いのかもしれない、圭太郎はついつい場の雰囲気に流されかけるも、すんでのところで思いとどまった。
「……ソフィア、お前は俺をこれ以上の駄目人間にする気か?」
料理を作って貰うどころか食べさせて貰って、心が荒んだ時は抱き締められて、子どものように頭を撫でられる。それもメロンであってマシュマロでもある不可思議な物体に顔面を押し付けられる形で、だ。
これは良くない。味わってはいけないタイプの極楽だ。依存してしまうタイプの劇薬だ。
このままではこれが無くなったら、自分は生きていかれなくなるだろう。それは、駄目な事だ。
「バレましたか?私抜きでは圭太郎が生きていかれなくしてしまう予定なんです」
否定する訳でもなく、悪戯っぽくソフィアはそう言い切った。
本当に圭太郎を駄目にする腹積もりらしい。
「それはまた怖すぎる計画だことで……」
深い溜息が出そうになるが、それは自重した。
今の圭太郎は谷間に顔が挟まれている状態だ。心情としては呼吸すらも遠慮しておきたい。
「なあ、俺に会ってガッカリしなかったか?お前と違って俺は成長どころかあの頃よりも退化してる。常にやる気はないし、極力外に出たくもないし、自分からは何もしようとしない。そんな無気力な人間に……俺は成り下がった」
恐る恐る圭太郎は、ずっと聞きたかった事を、ソフィアに尋ねた。
圭太郎は怖かったのだ。ソフィアも自分から離れていくんじゃないかと思って、怖かったのだ。
人が簡単に消えていく事を圭太郎は誰よりも知っている。その辛さも苦しみも。
天才ならば性格やメンタルもそれ相応に作って欲しかったものだ。孤立しても他を無視できるぐらい強く図太い人間なら、自分さえ良ければ良いじゃないかと思える冷血な人間なら、圭太郎があんなに苦しむ事は無かっただろうに。
「どんな圭太郎も、圭太郎です。ガッカリなんてしません。むしろ……嬉しいんです」
圭太郎の懸念は、到底する必要のないものだった。
ソフィアはただただ優しく、そして愛しそうに圭太郎を眺めて、その頭を絶えず撫で続けている。
全く予期していなかった言葉に、圭太郎はぴくりと眉をひそめた。
「……流石に嬉しいは嘘だろ」
圭太郎が小さく呟くと、ソフィアがまた首を大きく振る。
「いいえ、嬉しいです。だってこうやって圭太郎を甘やかせるんですからね。昔は私がこんな風に圭太郎に甘やかされていましたけど、今は私が圭太郎を甘やかせるんです。それはとってもとっても嬉しい事なんです」
どこかしっとりとした声色の包容力に満ちたソフィアの言葉に、かつて二人で共に過ごした日々が、圭太郎の頭の中では再生されていく。
確かにそうだった。ソフィアが泣きそうな時や寂しそうな時、苦しそうな時は、常に抱き締めていた。
大丈夫だよって、守るからって、側にいるからって、そんな事ばかり言っていたのを思い出す。
本当に面白いぐらいに、あの頃から立場が逆転してしまったものだ。頼りなくなって、頼りたくなっている。
「なら、もう少しこのままでいても……いいか?」
圭太郎はソフィアの腰に手を回すと、ぎゅう、と腕に力を込めて、自分からも抱きつく事にした。
甘えていいのなら、甘えておこう。人の好意を無下にするのは良くない。……いや、単に人の温もりを感じていたいだけだ。
今は無性に人肌が恋しかった。あの頃のように、誰かと一緒に過ごしていたかった。
「はい、勿論です。何時間だって大丈夫ですよ」
駄目だ。そんな事を言われたら無限に甘えたくなってしまう。一生このままでいたくなってしまう。
駄目だと分かっていながらも、圭太郎はソフィアに抱きつく事しか出来なかった。
ありのままの自分を受け止めてくれる存在は、圭太郎にとって余りにも大きすぎた。
他の何者でも無い等身大の綾坂圭太郎が、嫌でも顔を出してしまう。
(師匠に謝りたい。ごめんなさいって、あの時逃げないで言えていたら……もしかしたら今もあの時間が、ああ……駄目だ。思い出したらもう)
涙がとめどなく溢れ出してきた。自分の手で粉々に壊してしまった陽だまり、濁流のごとき後悔が、
(素直に謝っておけば良かったんだ。逃げ出さずにちゃんと頭を下げて、ごめんなさいって。師匠の活躍する姿が見たかった。シュートを決める度に拍手とかしてみたかった。勝ったとしても、負けたとしても、お疲れ様って言いたかった。俺はただたわいもない話とかしながら、あの頃みたいにアイスとか一緒に食べたかったんだ)
もう、子どものように泣きじゃくる事しか出来なかった。
むしろ、これは子どもの頃の圭太郎には、上手に出来なかった事だった。
何も言わずに、何も聞かずに、ソフィアは圭太郎の側で、同じ空間で、共に時を過ごす。圭太郎の嗚咽だけが、部屋に鳴り響いていた。
しばらくして、圭太郎の涙が少しずつ収まり始めると、胸に顔を埋めたままの状態で小さく、だけど確実に聞こえる声で、
「…………ソフィア」
と、圭太郎は呟いた。
「どうかしましたか、圭太郎」
すっと耳に溶け込むような穏やかな声で、ソフィアが返事を返す。
圭太郎は抱きつく力をまた少し強めていくと、次はハッキリとした声で、
「お前とまた会えて……本当に、本当に良かった」
と、伝えた。素直な言葉だった。
直球の、何も包み隠さない、真っ直ぐな言葉だった。
「……んん、その不意打ちは卑怯ですよ……」
水面に波紋が広がるように熱くなっていく顔にソフィアは耐え切れず、ふいっと斜め上に顔ごと逸らす。
圭太郎にはとても見せられない表情をしている自覚があった。
そして圭太郎は強く、強く、ソフィアに抱きついて、ソフィアもまた強く、強く、圭太郎を抱き締め返す。
そのまま三十分近くの時間が経過したところで、圭太郎がゆっくりと腕の力を緩めていき、やっと二人は離れていく。
時の流れと共に色々と冷静になった圭太郎は、スクッと立ち上がると同時に「……アザス……フロハイッテキマス……」と蚊の鳴くような声でソフィアにぼそぼそ礼を告げ、そして足早に、逃げるように、風呂場へと急いで向かう。
自分の弱い部分を晒すのは大層心地よかったが、それ以上にひたすらに恥ずかしかった。
圭太郎は洗面所に入ると同時に、締めた扉に背中を預けて、そこからは耐え難い羞恥心とのノーガードの接近戦へと突入した。
(ああああああああ……!!やってしまった……。幼稚園児じゃないんだぞ、お前は……。寂しくなったからって……今日帰ってきたばかりのソフィアに……くそ……恥ずかしい……っ……!)
圭太郎は両手で頭を抱え、先ほどまでとは違う意味で泣きたくなっていた。
同年代の女子、しかもあのソフィアの前で、それもその腕の中で、胸の中で、赤子のように泣いていたのだ。
お前を本当に何をしでかしているのだと、圭太郎はほんの数分前までの自分を恨まずにはいられない。
しかし、そうやって自己怨恨に励んでいる最中も、
(……でも、いい匂いだったな…………それに柔らかくて……あーもう!何を考えてんだ俺は?!一丁前に思春期か!?そうだよ思春期だよ!!俺にだってあるよ人間だもの!!)
頭の隅っこの方では、ソフィアの温もりを絶賛思い出してしまっていた。
また味わいたくなってしまって、そんな甘ったれな自分を打ちのめすべく、ガンガンと壁に頭を打ち付ける。
(……お、落ち着け。まずは、風呂に入るんだ。そして汚れと一緒に恥を流せ)
夏の夜のカエルみたいに騒ぎ続ける思考と鼓動を置き去りにするべく、乱雑に服を脱ぎ捨てて、圭太郎はそそくさと浴室に入っていく。
ほんのりと石鹸の匂いが香る浴室の中は、暖房を使用したように温まっていた。
多少の時間経過はあれど、前に入った者の痕跡がしっかりと残っている。
(……さっきまでソフィアがここで……)
そのせいで勝手に頭の中に浮かんでくるのは、ソフィア関連のよからぬイメージ図。
浴槽に浸かってる場面や体を洗っている場面、そういう雑念が溢れて止まらない。
(……だ、駄目だ、深く考えるな!これはただの湯!これはただの椅子!残り湯とか温もりとか、そんな変態じみた事を考えるな!)
圭太郎は必死に頭を振った。円周率とか、素数とか、羊とか、そういうものを
圭太郎の葛藤は延々と続いて、疲労が回復するどころか逆に疲弊してしまうという人生初の特殊な入浴となり、僅かでも気を抜いたらのぼせるところだったが、どうにかこうにか意識を保ったままで、羞恥プレイじみた入浴を無事に終える事に成功した。
明日からは自分が先に風呂に入る事を、圭太郎は心に誓った。こんなのを毎日は心身が持たないと思った。
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