4分10秒小説『閉鎖水族館のナマコ』
壁のペンキ所々剥げ落ち、かつて体をくの字に曲げて微笑んでいたはずのアシカの絵、今は一つしかない眼で凄みを利かせ、蒼天を睨んでいる。閉鎖された水族館。
飼育員はとうに引き払い、漁師や他の水族館の職員、ボランティアといった面々によって、水族館の生物達は海の戻されたり、引っ越しをしたりで、それぞれ新天地に旅立っていった。水槽の水は抜かれ、お置き去りにされた機材に吹いた塩、白い結晶体を錆びに侵食させて苦いお菓子のような様をしている。
屋外にプールがある。潮が引いた海岸の岩場を模したタッチドプールと呼ばれる設備、かつては子供たちが手を浸し、海の生き物に触れる体験をするための小さなプールだった。
いまやプールの海水は炎天下にじわじわと音を立てて蒸発し、死海よりも濃い塩分濃度。プールに残されていた人の目に映らない小さなヨコエビやプランクトンといった生き物たち、しぶとく生き残っていたが、過酷な環境に耐え兼ねついに死滅した。そんなプールの隅、1個の塊があった。赤黒いうねうねとした塊、プールで遊んだ子供の誰かが、うっかりと臓器をひとつ落っことしていったのだろうか?いや、塊が口を開け、水流を吐き出した。生きている。塊はナマコだ。閉鎖水族館に一人、いやひとつだけ残されたナマコ。
ナマコは絶望していた。
人間たちが無為に創った即席の地獄で、のたうち回る体力すらとうに失せ、最後の時を待つばかりの自分に。ふしゅー、海水を吐き出す。体液の塩分濃度をなんとか生きている海と同じ濃さに保とうと抗う。しかし限界は間近、生理機能は失われつつある。今となっては、子供たちに乱暴に掴まれ、岩に打ち付けられた日々さえ、楽し思い出。
ナマコは失望していた。
自分をここに残していった人間たちにだ。自分を生命と認めなかった人間たち、バケツを持った作業着の若い男、ナマコを掴んで年配者に話しかけた。年配者は笑いながら首を振った。若い男は笑いながらナマコをプールに落とした。飛沫が跳ねた。若い男の長靴が、ナマコを跨いで遠ざかって行った。ナマコは唖然とした。当然自分も他のナマコやヒトデと同じく、バケツに入れられて、旅に出るのだと確信していたのに。
ナマコは自分の体を眺めた、体色はドス赤黒く、半身だけ丸焦げた生肉のよう。人間の嫌悪感に訴えかけるには十分だったのだろう。赤青黄色のヒトデ、白いナマコ、彼らのように人間の意識に好ましく映る容姿を自分は持ち合わせていない。ナマコはぐったりと海底に身を伸ばし、水面を見上げた。太陽がぐにゃりと揺らいでいる。自分を殺してやろうと、殺意を抱いて揺らいでいる。
ナマコは怒りに震えた。
ふざけるな!と叫びたかった。自分も命であることを声高に訴えたかった。笑いながらプールに落とした若い男の脛に、首を振った年配者の足の甲に、できうることなら噛みついてやりたい。しかしナマコには、それを実現する器官も手段もない。
醜くても生きている。美しくなければ、生きてはいけないなんて、そんな残酷な理でこの世界は縛られてはいないはずだ。
「海に還るだけだ」そう呟きたかった。だがここは海ではない。ナマコの望む海は、はるか彼方。それでも――
ナマコは諦めてはいない。
死を以て命を表現しようと画策している。といより、期せずともそうなる。ナマコは遠からず死亡し、その体をより醜怪に変性させながら、腐っていく。僅かに残った苦い海水を、耐え難い悪臭放つ毒水に変える。
嗚呼、かつて過ごしたあの海、空と同じ色、空に浮いているような錯覚をした。ただ海水を吸って吐くだけの日常が、とても美しいと思えた。今はもう、自分の感情がわからない。
いつの日か再び人間が訪れた時に、死そのものをまるごと気化させたような悪臭に咽び、目をやられ、感情のない涙を流すがいい。
ワタシも涙を流そう。微かに青を宿した涙を。できるだけ海と同じ濃さの涙を。
だから誰か認めておくれ、、ワタシの涙と海との類似性を……海みたいだと……そう言っておくれ……
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