第7話──4「夢を見せる塔」


  6


(……これは。精神にまで作用する魔法。わたくしたちはおそらく昏睡状態に陥って、夢の世界に落とされている)

 ルーヴは周りを確認しながら、そう分析している。自分でも意外なほど落ち着いていられていた。置かれている状況、景色はこの上なく最悪で、もう二度と目にしたくないと願っていたものであるのに。

 おそらくはこれが魔法の一種であると気づけているからだろう。そして、プティと手を繋いで抱き寄せられているからだ。彼女が別の夢の世界に送られていたら、おそらく冷静ではいられなかった。一緒にいられたのは、精神的にかなり大きい。落ち着かなければ、娘のためにと気を保っていられる。

 よく見覚えのある、広いエントランスtにルーヴたちは立っていた。無駄に並べられた鎧や剥製、絵画の数々。正面に伸びている二階への階段もやけに広がっていて、空間はあるのにひどい圧迫感を覚える。

 そこに初めて足を踏み入れた時から、ひどく息苦しかったことを今でも思い出す。この場所は、あの男の存在そのものを表わしている。鳥籠や、檻。あるいはショーケース。自分はそこに囚われた、「物」に過ぎなかったのだ。

「……大丈夫、プティ。これは夢。悪い夢だから。落ち着いて」

 ルーヴの手を強く握りしめて、体に縋るようにしがみついてくるプティの背中を撫でてやる。彼女は、震えていた。もう二度と、彼女をここまで怯えさせないと誓ったのに。ルーヴの神経がささくれ立つ。

 今自分たちの掛けられている魔法は。おそらく対象者の記憶に関係した夢を強制的に見せるものだ。

 自然の力を操る精霊魔法。人間や動物、魔物などの体に作用する妖精魔法。そして、精神や心など、人の深いところまで侵す、禁断魔法。これはつまり、それだ。

『禁断魔法。それだけには手を出してはいけない。魔法を扱う者としての責任ってやつだと、先生方には口をすっぱくして言われたもんさ』

 ぶっきらぼうな口調の祖母の声が過る。ルーヴに妖精魔法を授けてくれた、プティを覗けば人生で唯一の味方でいてくれた人。

 そう教えられた禁断魔法が、どうして彼女の通っていた学校に存在しているのか。ルーヴは不可解でならない。

(……とにかく、目覚めることを考えないと。こういう場合は特定の条件がありそうだけれど)

 一度掛けられてしまえば永遠に目覚めることがない、という可能性はとりあえず考えないことにした。わたくしにはプティがいる。彼女を危険に晒すわけには、絶対に行かない。何とかここから脱出しなければ。

「……なんだ。もう戻ったのか。結局お前は、俺なしでは生きていけないということだな」

 目の前の階段の上から。この世でもっとも耳にしたくない声が響いた。

「……アンドロゼン」

 顔を上げると、階段の踊り場でこちらを見下ろしている男がいた。整えた身なり、オールバックの髪に、左目のモノクル。自分は高貴な身分である、と全身で示すかのような佇まい。

 人が良さそうな笑みは、外面に過ぎない。彼はそうやって人に取り入る。そういうのが得意なのだ。

「お前が逃げたことは不問にしよう。さ、親子水入らずの時間を過ごそうじゃないか。プティ、おいで。パパとご飯を食べよう」

 階段を降りてくるアンドロゼン。ルーヴはプティを後ろに庇っている。

 正直、震えてしまうほど恐ろしい。この男にされた仕打ち。それを身体が覚えていて、反射的に竦んでしまう。本能的な嫌悪と、恐怖。それは抑えられない。

 だが、これは夢だ。夢なのだ。目の前の男は所詮、自分の記憶から生み出された幻に過ぎない。言い聞かせて、ルーヴは奮い立つ。

「……それ以上近づかないで」

 妖精魔法を込めて、アンドロゼンに呼びかける。しかし彼は平然と歩みを止めず階段を降りてルーヴたちの元へ来ようとしている。

「妖精魔法。お前のそれを魔石に出来たら、いくらでも金になるんだ。プティもその力を持っているんだろう? 大丈夫、悪いようにはしない。ほら、こっちに来い。今なら許してやるぞ」

 笑みを顔に貼り付けたままこちらに手を差し出してくるアンドロゼン。吐き気がした。

 夢の中の存在だからか、妖精魔法が通じない。ならば。

「……プティ。少し後ろに。それから、目を閉じていて」

 心配そうな彼女を撫でて微笑みかけ、自分よりやや後ろに下がらせる。

 アンドロゼンが一階に降りてきた。相変わらず歩み寄る速度は一定で、余裕すら感じさせたままこちらとの距離を縮めてくる。

 そういう男なのだ。自分が圧倒的優位で、相手を追い込んでいると感じる状況を好む。

 腹立たしい。目の前の幻よりも、あの男のそういうところを鮮明に覚えている自分が何より。これが自分の記憶が再現されている夢の世界だというのなら、そういうことなのだろう。

 もう逃げ出したはずの男の影に、未だに自分は怯えている。そう自覚させられたことに苛立ちがぶり返してくる。

 歩み寄ってくるアンドロゼン。ルーヴは後ずさりしない。あえて、こちらから歩いて近づいていった。

「ん? 何だ、言う通りにも出来るのか。それでいい。最初からそうしていれば良か……ふぐっ⁉」

 両手を広げて余裕綽々といった様子で愉悦に微笑む男の傍へ行くと。ルーヴは右足を思い切り振り上げて股間を思い切り下から蹴り飛ばした。

 アンドロゼンの体が一瞬浮き上がり、その顔が苦悶一色に染まったかと思うと崩れ落ちるように股間を抑えたまま倒れた。

 ルーヴは大きく息を吐いて、昂った鼓動を押さえながら。こちらに頭を垂れるような体勢になった男を見下ろす。

「……夢の中といえど、五感はちゃんと働いているんですのね。最悪な触感が足に伝わって来ましたわ。ずっとやりたかったことが出来て、ようやくすっきりした」

 現実ではまだ出来ていないから、幾分か清々しい気持ちになれた。

 不意に悶絶していたアンドロゼンの姿が薄くなったかと思うと、そのまま消失していった。幻が晴れたのか。

 後ろにいたプティの元へ戻り、そっと抱きしめた。

「……もう、大丈夫だからね。あの男は、もういないから」

 背中をさする。彼女はまだ震えていたが、泣くことはない。いつもそうやって感情を内面に溜め込んでしまう彼女が、心配になる。きっとあの男との日々が、彼女をそう縛り付けた。……もう一発くらい、蹴っ飛ばしておいてもよかったか。

 ふとまた世界がブラックアウトした。ルーヴはプティをぎゅっと傍に抱き寄せる。「離れないで」と囁いて、彼女のしがみつく腕の感触を確かめた。大丈夫、離れない。離さない。

 目が覚めた、という感覚があった。ルーヴは塔の、図書館のようになった空間の二階部分。罠に不意を突かれた場所でそのまま横たわっていた。どうやらフィーリーが例の本を開いた瞬間に意識を奪われたようだ。

 とりあえず抱き寄せていたプティの姿を確認。彼女はちゃんとルーヴの傍に寄り添うように横たわっていて、目を覚ましたのかやや眠たそうな眼差しでこちらを見ていた。無事そうだ。ぎゅっと抱いた。

 身を起こすが、意識を奪われる前に一瞬見えた巨大な本のような姿をした魔法の罠はどこにもいなかった。発動してすぐ消えるタイプか。

 風の流れを感じて目を向ければ。フィーリーが本を抜き出した本棚だった壁が、ぽっかりと消えていた。その先は通路になっていて、階段が見える。おそらく屋上に続くものだ。本を抜き取ったことで、道が開かれたらしい。

 すぐ傍に、フィーリーとシザクラも倒れていた。二人とも意識を失っているようだ。今のルーヴたちと同じように、夢の世界に落とされているのか。

「フィーリーちゃん。シザクラさん」

 抱き起こして揺すってみるが、目を覚ます気配はまったくない。魔法がまだ作用しているようだ。

 自分はどうして抜け出すことが出来たのか。ルーヴは顎に手を当てて考える。アンドロゼンの股間を蹴り上げた。あれが蜘蛛の糸だったのか。

 夢の世界だと認知するだけでは脱出できなかった。おそらく、自分の過去に囚われずに振り払うこと。それが鍵だ。

 ならば向こうの世界にいるフィーリーやシザクラたちが、自ら過去をうち破る他ないのか。だが、それだと歯がゆい。何か手はないか。

 ふと、プティがルーヴの服の袖を引いてきた。目をやれば、彼女は本棚の壁の一画を指差している。そこの本が一冊、ぼうっと光を帯びていた。彼女が魔力を込めて、わかりやすく示してくれたのだ。

 ルーヴは魔力を使う。本が抜き取られて、手元へと吸い寄せられる。

 ページを開いてわかった。妖精魔法に関する本。祖母が話していたのを思い出す。この学校にはいくらでも魔法に関する本があるから、貪るように読んで勉学に励んだと。

(……ありがとう。おばあ様)

 プティの髪を撫でて礼を言いつつ、ルーヴはページを捲っていく。

 禁断魔法の解き方。人体に作用する妖精魔法なら、出来るはずだ。傷だって癒せる。だが精神まで掛かったものは、取り除けるのか。……やるしかない。

(二人とも、頑張って)

 もし夢の世界の過去に囚われてしまえば、どうなってしまうのか。なるべく最悪なことを考えないようにして、ルーヴは打開策を探った。


  7


 ぼやけた霧の中にいるみたいだ。

 フィーリーは歩きながら、ずっと周りの景色を見渡している。夜の森、なのだろうけれど。どこか朧げで、薄暗くはっきりしない。霧が掛かって視界が利かないのに似ている。

(これは夢……? 夢の世界、なのかな)

 魔法の気配を、フィーリーは感じとっている。母親が目印を残してくれていた本を開いたところまで覚えていた。そして、不意に背後に巨大な本のようなものが現れて視界が暗転したことも。

 シザクラも、ルーヴたちもいない。おそらく夢で隔離された。意識だけが、今こうして夢の世界を彷徨っている。

 ……禁断魔法。思い当たるのはそれだ。相手の意識を奪い、夢の世界へと閉じ込める。精神へと作用するのはそれに他ならない。

 だけれど、何故急に。今までの塔での罠は、普通の魔法が主だった。魔法使いなら難なくくぐり抜けられるものばかりだ。

 最後に急に禁断の魔法を使った罠が張ってある。魔法を教える学校だった場所で? 禁断魔法は禁忌だと、魔法使いは誰もが心得てるはずだ。不可解だった。そんなものが魔法の聖地であるここにあることが。

(……誰かが、罠を張っていた……?)

 ふとその可能性がよぎる。廃墟となったこの塔に、入り込んで既にある防衛魔法とは別に、誰かが禁忌魔法を罠を新たに仕掛けていた。

 だが、何のために。フィーリーはここに来る前、母親が残したらしき本を読もうとしたのを思い出した。あの瞬間、罠が発動した気がする。それが条件か。

 とにかく一刻も早くここから出なければ。だから歩いて出口を探しているのだが一向にそれが見当たらない。

 何か条件があるのか。夢から覚めるための条件が。

『……リーちゃん。フィーリーちゃん。聴こえ……すか……?』

 ふとどこからか声が聴こえてきた、ような気がした。

 ルーヴの声だ。彼女は目を覚ましたのか。妖精魔法で、おそらくこちらの意識に働きかけているのだろう。

『今いるのは、あなたの過去の夢です。それを断ち切れば……目覚め……』

 不明瞭だが、確かにルーヴだった。彼女はここから抜け出す方法を教えているのだ。過去の夢。それを断ち切る。どういうことなのか。

「ルーヴさん! 聴こえますか! どういう意味ですか!?」

 聴き返すが、返事は返ってこなかった。彼女の声は聴こえなくなってしまう。

 今いる場所が、自分の過去の夢の世界。そういえば確かに、魔法の師匠と暮らしていたあの森の中に似ているかもしれない。でもどこか焦点が合ってないように景色が歪んでいるのは何故なのかな。

 その答えは、すぐわかった。

「なっ……!?」

 何かの気配。フィーリーは本を手元に召喚しつつ振り返る。魔法は、使えるみたいだ。だが。

 木々の隙間、そこからこちらを見ている二人。どこか覚えがあった。いや、そんなものじゃない。

 片方は、百合の花のビジョンで見た、人間の方の母親だった。

 そしてもう片方の姿は、はっきりとしない。そこだけ白い靄が漂っているように、視線が合わないように。存在感が薄いのだ。いるのに、いない。見えるのに、見えない。まさに影。

 二人は立ち尽くすフィーリーを見るとにこりと笑って、こちらに手招きする。呼んでいる。こっちへおいで。私たちはここにいるよ。誘うように。

 フィーリーは目を見張って。それから肩を落とし、ゆっくりと息をついた。虚脱感が体にのしかかるようだ。

 俯いて足元に目を落としたのは、母親たちらしき姿に呆気に取られたからじゃない。彼女たちのそれが、あまりにも伽藍堂だったからだ。

 風景がぼやけているわけがわかった。記憶がおぼつかないからだ。人間の母親の方の姿は鮮明なのに、サキュバスの母親の姿が朧げなのは、その顔を知らないからだ。人間の母親は、百合の花のビジョンで見ていたからこんなにはっきりしている。

 二人はただフィーリーに向かって笑って、手招きを繰り返す。ひどく無機質なのはフィーリーがその所作を知らないからだ。呼びかけてこないのは、その声を知らないからだ。

(……私。この人たちの名前も、知らないんだ)

 そうだった。師匠は、教えてくれなかった。あの人は徹底的に、フィーリーと両親との距離を取ろうとしているみたいだった。母親が残したらしき手紙にも、自分の名前は記していなかった。

 先ほど聴こえたルーヴの声は、これは自分の過去を映した夢に過ぎないと言っていた。断ち切れば、消える。

 私には、過去がない。この人たちとの過去は、繋がりは何も。手の中からすり抜けていくような感覚が、フィーリーを何より打ちのめした。

 だけど。

 フィーリーは本を召喚し直す。詠唱。展開する言葉のリングたち。魔法の照準は、未だに手招きを規則的に続けている、母親たち。

 わかっている。ここは夢の世界。あれはただ自分の虚ろな記憶を映し出した幻影に過ぎない。そうはっきり自覚できてしまうのが、今のフィーリーには少し空しかった。

「……ごめんね、お母さんとお母さん。会えたら二人のこと、ちゃんと聞かせてね」

 そう。会えたら聞けるはずなのだ。今は空っぽでも、満たせる希望はある。そのために私は、ここまで旅をしてきたのだから。

 記憶を断ち切る。そのためにフィーリーは、手招きする二人に向かって、炎の渦を解き放った。

 朧げな幻想は、歪んだ周りの森の景色と共に燃えていく。同時に、急に視界がブラックアウトした。真っ暗な空間に放り出されたみたいだ。

 起きた、という感覚がある。目を開けると、座り込んで心配そうにこちらを覗き込んでいるルーヴとプティの姿が見えた。

「……ルーヴさん」

「フィーリーちゃん。良かった。起きてくださって。わたくしの声は、届いていましたか?」

「はい。ありがとうございます。おかげで起きられたみたいです。……シザクラさんは?」

 彼女の姿がない。気だるさが残る体を起こし損ねて、ルーヴに引っ張り起こしてもらった。周りを見る。

 本棚だった壁が開いて、屋上への階段が出現している。いや、そんなことより。

 シザクラが本棚の壁に寄りかかるようにして眠っていた。上着は、ルーヴが自分のものを掛けたのだろう。彼女は、起きていないのだ。まだ夢の世界へと落ちているのか。

「……ルーヴさん、これは」

「はい。どうやらわたくしたちは、禁断魔法の罠に掛けられたみたいです。意識を奪い、自分の過去に関係する夢の世界に強制的に落とされる。それを振り払えば起きられるようなのですが、もし、出来なければ──」

 ルーヴは言葉を途中で止めて、未だ眠ったままのシザクラに目をやる。きっと出来うる限りのことは試したのだろう。だが、彼女はまだ起きない。夢の中にいる。

「……シザクラさん。起きてください。あなたがいるべきなのは、夢の世界じゃない」

 フィーリーはそっとシザクラの傍らにしゃがみ込むと、ぎゅっと彼女の体を抱きしめた。温かい。胸に耳を当てれば鼓動を感じる。だから。

「……起きて。私を、置いていかないで」

 震えそうな声で。フィーリーは呼びかける他なかった。

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