#知ったかぶりの前口上
ヒサノ
#知ったかぶりの前口上
――我々人類の不幸の根源は、どこにあるのか。
(とは言ってみたものの、なにもここから人間の深淵を覗き込むような話が始まるわけではない。もちろん、黙示的な展開もない。
人が生きているうちに見舞われる不幸について、思うところを少しばかり書き記すだけに留めておく。)
◇
不幸はどこにあるか。簡単な質問だ。
もしも不幸そのものが見たいのなら、世の中を見渡せばいい。幸いなことに、そこらじゅうに見つけることができる。
見ていると胸焼けがしてくるくらいに、実にたくさん、多種多様に用意されている。
自分の周囲には見つからない?(ずいぶんと幸せな方だ)
その場合、自分自身と向き合ってみればいい。どんな種類のものがあるかは知らないが、そこには何かしら、過去から現在に至るまでのよろしくない思い出があることだろう。
◇
もちろん、不幸を見つけたからと言って、不用意に近づいてはいけない。
そいつらは、我々が近づくと、目ざとくこちらを見返してくる。そして下品な笑みを浮かべたかと思った次の瞬間には、こちらに向かって不愉快になるほどの濃厚な投げキッスをしてくる。命中したであろう箇所には、嫌な感触が残る。
さらに近づけば、急に抱きつかれる。一度抱きつかれたら、振り払うのに苦労する。非常に危険な存在だ。
なんと言っても、我々がコントロールできる代物ではないのだ。
忠告しておこう。
決して自分から不幸に近づいてはならない。
◇
それにしても望んでもいないのに、なぜ人はかくも不幸に見舞われるのか。
たいていの人たちは、日常を生きているだけで疲れ果ててしまう。
いまのところの、人類の叡智が用意できている答えはひとつ。
誰が言い始めたのかは分からないが、おそらく冷静で頭のいい人ではあったのだろうと推測される。
格言はこう言っている。人はなぜ、かくも不幸なのか。
――幸せを求めるせいである。
実際には、それだけの理由だったりする。もちろん、この格言を残した人物が幸せだったかどうかは知らない。
なにもかもが嫌になって思いついたのがこの格言だとしたら、我々はその人の後ろから、そっと肩を撫でてあげてもいいかもしれない。
「ずいぶんとお辛かったでしょうね……」
◇
幸せのような――稀なものを求めて――人はあくせく動き回る。
ここで立ち止まって辞書を引いてみると、「不幸」の箇所にはこう書いてある。
『幸せではないこと』
幸せという稀な状態「以外」のことを「不幸」と呼ぶからには、我々の日常全般が不幸であることになってくる。
――えっ、まじか、人ってそんな理由で不幸になるもんなの?
――ええそうです。我々はそんな簡単な理由で不幸になるのです。
そうと分かっていながら、人は恒常的に、ついつい物事が良い方向に進むように、心の中で思惑を作りあげてしまう。
なぜなのかは分からない。
いつでも、どこでも、人は何かを願わずにはいられない。
人はそうなるようにできているのかもしれない。
そんな習性そのものを、悲しみと呼んでもいいかもしれない。
◇
心の中で望むものと、望まない現実との差異。
それこそが不幸を生み出すのだとすれば、これから登場する「若者」たちは、総じて皆「不幸」である。
例えばある時、よかれと思っていた気持ちと、目の前の現実との間に齟齬が生じる。
その瞬間、人は不幸を感じる。
さらに残念なことに「若者」というのは、そのズレを見極める視点そのものが定まっていない。
自分の期待が妥当なものだったのか、そうでなかったのか、それとも僅かばかりでも期待すること自体が間違っていたのか、それすら分からない。
得てして「未熟さ」とはそういう傾向を示す言葉なのだと言えよう。
そうしているうちに、思惑ばかりが先走り、現実との齟齬が広がっていく。みるみるうちに不幸の度合いは強まっていく。
絶望しかけた「若者」は道行く人に尋ねる。一体自分の何が良くないのか。
しかし、誰も親切に答えてはくれない。
――わたしに聞かれても困ります。
もしかすると、誰一人として分かっていないのかもしれない……。
ちょうどそこに老成した雰囲気の人物が通り掛かって言う。
――そこの若者よ、はなから他人に期待なんてしちゃあいけないよ。なんだったら、自分自身にさえも。
そう言われたところで「若者」にはピンとこない。
日常的に誰にも期待せず、ただ黙々と税金を収めるその人の姿からは、屈折した服従心がうっすらと見え隠れしている。
――言ってることは分かるけど、ああいう風になりたいわけでも、ないんだよなあ。
我儘に思われるかもしれないが、なにかこう、程よいものを「若者」の心は求めている。
そして、また願いが一つ増える。
◇
誰一人として不幸と折り合う有効な手段を知らないならば、どうしようもない。
もしかすると、現代に生きる我々は全員、そんな「若者」と大差ないのかもしれない。
年甲斐もなく視点も定まらず、他人の人生のアドバイスを活かす機会すら見失っている。
そう思えてくる。
一度、大きくため息でもついて、心を落ち着けようか。深呼吸でもいい。
◇
現代に生きる我々は、人としての視点が定まらないまま、思惑だけがいつも自分自身より一回り大きく立派に膨らんでいる。
外側の輪郭が、思惑や理想によるもの。
内側の輪郭が、実際の、みすぼらしい現実によって作られる。
それはまるで二重にできあがった容器のように見える。
その輪郭と輪郭の隙間は、気持ち悪い色(お好きな色をどうぞ)をした液体で――頭のてっぺんから足のつま先まで――満たされている。
ちょっとした芸術作品のようだ。
その作品は、現代に生きる人間を精確に描写しようと試みている。
そして近くの白い壁に貼られたキャプションボードには作品の説明が書かれている。
『中に詰まったその気持ち悪い液体こそが現代人なのだ』という作家の言葉も伝えている。キュレーターが用意したものかもしれない。
それは、文明社会が長い年月を掛けて作り出した、人間のひとつの在り方でもある。
――そしていまや、そのズレこそが現代社会の主人公でもある。
(ちなみに、この物語の主人公でもある)
◇
もはや人類は不幸にかまけているうちに、得体の知れない物体に自身の人生の主役の座すら明け渡すことになった。
人間の肉体や脳の中身よりも、その人の抱える思惑こそが、社会から重宝されるようになった。
現代を生きる我々は、せいぜい物分りのいい脇役として、それを見届けるしかない。
◇
果たされざる約束、満たされざる欲望。
位相がズレたまま、社会そのものが揺らぎながら流れていく。
液体は敏感に、社会の抽象的な変化を感知し、共有する。
謎の液体で満たされた現代人は動く度に、チャプチャプと音を立てる。
液体が揺れると、バランスを保つように人の首も一緒に揺れる。
◇
その気持ち悪い液体は、時によって人に与える印象を変える。
それは液体でもあり、固体でもある。
具象でもあり、抽象でもある。
鼻を近づけると、異臭と、かぐわしい香りを同時に発する。
誰かが問いかけると、その液体が振動して答える。
優しさと残酷さを持つ。
好奇心と怠惰を併せ持つ。
そして、美しさと、気持ち悪さを兼ね備えている。
◇
詳しくは知らないが、かつてフランツ・カフカは「人間はただの血の詰まった袋ではないのか?」という内容の事柄を、作中で問いかけたらしい。
出典までは思い出せないが、どこかの名言集に書いてあったような気がする。
とにかく、人間性について深く考えていたフランツ・カフカを連れてきて、我々は彼に問うべきだろう。
「カフカさん、なんだか今はもう、それどころじゃないような気がします……」
◇
――現代のそんな状況は、どうしようもないのかって?
どうだろう。自分たちでは、どうしようもないと思う。たぶん。
いつでもどこでも、人は何かを求めて止まない。
そして求めている本人にすら、なぜなのかは分かっていない。
きっとそれは誰にも止めようがない。
だから世の中の色んなことが、あれこれ、それこれ、どうなっているのかも分からない。
これ以上のことは誰にも答えようもない気がする。
何を言ったところで、それは抽象的な社会についての、抽象的な憶測に過ぎないから。
だからと言って、人間に失望する必要もない。そこは安心してほしい。
たとえどんな状況を生み出そうと、それは決して人間が馬鹿だからではない。
人は誰しも、注意深く考え、判断を下している。数え切れないほどの算段や損得勘定を前提に、しっかりと動いている。
ただ、賢さが裏目に出ているだけだ。
◇
ところで、ビールの美味しさに賛辞を示すために『飲めば飲むほど喉が渇く』という言い回しがある。
どこの国の格言かは忘れたが、おそらく世界中に似たような言い回しはあるだろう。
その言い回しを今ここで、応用して使ってみよう。
『求めても求めても、求めて止まない』
できることなら、そんな人間のあり様を、人生の楽しさを、生きていることの楽しさを、力いっぱい表現するために編み出された姿勢だと思いたい。
脇役である我々は、そう願うよりほかない。
◇
短くとりとめのない文章で申し訳ない。
そして最後に、ひとつだけ命令しておく。
◇
――皆に幸あれ。
#知ったかぶりの前口上 ヒサノ @saku_hisano
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