終点、

@minazuki37



波音が耳を撫で、僕はふわりと目を開けた。


ここは、、、どこだろう。昨日、僕は確かに慣れ親しんだ自分の部屋で、白む空に包まれ憂鬱と眠り込んだはずだ。ここは明らかに昨日までいたその場所じゃない。少し覚めた意識で辺りを見渡す。ここは夢の世界だろうか。それにしては随分感覚がはっきりしている。起き上がろうと身をよじり気づく。地面の感触がない。水の上にさらりとした膜を引き、その上にいるような感触。人差し指をそっと落とすと波紋が広がっていく。触れた指は濡れていない。水面下を覗き込むとそこには空が広がっていた。太陽の眩い光が下から差し込んでくる。


僕は座り込み、状況を整理してみる。目が覚めると見知らぬ場所に、ただ一人。ここはおそらく現実じゃない。いや、現実なはずがない。地面は感触も外観も水面のようで、その下には空が広がっている。そして、上に見えるのは、海、、、だろうか。下からの陽射しをキラキラと反射し、のんびり揺れている。下にある空と、上にある海。では僕がいるここは、、、地上?何かおかしい。全部おかしい。が、しかし、ここはおそらく夢の中。それなら何があろうと不思議では無いし、そこについて考えるのは不毛だ。それに、こんな状況なのに僕の頭にはちっとも不安がない。それが何よりも心地いい。僕は最初そうしていたように水面に寝転んだ。暖かな陽射し。波の音。ひんやりした水面は寝返りを打つたび僕の体に沿う。とろとろとした眠気が僕を包む。その眠気に導かれるまま、僕は意識を溶かした。




目を覚ますと、水面下は茜色に変わっていた。どうやら僕はまだ夢の中らしい。夢の中で眠ると現実に戻るのがセオリーではないのだろうか。ともあれ、僕にとっては喜ばしいことだ。起き上がり、ふと気づく。カラスの声が聞こえる。この世界に僕以外の生物がいたのか。水面下に視線をやると確かにカラスが三羽見えた。しかしあれは、、、生きているのだろうか。三羽のカラスは全く列を乱さず飛んでいる。羽の動き方一つ変わらない。とても機械的で、生命を感じさせない。鳴き声もまるで録音を繰り返し再生させているようだ。波の音にはしっかりと動きがある。やはりここにいる生物は僕だけなのだろうか。そういえば、ここに来てからまだしっかりとこの場所を探索していない。僕はカラスのいる方へ足を進めることにした。


ひた。ひた。ひた。ひた。僕の足が水面に打ち付けられる音が聞こえる。歩きながら辺りを見渡すも、カラスと空以外に変化は見られない。この広く得体の知れない世界に、僕だけが存在している。陽が落ちたのだからこの世界にも時間の概念は存在しているのだろうが、正確に時間を知る術はない。ここに来て半日といったところだろうが、ここでの時間の流れが現実と同じかどうかもまたわからない。だが時間を気にする必要なんてここでは全く無い。時間を有意義に使わなければならないという暗黙のプレッシャーに、ここでは押しつぶされることなどないのだ。ここはまるで僕の理想が具現化したような世界。やはりここは夢の中なのだろうか。それとも、現実の僕が押し潰された末逃げ込んでしまった、いわゆる精神世界のようなものだろうか。もしそうなら、僕はずっとここにいられるのだろうか。気がつけば、遠くにいたはずのカラスがもうすぐそばだ。カラスを追い越し足を止める。水面に寝転ぶと僕はまた眠気に襲われた。自然に眠気を感じ、そのまま眠りつく。現実の僕がもう随分出来ていないこと。次第に思考が止まっていく。心地の良い眠気に抗えないし、抗う必要もない。いつ終わるかわからないこの心地良さを、ただ噛み締めよう。僕は意識を手放した。




次に目が覚めた時、水面下は星空に変わっていた。無数の星が煌めき、一際目を引く満月が海を煌々と照らしていた。辺りを見渡すと、今度は水面下でない、こちら側に何かが見える。遠すぎてまだ何かはわからない。僕はその何かの見える方へ向かうことにした。もうカラスの声は聞こえない。波の音だけがさわさわと響いている。ここに来て、昼間と夕方と夜とを一通り迎えたことになる。もし帰るとしたら、このタイミングだろうか。






















視界が突如異変を捉え、僕の意識が戻ってきた。頭を空に足だけを動かし、もう随分歩いていたみたいだ。目の前に現れたのはクラゲだった。白濁色のクラゲがふよふよ浮かんでいる。カラスの時と変わらず、やはりその場で同じ動作を繰り返すだけ。僕は目を閉じ、体を後ろへ思い切り投げ出した。水膜が突然の重さに大きく歪み、一瞬僕の体を包み込む。波音に耳を傾けゆっくりと呼吸する。それを何度も繰り返す。目を開け、この世界をぼんやりと視界に捉える。宙にある海。水で作られた地上がどこまでも広く続いている。ぐるりと寝返りを打ち、今度は水面下を眺める。無数の星。満月。目を細めたくなるほど眩しい。次に眠り落ちた時も、この世界は続いているだろうか。でも僕には予感がする。次に目が覚めた時、そこに広がっているのは狭く慣れた僕の部屋だという予感が。眠らなければ、ずっとここにいられるだろうか。しかしこんな時でも、眠気は無常に襲ってくる。この眠気を僕はよく知っている。気分が悪い。焦燥感が止まない。渦巻く眠気と焦燥感が、僕をどうにもしてくれない。僕は声を上げて泣いた。ここには僕しかいない。どれだけ僕が泣き喚いても、迷惑を被る人間はいない。こんなに声を上げたのは子供の頃以来だ。どうにもならない僕を、思うまま吐き出して良い場所がある。それは少し、僕の苦しさをマシにしてくれた。ひとしきり泣き上げて、もう声も枯れた頃、僕の心は再び平穏を取り戻した。ぼんやりとクラゲを見つめ続ける。クラゲはやはり、何も変わっていなかった。僕はクラゲにそっと触れる。柔らかく、温かい。クラゲは変わらず動き続けている。クラゲにそっと口付けをする。クラゲは変わらず動き続けている。なんだかおかしくなって、僕は小さく笑った。そして最後の眠りについた。








鳴り響くアラームを一秒も聞かず止める。大嫌いな音。だから僕の寝起きはいい。最も、そのまま動き出せばの話だが。スマホを起動し、日付と時間を確認する。現実で眠りついてから五時間ほど経過している。いつもと同じだ。けれど、僕は夢の世界での出来事をついさっきのことのように鮮明に覚えている。水膜の感触も、波の音も、夜空の眩しさも、全て鮮明に覚えている。だから。









僕という存在をろくに意識しなくていいことで、こんなにも頭が軽いものかと感動した。こんなに清々しい気持ちでいられたのは、もういつぶりかもわからない。人々の話し声も光度の高い世界もどこか他人事で、駅員に道を尋ねるのに決心もいらない。とてもいい終幕だ。僕は今、僕の人生を終わらせる場所へと向かっている。起きた頃にはもう決心が固まっていた。人が少なく、景色の綺麗な場所を探し出し、今、僕はそこへ向かっている。どこへいくにも行動を共にしていた、命綱みたいな赤い札も家へ置いて、スマホと財布とイヤホンだけ引っ掴んで外へ出た。いつも重たい玄関が軽くて、開けた瞬間の外の空気の美味しさには、思わず顔が綻んだ。外出の際欠かさず流していた音楽。僕に寄り添う暗いものでなく、今は、流行りものや夢や希望や応援歌。心が突き動かされることはないけど、聞いていられた。それこそが僕にとって強い意味があった。夢の世界はとても美しく、心地よく、僕の理想そのものだった。そんな世界を体験し、目覚め、ここにしがみつく意義を僕は完全に無くしてしまった。いや、ようやく無くすことができた。ようやく決心がついた。最期ぐらい、夢で見たのと同じくらい、綺麗な景色の下で亡くなりたい。久しぶりに僕に芽生えた能動的な気持ちだった。僕の終点を知らせるアナウンスが聞こえる。電車を降り、目的地へさらに足を進める。もうすぐだ。はやる気持ちを落ち着けるため、僕は呼吸の速度を落とす。しかし、そんな行動とは裏腹に、僕の足は速度を上げていく。それに身を任せ、思うまま駆け出す。澄んだ冷たい空気が僕の体を隅から隅までくすぶる。気持ちいい。目的地に近づき、ようやく足の動きが落ち着く。息が苦しい。だが、僕は笑っている。ああ、僕、生きてる。今まで僕が苦しみもがいてきたのはこの瞬間のためだったのだろうか。それならば今までの僕も報われる。人が自ら命を断つ瞬間が苦しいものだなんて、悪いことだなんて、決められていいものじゃない。少なくとも今の僕の心は、僕の死の間際は、こんなにも穏やかだ。今ここから飛び降りれば、僕はあの場所に還れるだろうか。いや、きっと還れる。僕があの世界から目覚める瞬間もそうであったように、予感がする。


目の前をみる。青空、山々、清い川、雑踏、人の気配。僕の嫌ったこの世界、全てが美しい。いい終幕だ。最後の旅に出たこの瞬間、僕は僕の人生をようやく愛することができた。最期の旅を以て、僕は僕の人生に最高の終止符を打つ。死とは本来そうした綺麗な完結であるべきなのだ。僕は目を閉じ、体を後ろへ思い切り投げ出した。次なる目的地は、またあの夢の世界へ。

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