ただいま、おかえり

 愛息子には何も告げずにイギリスに母親が飛び立った事を知ってから約一時間後、圭太郎とソフィアは自宅へと辿り着いた。


「着いた着いた、ただいま。愛しき我が家よ、あのソフィアが帰ってきたぞ」

「ふぁ……懐かしい……全然変わってません……」


 圭太郎が玄関の扉を開けると、ソフィアはパチクリと目を瞬かせる。玄関から見える懐かしい情景に思いを馳せているのか、ソフィアは濃淡な吐息を溢している。

 圭太郎にとっては昼ぶりの帰宅であっても、ソフィアにとっては約七年ぶりの帰宅となるので、感慨にふけるのは当然の話である。


「まあ、リフォームとかは別にしてないからな。さて、ほら」


 しかし、いつまでもそうやって軒先に立たせている訳にもいかないので、圭太郎はひょいひょいとソフィアに向かって手招きし、それから顎をクイッとしゃくった。

 

「……どうかしましたか?」

 

 チョウチンアンコウに捕らわれる獲物みたいに無防備に、ソフィアは圭太郎の元へとやって来るも、何事かと疑問符を浮かべている。


「……圭太郎……?」

「ここは日本なんだから帰ってきたら言う事があるだろ?」

 

 ソフィアはまるで要領を得ていないようなので、圭太郎はやれやれと肩を竦めながら、日本の伝統に従うよう伝えた。日本には『郷に入っては郷に従え』という由緒正しき格言があるのだ。

 それに前のホームステイの時には、ソフィアも毎日やっていた筈だ。


「……!」


 圭太郎が言わんとしている事に、ソフィアはやっと気が付いたらしい。ハッとした顔になった。


「圭太郎ただいまですっ!」

「……っとと」


 盛大に抱きついてくるソフィアを受け止めると、その背中をトントンとあやすように、圭太郎は優しく叩いていく。

 

「おかえり、ソフィア」


 懐かしいやり取りだ。常に一緒に帰っていたというのに、わざわざこんな風に帰宅時の挨拶は欠かさず行っていた事を、圭太郎は鮮明に思い出す。心がじんわりと温かくなった。

 脳とは不思議なもので、ずっと忘れていたくせにきっかけ一つでどんどんと、ソフィアとの記憶が奥底から掘り起こされていく。

 それでも何故だか約束とやらについてだけは、全く思い出せないのだが。

 まあでもこれで、名実ともにソフィアが帰ってきた事になる。


「にしても、今日からはお前と二人きりか」


 ハグもそこそこに扉を閉めて鍵をかけ、スーツケースをグイッと持ち上げたら、廊下へと上がる。

 ソフィアとは二年は二人きりになるかもしれないらしいので、色々と決めるべき事は多い。

 とりあえずは部屋選びからだろう。一戸建てなので使える部屋自体は多い。圭太郎はソフィアの方を振り向いて、要望を聞く事にした。

 

「寝る部屋とかはどうする?空いてる部屋ばっかりだから、今なら選び放題だぞ」

「勿論、圭太郎の部屋です」


 何の迷いもなくソフィアが言い切る。それ以外はあり得ないと、ソフィアの確固たる意思が言葉の端々はしばしから色濃く滲み出ていた。

 

「それ以外でな。母さんの部屋でも父さんの書斎でも、和室でも洋間でも好きなとこを選んでくれ。何ならリビングだって許してやるぞ。さあどの部屋をご所望だ?」


 圭太郎はその言葉を華麗に受け流して、淡々とこの家に存在する部屋の実例を挙げていく。むしろ部屋以外もリストには載せておいた。


「圭太郎の部屋です」


 ソフィアが一字一句違わず、また同じ事を言ってきたので、また受け流そうかと圭太郎は考えたが、その選択はすぐに取りやめた。

 一本道のRPGのように間違った方を選んでは、延々と先に進めない気がしたからだ。同じ言葉をひたすらに繰り返される気がする。


「……あのな。良くないだろ、常識的に考えて」

 

 圭太郎は『いいえ』を選んだ。


「でも前回のホームステイの時は、圭太郎の部屋でした。前と同じでいいです。前と同じがいいです」

「その時は小学生だったからな。今とは全然違う。もう高二なんだぞ俺達。今年で十七だ」 

「嫌です。圭太郎と一緒がいいです」


 圭太郎の正論が、ソフィアには全く通じない。

 せめて日本語が分からなくて通じていないのだったらまだ良かったのに、しっかりと正確に意味を理解しているのにその上で通じていないというのだから、尚更性質たちが悪い。

 

「お前な……はぁ……」


 持っているスーツケースから手を離し、圭太郎は頭をぐしゃぐしゃと掻いた。このままではらちが明かない。

 となれば強硬策だ。荒療治が必要だ。押し切られてしまう前に、此方から攻めるしかない。圭太郎は呆れたように溜息一つ、そして次にこう言い放った。


「なら、あの頃みたいに二人で一緒に風呂にも入るのか?このままだとそういう事になるんだぞ?それでいいのか?裸の付き合いがしたいって言うんなら、俺も別に断りはしないぞ。どうなんだ?一緒に風呂に入るのか?」


 信頼関係が無ければただのセクハラでしかない発言。勿論本気では言っていない。ただ自分の言葉の持つ意味をソフィアに自覚させるためだ。それだけだ。他意は無い。

 しかし、ソフィアは圭太郎の言葉を本気で捉えてしまったようだ。


「……はぅ………っ……そ、それって……つまりつまり……!?」

 

 白い顔を一瞬で赤く染め上げて、ソフィアは逃げるように俯いた。頭からは湯気が出始めている。何か良からぬ想像をしているのだろう。ソフィアは両手で真っ赤な頬を押さえて、首をブンブンと横に振っている。キャッキャと恥じらっている。

 

「いや冗談だから。そんな真面目に受け取るなよ。この後の二年間がひたすらに気まずくなっちゃうだろ。まだ初日なんだぜ」


 圭太郎は直ちに今の言葉を撤回した。荒療治とは言えども言い過ぎた。唯一落ち着ける場所である我が家に不穏な空気が漂っていては、圭太郎の身が持たなくなる。

 それに辱めを受けたと公的機関に泣きつかれた日には、己の社会的地位も危うい。叡峰の一般生徒から、黒目線を付けられた名門校のAさんになりかねない。

 

「そ、そうですよね……!……こ、こういうのは順序が……まだまだ約束だって圭太郎は忘れていますし……」


 ソフィアが我に返ったように顔を上げると、こくこくと大きく頷いた。後半の言葉はとてもか細くて圭太郎には微塵も聞こえなかったが、ソフィアが分かってくれた事自体は分かったので、圭太郎はホッと胸を撫で下ろした。

 

「じゃあ、俺の隣の部屋でいいか?前までは物置きみたいになってたんだけど、ちょうど先週の春休み初日に片付けたんだ。何故か母さんが新しいベッドとかを買って来てさ。その部屋に置いてあるから、タイミングが良か……」


 早々に部屋決めの続きを再開。

 最適な部屋がある事を思い出したので、その部屋の説明をしている最中に、


(…………完全にソフィアのための部屋じゃないか。母さんめ、本当にずっと隠してたのかよ。あんにゃろう……)


 先週の大掃除の意味を、今更ながら理解した。あの突然の重労働はソフィアのためのものだったらしい。それならそうと言えば良いものを何故ひた隠しにしていたのか、圭太郎には疑問でしかなかった。

 何もかもが初耳だ。今日という日は圭太郎の人生において、一番驚き尽くしの日に違いない。

 

「……分かりました。ひとまずは隣の部屋で妥協しておきます」

「俺がヒイヒイと血反吐を吐きながら片付けさせられた部屋に妥協とか言うなよ。お世辞でもそこが良いって言ってくれ」


 ソフィアが良しと言ってくれたので、これにて部屋決めは終了。部屋が決まったのならソフィアの荷物をその部屋に持っていくのが、次にするべき事だろう。


「じゃ、コイツを持っていくとしますか」

 

 圭太郎はまたスーツケースを持ち上げて、階段の方へと向かう。その道中、二人暮らしをするにあたってもう一つ決めるべき重要な事柄の存在を、圭太郎は思い出した。


「なぁ、飯とかはどうする?ソフィアって料理出来るのか?……あ、でもイギリスの御方か」

「もう圭太郎ってば失礼すぎますよ!私は大丈夫です!私は何も問題無いです!私は料理もバッチリ出来るようになりました!紗江さんに圭太郎が好きなものとかを聞いてますからね!目に物見せてあげますよ!覚悟しといてください!」

「国の方は擁護してやらないのかよ……」


 固定観念の塊みたいな圭太郎の発言にプンスカとソフィアは怒ったが、母国については一切の否定をしなかったので、圭太郎はほとほと呆れる事しか出来なかった。

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