止まった時間

 夕飯を食べ終えるとソフィアが食器を片付けようとしたので、流石にそれぐらいは俺にやらせてくれ、とあの圭太郎が自ら進んで申し出ると、当然簡単には引いてくれないソフィアとの舌戦が幕を開き、数分間にも渡る討論の果て、圭太郎は皿洗いの権利をソフィアから勝ち取った。何とも目覚ましい成長である。

 これはもはや単なる雑用の皿洗いでは無く、名誉の皿洗いと言える。どこか誇らしく思いながら、圭太郎がそれを済ませたタイミングで、軽快な音楽がキッチンに流れた。どうやらお風呂が沸いたらしい。

 

「ソフィア。風呂出来たから先に入れよ」

「いえ、圭太郎が先に入ってください」


 圭太郎はタオルで濡れた手を拭いてから、ソファに座っているソフィアの元へと向かい、先に風呂に入るようにと促す。

 当然ソフィアはそれもまた簡単には聞き入れず、圭太郎が先に入るようにと促し返してきた。

 

「日本に来たばっかで料理までしてくれて、疲れてるだろ?早めに風呂を済ませて、今夜はゆっくりと休んだ方がいいぞ」


 来日初日で大いに疲れているだろうソフィアを気遣うように、圭太郎は負けじとそう言い返す。

 飛行機に乗って、荷物を引いて歩いて、加えて料理までしてくれて、そんな疲労満載の一日を送ったソフィアよりも先に自分が風呂に入るなんて暴挙は許される筈がないだろう。

 

「…………そうですね。圭太郎の言う通りです。なら、先に入らせて貰いますね」

「おう、ゆっくりな。俺の事は気にしなくていいから」


 少し考えてからこくりと頷き、ソフィアは立ち上がって風呂場の方に向かい始める。すんなりと引き下がってくれたところを見るに、ソフィアもやはり疲れていたようだ。

 その背中に向かって声をかけながら、入れ違うように圭太郎はソファに深く腰をかけた。

 

「………………ふぅ」


 すぐさま背もたれに体を預けて、全身の力をだらりと抜いていけば、ボリュームのある高品質なクッションに背中が良く沈んでいく。

 そのまま圭太郎は天井を見上げて、ゆっくりと目を閉じた。


 静寂が辺りを包んで、ようやく訪れた一人きりの時間。

 安寧と共に、人が本心と向き合わされる時間でもある。

 

「…………ソフィア、可愛いな……」


 ぽつりと、圭太郎の口から本音が溢れた。

 閉じた瞼の裏には、群を抜いた美少女へと成長したソフィアの姿がありありと浮かんでいる。

 あのソフィアがまさかこうも絶大な変貌を遂げるとは、圭太郎は予想だにしていなかった。


 昔と比べて特に目に見えて変化した点を挙げるとしたら、性格、髪型、身長…………胸、の四点か。

 性格――おどおどと引っ込み思案で常に圭太郎の背中に隠れて俯いていた時とは違い、誰とでも会話の出来る社交的な性格へ。

 髪型――目元を暗幕のように隠していた長い前髪が短く切られていて、隠れていた青い瞳がしっかりと今は露わになっている。

 身長――勿論185の圭太郎と比べれば結構な差はあるが、それでも170は超えているだろう。女性としてはかなりの高身長だ。手足の長いモデル体型だ。

 胸――強く強く存在を主張するように服を押し上げており、とってもたわわに膨らんでいる。意識しないと視線が集中してしまいそうで怖い。


 結論を言おう、理想的な美少女だ。全世界の男の理想と願望を集めて具現化したら、きっとソフィアの出来上がりだと思われる。

 それぐらいに今のソフィアは完全無欠な美少女だ。これに加えて頭も良くて、料理もうまい。今日に至るまでにどれほどの研鑽を積んだのか、自分ごときがおもんみるのもおこがましい。


(ソフィアは前へ前へと進んでいる。それに比べて俺はどうだ)


 はぁ……と圭太郎は深く深く、息を吐いた。

 ソフィアとは違って、自分は格段に悪い方向に進化を遂げてしまった。いや、これは退化か。

 そうならざるを得なかったとは言えども、格段に成長を遂げたソフィアを目の前にしては、嫌でも互いの差を実感させられる。その正反対な歳月の重ね方を。


『だって圭太郎はですもんっ!』


 不意に、数時間前のソフィアの言葉が、圭太郎の頭を駆け抜けた。正しくは一つの忌々しい単語が、頭にこびりついて離れなかったのだ。

 

「天才……ね。それで嫌われてたら世話ねぇよ」


 乾いた笑いを浮かべて、圭太郎は自嘲気味にそう呟く。

 もやに似ている消化不良な感情がぐるぐると圭太郎の胸中を漂って、瞬く間に覆い尽くし始める。


(何も頑張るな。興味も持つな。隅で生きろ。そう決めただろうが、他でもないお前自身が)


 改めて自分の生き方を再確認するように、己の人生におけるモットーを心の中で復唱してから、圭太郎は拳をキツく握り締めて、


(……もう、あんな思いは……二度と……誰にも……)

 

 真っ暗闇な思考の崖へと、その身を放り投げた。

 頭の片隅で思い浮かべる事すら避けていた己の過去に、圭太郎は自ずから触れていく。


 

 ――――――


 

 俺は、綾坂圭太郎は、かつて天才だった。

 いや当然今もそうではあるのだが、昔の俺はその事を今のようにコソコソとひた隠しにはしていなかった。


 初めて自分が普通ではないと気付いたのは、小四の夏。ソフィアが俺の家に初めてやってきた時にまで遡る。

 自覚するには遅すぎるとは自分でも思うが、でも、それまでの俺は自分の事を天才だとは、本当に一ミリたりとも思った事は無かった。

 そりゃ物覚えとかは確かに悪くは無かったけど、それでも周りよりもほんの少し要領が良いだけの、普通の人間だと思っていた。


 自覚が遅れた理由は、きっと俺の積極性の無さゆえ。

 高度な学問を学ぶ大学ならまだしも所詮は小学校、いくら理解が早くたって授業の範囲内から飛び出さなければ、クラスに数人は存在する賢い子どもの一人でしかない。

 普通の天才というのはきっと知識欲が旺盛で、何でもかんでも進んで覚えたがる人種なんだろうが、俺は残念ながら別だった。授業以外で自ら勉強をしようとは微塵も思わなかった。

 チラッと眺めただけですぐに理解出来てしまう内容の教科書、それを四十五分かけてノロノロと牛の歩みで教える授業、でもそれを退屈だとは欠片も思わなかった。もっと次のレベルに行きたいなんて考えもしなかった。

 常に授業の範囲内からは逸脱せずに、教科書の内容を一瞬で覚えて終わり、ただそれだけ。

 

 テストでは百点は当たり前だったが、地方の公立小学校のテストなんてものは誰だって高得点を取れるように作られている。周りとの知能の差を表す指標にはてんでなりはしない。

 塾には行かず、習い事も特にしておらず、スポーツは体育の時間にほんの少し齧る程度。

 才能の発見が遅れるのは、当たり前の話だった。


 そんな風に俺が自身の異常性を認知もせずに生きていた時に、ソフィアは俺の家にやってきた。

 ソフィアと初めて会った瞬間、守ってやらないとって、不思議と思った。

 おどおどしていて、目も合わせてくれなくて、下をずっと向いていて、なのに、泣きそうになりながらも、消え入りそうなか細い声で、辿々しい日本語で、頑張って挨拶をしてくれたソフィアを、俺は一日でも早く安心させてやりたかった。この子の笑顔が見たいと思った。


 そのためにはコミュニケーションが必須だった。

 日本語がまだ上手く話せないのならば、俺が英語を話せば良い。なんて簡単な話だ。

 父さんの書斎から英語関連の本を何冊か掻っ払って、自分の部屋でひたすら読み漁った。貪欲に知識を吸収しようと、初めて本気で脳を働かせた。

 そしたらスポンジが水を吸うみたいにスルスルと、学んだ端から常識として俺の脳に英語は定着していった。

 その結果、初歩的な単語や文法、学んだ範囲の極々簡単なものしか知らなかった英語という未知の言語を、俺は二週間足らずで日本語と何ら変わらないくらいには扱えるようになった。

 最初はこれが普通の事だと思っていたが、父さんから指摘されて分かった。これは普通じゃないと。

 

 自分が周りの人間とは違う事を自覚したのは、この時が初めてだった。

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