後悔
いつの間にかその人を『師匠』と俺は呼ぶようになっていた。呼びなさいと言われた、が、正しいか。
師匠は漫画に影響されて高校からバスケを始めたようで、その熱中ぶりは凄まじかった。
楽しい、好き、そういった感情が一番大事なんだと俺は師匠に気付かされた。
どんなに上達が遅くても、師匠は諦めずに進み続ける。その過程に苦しみなんて感じずに、ただひたすらに楽しそうに、努力を惜しまない。
眩しい生き方だった。俺の生き方と似ているように見えて、全然違う。俺の頑張りには感情が伴っていない。いつしか消えて無くなっていた。
今はもう思い出せない努力の理由が、呪いのように俺の中で機能し続けていただけだった。
どれだけ皆から疎まれて、心が大きく悲鳴を上げても、頑張ると誓った理由があって、それを果たすためにあの頃の俺は精一杯だった。
師匠の行っている努力こそが本当の意味で、頑張るという事なのだと理解した。
羨ましいと思った。俺もそんな風に頑張ってみたいと思った。
勉強や他のスポーツと違って師匠とやるバスケだけは、師匠みたいに無邪気に頑張れた。
本当に、本当に……楽しかった。自然体でいられたんだ。
そうやって高架下のボロいコートで、師匠と二人でワイワイとバスケに励み始めてから二ヶ月ぐらいが経った頃、
『喜べ少年!』
と、師匠は胸を張りながら、
『明日!私は練習試合に出るのだ!』
威風堂々と、自信満々に、ヒーローのように、そう宣言した。
おお、と嬉しく思った。同時に大丈夫か?とも思った。
師匠は初めて見た時と比べれば格段に上手くはなっているが、一般的にはまだ下手な部類ではある。
試合に出れば結果がデータとして表されるようになるので、俺は凄く心配だった。師匠が自信を失ったらどうしようと思った。
『という訳で!景気づけに今日は1on1で閉める事とする!かかってこい少年!』
師匠が自信満々にボールを構えて、俺と相対した。
そして始まった師匠との一対一の戦い。
『……く!やはり手強いな少年は!流石は私の弟子だけある!』
いつも通りに、俺が全て決めて、全て封じて、完封勝ちの流れとなった。
後一点取れば、俺の勝利。今日の練習は終わって、師匠は明日の練習試合に臨む事になる。
――いいのか?このまま俺が勝って、それで終わりで。
それよりも、師匠に一点でも取らせて、自信をつけて帰って貰った方がいいんじゃないかと、俺は思った。思ってしまった。
今でも、後悔している。
『うおおー!私は負けんぞ少年!やらせはせん!やらせはせんぞー!』
最後の攻防。普段なら簡単に抜いて終わらせる場面で、俺は師匠のディフェンスの癖を分かっていたからこそ、自然に防がれた
会心の出来だと思った。完全に、完璧にこなしたと。
『……少年……』
コートの隅に飛んでいったボールを拾いに行っている途中、師匠に呼ばれたので何だろうと振り向いたら、師匠は今までに見た事のない顔をしていた。
『今、わざと……負けたよね?』
早朝に鳴いている鳥のように軽快で爽やかな声が、その時だけは暗く、重苦しいものだった。
俺はボールを持って立ち尽くしたままで、何も言えなかった。そうだとも、違うとも、言えなかった。
『何でそんな事したの!?私は、私はっ!!そんな事されても……なんにもっ……!!』
失敗した。やってしまった。
胸が張り裂けそうになる師匠の悲痛な声が、自分が犯した罪の重さを物語っていた。
分かっていた筈だ、師匠が一番この手の行為を嫌う事なんてのは。なのに、俺はやってしまった。
これは優しさじゃなかった。ただの自己満足だった。いや、自己満足にもなっていなかった。
初めて自分が憧れた人に、俺は屈辱を与えてしまったのだ。
ごめんなさいも言えず、俺は走って逃げた。
後悔のみが胸を埋め尽くしていた。吐きそうだった。
夕飯は喉を通らなかった。一睡も出来なかった。
朝も食べられず、学校では周りの音も聞こえなかった。
師匠に謝らないといけない。早く謝らないといけない。
学校が終わるとすぐに高架下に向かった。
コートには誰もいなかった。
いつもの時間を過ぎても師匠はやって来なかった。
もう少し待っていれば来るかもしれないと、俺はずっとコートの真ん中で佇んでいた。
夜になっても師匠は来なくて、代わりに母さんがただならぬ形相で、俺を迎えに来てくれた。
母さんに抱き締められて、そしたら涙が溢れてきて、止められなかった。押し寄せる後悔が、もうどうしようもなかった。
それから放課後は高架下のコートで佇むだけの時間になった。秋を終えて、冬を迎えても、師匠は来なかった。晴れの日も、曇りの日も、雨の日も、雪の日も、師匠は来なかった。
師匠はバスケを辞めてしまったのかもしれない。
俺は自分を殺したくなった。あんなに楽しそうに頑張っていた人の喜びを、俺は無情にも奪ってしまったのだ。
俺がここに来ていなければ、興味なんて持たなければ、師匠は今も楽しくバスケをやっていた筈だ。
ならこれからの俺は、何事にも興味を持ってはいけない。何も頑張ってはいけない。
師匠から大切なものを奪った俺に、その資格はない。
今日までの俺を、俺は殺す。
天才だった綾坂圭太郎は、終わらせる。
そしてやる気の無い以前までの俺を……いや、それ以下の、愚鈍な綾坂圭太郎を、始める。
…………ああ、そうか。そうなんだ。きっと俺は頑張らなきゃいけない理由を、あの時に頑張って忘れたんだ。
そうしないと一心不乱に頑張り続けてしまうから、俺は必死で忘れたのか。これ以上、誰かを傷付けないように。
これは風化した記憶じゃなくて、封印した記憶。なるほどな、どうりで俺の頭脳をもってしても、一向に思い出せない訳だ。
そうやって己の生き方を強引に再設定した俺は、取り巻く環境を変える事を最優先事項と決めた。
大前提として、過去の俺を知る人のいない学校に行く必要があった。
なら新鋭ながら既に県内トップの進学校で、俺の小学校からはまだ誰一人として入った者のいない、叡峰学園に行くしかない。
それに木を隠すなら森の中だ。叡峰学園に入れば周りのレベルは格段に上がる。
もしかしたら俺でも埋もれられるんじゃないかと思った。
でも実際はそんな事はなく、叡峰に入っても何も変わらなかった。
十と一の差が、十と三の差に変わっただけだった。
それでも少なくとも俺を知っている人間は、叡峰には誰もいなかった。
叡峰に入学してからの俺は、成績は常に下位をキープした。
追試や補習は時間の無駄でしか無いので、赤点にはならないスレスレの点数だけを取って、ひっそりと隅で生きる。
劣等生は居心地が良かった。まず妬みが無い。逆に哀れみの目を向けられる事はあったが、それもまた新鮮で嬉しかった。
叡峰は学力重視。高等部からは成績順で毎年クラス分けをされていく。
上位を目指せば上のクラスを狙う人を蹴落とす事になる。下位であれば他者を傷付ける事は無い。
そうだよ。やっと、やっとだ。俺はやっと誰も傷付けない人生を手に入れたんだ。誰も傷付かない人生を。
叡峰に入ってからの四年間は平和そのもので、こんな俺なんかにもまた友達だって出来た。もうこれ以上望むものなんて、望んでいいものなんて、俺なんかには何も……無いだろ。
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