才能の有無

 英語さえマスターしてしまえば言語の壁という分厚い障害が取り除かれるので、ソフィアと仲良くなるハードルは一気に下がった。英語を覚えた俺は家でも学校でも、暇さえあればソフィアに話しかけていた。

 そうしたら少しずつ、少しずつ、ソフィアが俺と目を合わせてくれて、少しずつ、少しずつ、ハッキリとした声で話してくれるようになった。嬉しかった。

 分からない日本語は俺が英語で教えていた。ソフィアの日本語の先生は、実質的には俺だった。

 気付いた頃には常にソフィアと一緒で、生活の基盤となる場所も和室から俺の部屋に移っていた。寝床を共にするようにまでなっていた。


 俺の積極性の無さはどこへやら、そんな生活の中でいつの間にか消え去っていた。

 期間は約半年しかない。ならその短い間にソフィアに色んな景色を見せてあげたい。だから少し無理矢理にでも手を引いて、俺は色んな場所にソフィアを連れ回した。

 遠い国からせっかく日本に来てくれたソフィアには、この国で良い思い出をたくさん作って欲しい。ただただ、俺はその一心で行動していた。止まっている暇なんて無かった。


 クラスの連中には随分とからかわれた。

『まーた外国人とイチャイチャしてるぞ』『お前そいつのことが好きなのかぁー?』とか、そういう冷やかし混じりに良く囃し立てられていた。

 でも別にそんなの俺は気にしなかった。ソフィアといるのが楽しかったから気にする暇もなかったし、必要もなかった。


 そうやって日々を駆け抜けるように生きていたから、あっという間に半年が過ぎて、あっという間にソフィアとの別れの時がやって来て――その後、俺の人生は一変した。


 すっかりと活動的な人間に変わった俺は色んな事に、手当たり次第に取り組んだ。

 今思い返せば、何か危険な悪霊にでも取り憑かれていたんじゃないかと思う。そう思ってしまうぐらい、あの頃の俺は精力的に活動していた。


 そんな俺に最初は羨望の眼差しが集まった。

 頭何個分も飛び抜けて勉強が出来て、運動も抜群に出来て、その頃から背だってクラスで一番高かったんだ、それも当然だろう。あっという間に俺はクラスの中心になった。自分で言うのも何だが、かなりモテた。

 何かあれば皆が俺を頼ってきて、あちこちから引っ張りだこだった。そして俺も誰かが困っていたら、迷わず手を差し伸べていた。

 もしかしたらあの時が俺の人生の最盛期だったのかもしれない。小五の俺は理想的な人生を送っていた。


 でも六年生になると、俺を見る目は途端に変わった。

 来年からは中学生。早い者は将来を考え始め、中学受験などが始まるこの多感な時期に、羨望は嫉妬に変わった。勉強だけが出来たのなら、運動だけが出来たのなら、どちらか片方だけだったのなら、まあまあ出来るぐらいだったのなら、きっとまだ違っていたのかもしれない。

 塾に通っていた人間からは疎まれて、スポーツをやっていた人間からは目の敵にされた。

 同調圧力というものは何よりも強く、関わってはいけないというような雰囲気が漂い始めると、俺の周りからは次々と人が消えていった。


『綾坂くんは私達とは違うから』『天才は良いよなぁ』『一緒にいると差を感じちゃうよね……』『改造人間』『見てるとやる気が無くなる』

 

 遠巻きに浴びせられる嫉視。些細な身動き一つで、一斉に集まる注目。ヒソヒソと教室内に蠢く嫌味な会話には、どこか諦めが含まれていた。腫れ物扱いもいいとこだった。

 たまに誰かが話しかけて来る時もあったが、それは決まって俺に雑用を押し付けてくる時だった。天才だから何だってお前には簡単だろって、何らかの担当や係、そういったクラスの面倒ごとが俺に不当に集中した。

 だが別に断る気も、嫌だとも思わなかった。確かに俺がやったほうが断然早く終わる、正しい判断だと思った。

 それに頼られるのは嫌いじゃない。それが例え悪意などからくるものであっても、誰かの手助けになるのなら良いとさえ思った。


 ソフィアとの出会いで分かったんだ。あんなに泣きそうな顔ばかりしていたソフィアが、太陽みたいな明るい笑顔を俺に向けてくれた時に、俺は人生で一番の喜びを感じた。

 あの時ハッキリと理解した。俺の才能は人のために存在すると。何でも出来る俺は自分のためじゃなく、出来ない人を助けるためにこの才能を使うべきだと。

 だから俺は泣いている人を笑わせて、困っている人を救い出して、そういう人間になりたい。いや、ならなくちゃいけないんだ。


 何故なら俺は、綾坂圭太郎は、天才なのだから。


 …………だけど、なれなかった。

 そんな日々の中で俺はある日カッとなって、初めて人を殴った。

 事の発端は今の俺でも口に出したくないぐらい嫌なもので、子どもだった俺は耐え切れなかった。耐えられる訳がなかった。許せなかった。

 気付いた頃には事が終わっていて、俺の前には四人のクラスメイトがボロボロの姿で這いつくばっていた。人では無く化け物を見るような目で、俺を見上げていた。

 四対一だったが俺のみが無傷だったので、俺だけが先生にこっぴどく叱られた。

 綾坂くんなんだから大人の対応が出来たよね、先生は多分何の深い意味もこめずに、そう言ったんだと思う。

 だけどその言葉が酷く突き刺さって、ああ……俺は先生からしたら子どもじゃないんだなと思って、体のどこかが痛んだ気がした。

 

 当然母さんが学校に呼び出されて、俺は周囲を囲む大人達に散々問いただされたが、手を出した理由は頑なに言わなかった。言いたくなかった。口を閉ざし続けた。

 母さんが謝っている姿を見るのは辛かった。母さんは何も悪くないのに。

 他の子を下に見てる、心が無い、自分以外を人とも思っていない子、そういう評価を下してくるクラスメイトの親達を、俺はどこか遠くで眺めていた。

 ああ、そうだな、その評価は正しいかもしれないな。

 だって、あの時の俺は確実に、母さん以外の目の前の人間達を、人だとは思っていなかったのだから。


 その日を境に俺は透明人間になった。

 触れてはいけない存在と見なされた。


 父さんと母さんからは、引っ越しや転校をしきりに勧められた。だけど断った。負けた気がして、何か嫌だったんだ。

 だから何も変わらずに、何も変えずに……俺は今までと同じように頑張り続けた。何もかもを振り払うように、一心不乱に前に走り続けた。何も考えずにただ走り続けた。無我夢中だった。

 何故あんなに意固地になってまで頑張り続けていたのか、今の俺にはもう分からない。その理由すら俺はとうに忘れてしまったんだから。


 そうだ。あの日以降、一つだけ変わった点もあった。

 それは放課後に、学校から離れた場所に行くようになった事だ。

 何だかんだ人肌は恋しかったらしい、知らない場所で知らない子達と交流するようになった。


 公園では、いつも一人でいる年下の子と遊んだ。

 まだ嫉妬を知らない年齢の子と遊んでいた。

 普段は無表情なその子の楽しそうな顔が見れる度に、確かな満足感があった。


 図書館では、同年代の子と一緒に本を読んだり、勉強したりした。

 その子は頭の良さのせいで学校で浮いているらしく、何だか親近感が湧いた。

 自分よりも頭の良い人を見るのは初めてだと言われて、少し複雑な気分になったのを覚えている。


 神社では、いじめの現場に遭遇した事もあった。

 俺は咄嗟に間に割って入った。だけど手は出さなかった。母さんの謝っている姿が頭に浮かんで、手を出せなかった。

 無抵抗に殴られて、蹴られて、それでも無言で耐えていたら、いじめっ子達は観念したように立ち去っていった。嵐の中の野良犬ぐらいズタボロにはなったが、されるがままは気分としては楽だった。

 いじめられていた子が自分のせいで、と泣いて謝る姿はいつかのソフィアと重なって、大丈夫だよって、精一杯の笑顔で俺はその子を慰めた。顔中が腫れていたので口を開くだけでも笑顔を作るだけでも、正直滅茶苦茶痛かったけど、そんなのどうでも良かった。ただ泣き止んで欲しかった。

 それからはその子とも、遊んだりするようになった。


 一人でリラックスしたい時は高架下に向かった。

 高架下にあるベンチに座って、電車が通過した時の騒々しい雑音を楽しんだ。

 俺の心に流れている音と似ていたから、その音を聴いていると落ち着けた。


 高架下にはベンチの他に、廃れたバスケットコートがあった。

 いつからか、高校生ぐらいの女の人が、そこに練習に訪れるようになった。

 その人は俺から見てではなく、誰が見ても下手だと思うぐらいにはぎこちないフォームや動きだったけど、とても楽しそうに練習していた。

 見ているこっちも楽しくなってくるぐらいには良い笑顔で、夢中で練習に打ち込んでいるその人を見ていると、自分が矮小な存在に思えた。

 俺はあんな笑顔で心の底から楽しみながら、何かを学んだ事が無かった。どれだけ上手くこなせても、あんな顔は出来なかった。


 知らぬ間に、俺は毎日高架下に訪れていた。そして毎日、その人も練習をしていた。

 ベンチに座って、その人の練習風景を眺める時間は、俺にとって安らぎのひと時となっていた。

 それが日常になって一ヶ月ぐらいが経過したある日、その人が俺に話しかけてきた。

 

『やっほー少年!いつもそこに一人で座ってるけど、何か悩みでもあるのかい?お姉さんに言ってみ!』

 

 底抜けに明るい声だった。近くで見たら更に分かる、やっぱり笑顔が似合う人だ。太陽みたいな人だな、と俺は思った。


 後ろめたい自分の事情を何の抵抗も無く、その人には何故か簡単に話してしまった。

 きっと誰かと気持ちを共有したかったんだ。ありのままの自分を受け止めてくれる誰かが欲しかった。この人なら、って思った。


 俺の辛気臭い身の上話を目を閉じて腕を組んで、うんうんと頷きながら聞いていたその人は、話が終わって間も無く、

 

『ほうほう、才能があるのも大変なんだねー……よし、分かった!私とバスケやろうぜ!』

 

 と、オレンジ色のボールを差し出しながら、満面の笑みで俺に向かって言い放ってきた。白い歯を剥き出しにしていて、それはもうシリアスさの欠片も無い能天気な笑顔だった。真面目に話していた自分が馬鹿らしくなって、俺も何故だか笑ってしまった。


『聞いてた限り少年はバスケはやった事がないんだろ?背も高いのに勿体ないな!バスケ楽しいんだぞ!ボールをダムダムしてると嫌な事を全部忘れられるんだ!それにシュートが入ると気持ちいい!少年も一緒にやろうぜ!』

 

 その人は俺と違って楽観的が過ぎた。でも、良いなって思った。

 たかがスポーツで何かが変わるとは思わなかったけど、この人となら何かが変わる気がした。

 

『うおっ上手いな少年!私の四ヶ月をもう超えやがって!憎いねぇーこのこのっ!だが私は努力の天才なのだ!負けないぞ!』

 

 その人は腕前だけではなく教え方も下手だったが、楽しかった。

 教えられた技術をすぐに覚えていく俺を見ても、その人は楽しそうに笑っていた。逆に何故か自慢げにしていた。

 妬みや嫉妬とは無縁の人間がいる事を、この人を見て初めて俺は知った。

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