第7話──5「夢から醒めると」


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「君に見せたかった、とっておきの場所があるんだ。付いてきて」

 無邪気に笑って振り返りながら先に歩いていく少女――テフラは、シザクラにそう言って誘った。

 シザクラはぼんやりとしながらそれに付いて行く。何が起きている。混乱していた。煤けたような空気のスラム街を、二人で歩いている。よく知っている風景だった。

 汚れた建物のひび割れたガラスを見れば、幼かった自分が映っていた。あの頃に戻っている。夢? だがあまりにも鮮明すぎる。

 戻らなきゃ。そう思うが、どうしてなのかシザクラにはわからない。

(戻るって、どこに? お父様は王都に呼び出されていて、今日戻ってくるのは夜遅い。家に戻るのは、もう少し遅くてもいいはずなのに)

 使用人たちも、シザクラはまだ学校にいると思いこんでいるはずだ。日が暮れ切る前に家に戻ればなんの問題もない。

 戻るってどこに? 再び問う。せっかくテフラに会いに来たのに。もう家に帰るのはもったいなすぎる。彼女と一緒にいたい。

「ここから行けるんだ。この前見つけてさ。くぐって向こう側に出られる」

「えっ。街から出るの……?」

 テフラが案内してくれたのは、スラム街の隅、石造りの塀に穴が空いている場所だった。子供の自分たちなら、何とか通り抜けられる大きさだろうか。

 この街は、外周をぐるりと城壁で囲まれている。魔物の侵入防止だと、この地の領主であるシザクラの父は語っていたが、テフラは「何だか私は、狭い場所に閉じ込められているように感じるよ」と言っていた。詩的な表現を、彼女はよく好んで使う。

「大丈夫。すぐ傍だから。この前行った時も魔物と合わなかったし、安全だよ」

「でも、もうすぐ日も暮れるし……」

「夜になる前に帰るよ。大丈夫さ」

 テフラは迷いなく穴を潜って行ってしまう。仕方なくシザクラもそれに続いた。

 シザクラは初めて街の外に出る。魔物のことは知っていたが、実際に目にしたことはない。不安ではあったが、テフラが一緒だから大丈夫だろうという想いもあった。大胆な行動をする彼女は、臆病なシザクラをよく引っ張ってくれる。

(え……?)

 穴を抜けて、テフラの手を借りて立ち上がった時。ふと時間が飛んだ。気づけばシザクラたちは、丘の上に立っている。

 違和感。何か、変だ。私達はどこを経て、ここに来たのか。まるで場面が移り変わったかのような。夢を見ているような、唐突な感覚。

「ほら、いい景色でしょ?」

 だがそんな想いも、テフラが指し示した丘の先の景色を見たことですぐ薄らいでしまう。

「わぁ……!」

 沈みゆく夕日。それに照らし出されて橙色に染まる、シザクラたちの街が一望できた。こんなにも大きく、こんなにも綺麗な街並みだったのか。心が、震えた。

「ね、いいところでしょ? この景色を、君と一緒に共有したかったんだ」

「よくこんなすごい場所見つけたね。さすがテフラ」

「えへへ。洞窟を見つけたからさ、ちょっと勇気を振り絞って入ってみたんだ。少し探検してすぐ出るつもりだったんだけれど、思いがけずここに出たんだ。たぶん、大人も誰もここを知らないよ。シザクラも、怖かっただろうによくここまで付いてきてくれたね。ありがとう」

「……テフラがいてくれたからね」

 シザクラがはにかみながらそう言うと、テフラは一瞬目を丸くして、それから微笑み返してくれる。

 彼女はそっとシザクラの小さな手を、両手で包み込むように握った。

「私もね。多分シザクラがいてくれたから、勇気が出せたんだと思う。君のために、素敵なものを見つけたくて。ありがとう、私の世界を拡げてくれて」

 そう言われて。何故だかシザクラは、泣きそうになってしまった。テフラはいつも、シザクラが一番欲しい言葉をくれる。それがささくれた心に、そっと染みてしまうのだろう。

 騎士団学校に通わされているが、シザクラはその厳格な雰囲気や志が高そうな学友たちにどうしても馴染めなかった。

 レンケン家は、代々騎士団学校を経て王都所属の騎士団へと配属される。優秀な兄たちは難なく卒業し、名のある名家生まれの友人たちを作り、騎士団へと入っていった。

 だがシザクラは。どうしても騎士団に自分が入る意義というものを見いだせなかった。王都のために、この世界を生きる人たちを守るために、剣を取る。そんな未来の自分を想像出来なかったのだ。

 おかげで勉学や戦闘訓練にも身が入らず、成績もあまり振るわなかった。父親から叱責を受けることもあって、どんどんやる気を失っていってしまう悪循環。

 そんな生活の中で、ふと気分がしたくなりシザクラは誰にも言わず家を飛び出した日があった。ちょっとした家出のつもりだった。広いこの街、自分が普段行かないような場所に出向く冒険、気分転換のつもりだった。家と学校を往復するルートから、少しでも外れてみたくなったのだ。

 最初は良かった。いつも一人では出向けない商店街へ。店に入らずとも、ショーウィンドウに並ぶ衣服や武器防具を眺めているだけで楽しかった。お付きの者もおらず、一人で歩き回れる自由というのもそれを彩ってくれていたのだろう。すっかり時間を忘れて、シザクラは歩き回ってしまった。

 そうして時間を忘れて散策に夢中になっていると、すっかり日が暮れてきてしまった。そしてわくわくと歩き続けていたせいで、自分の土地よりも遥か離れた場所に来てしまっていることにようやく気付いた。

 それがあの、くすんだスラム街だった。薄暗くなってきた時間帯というのも相まって、自分が普段過ごす場所とひどく空気が異なるその空間は、シザクラをひどく不安にさせた。だが夢中だったせいで来た道もわからず、彷徨うしかない。

 明らかな場違いな身なりのシザクラを、路上で座り込んだり、佇んでいる者たちが好奇な眼差しで眺めているのに耐えかねて泣き出しそうになっていた時だった。

『君、どうしたの? 迷ったの?』

 不意に差し伸べられた、自分と同じくらい小さな手。こちらを安心させようとするかのように笑いかけてきたその少女が、テフラだった。着ているものこそややくたびれていたものの、なるべく清潔な身なりに整えていて、何よりその目は、周りにいる大人たちと比べれば眩しいくらいの光を帯びているようにシザクラには思えた。

 それが、テフラとの出会いだった。彼女は迷ったシザクラを、自分の住む地域まで送り届けてくれたのだ。だが家まで付いてくるのを遠慮した彼女は、「私は、君とは住む世界が違うから」と言って寂しそうに手を振っていた。

 その時は意味がわからなかったが、今はわかる。そしてそれにシザクラは納得していなかった。生まれた場所で、環境で、人の生きる道は決して決められるべきじゃない。

 テフラは、もっと高貴な場所にいるべき子だ。一緒に過ごすうちに、そんな想いは強くなる。彼女は貧しい生まれのようだが、上級生活区からゴミとして出された古本を手に入れて読み漁っているらしく知性があった。彼女は、こんなスラム街で過ごすべき人じゃない。そう感じたから、シザクラは足繁く彼女の元に通った。

 シザクラの過ごす日々の中で、テフラとの時間だけが。自由な気持ちで生きられているような気がした。

 そして彼女が見せてくれるもの、教えてくれるもの全て。シザクラの世界を拡げてくれる。彼女も同じことを言っていたが、シザクラにとっても彼女はそうなのだ。

 今見せてくれた、この夕焼けに燻された鮮やかな自分たちの街並みを教えてくれたように。

 この景色が目に焼き付きそうなほどに彩られているのは、きっと彼女が隣にいてくれるからだ。彼女が、ここまで連れてきてくれたから。

 同時に思う。この景色を見つけた時に、彼女は私と共有したいと思ってくれた。その嬉しさを。

「……さ、名残惜しいけれど、もう帰ろうか。日が沈み切ったらこの辺りは真っ暗になるからね。シザクラの家の人達に心配をかけさせちゃいけない」

「え……ねえ、もう少しだけ。もう少しだけ二人で、見ない……?」

 引き返しかけたテフラの手を掴んで、シザクラは無意識にそう言っていた。それから我に返り夕日よりも顔を赤らめていると、吹き出すようにテフラが笑った。

「……そうだね。私も、もっと君と同じ時間を過ごしたいな」

 二人の間で手を繋いで。じっと、遠くで暮れていく景色を眺めて。想いは、多分お互いに馳せている。

 このまま時間が止まればいい。テフラと過ごしていて、何度そんな風に願っただろう。この夕焼け空のまま、自分たちを置いて。何もかも過ぎ去ってしまえばいい。そうすればずっと、ここに、彼女と一緒に居られるから。そう何度、望んだだろう。

「日が落ち切っちゃうよ。夜が帳を下ろす前に、行こう。また来ればいいさ。いつでも連れてくるよ」

 だけれど時間は無情にも過ぎてしまう。テフラが今度こそ手を引いて、シザクラを連れ出していく。仕方なく、それに従った。丘から、下に降りる洞窟へと二人で入っていく。

 もしこの時、私が彼女を引き留めないで最初に大人しく帰っていたら。きっと何事もなく帰ることが出来ていたのだろうか。

 ……え? 何だろう、今のは。あたし、今何を考えていた? まるでこの後何かが起こるのをわかっていたみたいなことを、不吉なことを感じていなかったか。何事もなく? あたしたちはこれからどうなるのだろう。

「テフラ、何だか変な感じが……」

 彼女に今の妙な感覚のことを伝えようとしたら、急に目の前の景色が歪んだ。乱れたように視界が霞んで、目の前でテフラの姿さえ見えなくなる。繋いでいた手の感触も失せて、自分が立っているのか倒れているのか、浮かんでいるのかわからない不覚に陥る。

(……何これ。何……?)

 朧気に。目の焦点が合わないように滲んだビジョンが目に映り込んでくる。

 丘を降りるために通る洞窟。ただ地上へと下るだけで、ほんの少し薄暗く不気味なだけの通路のはずだった。

 だがそこは、魔物の住処だったのだ。日が落ちかけて、それは戻ってきていた。

 体が半透明の、首のない怪物。それらが大勢で、出くわしたシザクラに迫ってきた。

 まるで幽霊の群れだ。狭く薄暗い中で揺らぐように少しずつこちらを追い詰めていく姿が、シザクラの目に焼き付いた。恐ろしくて、ただ後退りすることしか出来なかった。

『シザクラ! こっちだ!』

 テスラが手を引いて、何とか亡霊たちの隙間を縫おうと駆け出した。

 だが、恐怖で引き攣っていたシザクラの足が縺れた。

 その隙を狙ったように。体勢を崩したテフラに。亡霊が、手にしたボロボロの剣を振り上げて。そのまま――。

 ブラックアウトする。何も見えなくなる。真っ暗な空間を漂っている。わからない。今のは夢? ここは? どうなってる?

『……ラさん。……クラさん。聴こえ…………』

 ふとどこからか声が聴こえた。知っている。けれど知らない声。必死に思い出そうとするけれど、水の中でもがくように何も掴み取れない。ここはどこだ。どうなっている。わからない。何も。

『シザ……さ……、それは夢の……』

 誰? 何を言っているの? ここから出して。わからない。何も。

 何も、思い出したくない。

 はっと顔を上げた。夕暮れ。陰の多い、くすんだスラム街。並んだくたびれた建物、露店、どこか疲れ切った空気を纏った人々。

「え……?」

 あのスラム街だ。シザクラはぼうっと立ち尽くしていた。

 急に肩を叩かれて、そちらに目をやる。

「……どうしたの、ぼうっとして。早く行こうよ!」

 夕日の掛かった、鮮やかな笑顔。テフラがこちらに微笑みかけて、先に走っていく。

 ……あれ? あたし、この場面を知っている? 既視感。そして違和感。だが考えようとすると、頭に靄が掛かったみたいに何もわからなくなる。

「君に見せたかった、とっておきの場所があるんだ。付いてきて」

 テフラが軽い足取りで、こちらを手招きして誘っている。だからつい、シザクラも釣られて笑ってしまう。彼女は楽しそうだ。何を見せてくれるだろう。楽しみだな。シザクラはそのまま駆け出そうとする。

『シザクラさん! 起きてください! 夢に惑わされないで!』

 不意に声が、自分の内側で轟いた。驚いて立ち止まってしまう。

 ……この声を、あたしは知っている。ずっと傍で聴いていた。まだまだお子様だけれど頼りがいのある魔法使いの、あの子。

 頭をぼんやりさせていた霞が、急に晴れたような気がした。そうか、と気づく。

 これはあたしが見ている、ただの都合の良い過去の夢なのだ。

「……ごめんね、テフラ。一緒には行けない」

 シザクラはそう言う。口にするのは辛かったが、そう言うしかなかった。

 テフラは、はっと足を止めて。それから悲しそうに目を細めた。

「……やっぱり、私みたいな子とは。もう付き合っていられないかな。身分が、違いすぎるもんね」

「違う! ……違うよ。テフラのこと、今も大好きだよ。忘れたことなんてない。……でもあたし、行かなくちゃ。待ってる子がいるんだ。あたしにとってその子も、大切な人だから」

 立ち尽くすテフラの幻に歩み寄ったシザクラは、その小さく震える手を両手でぎゅっと包みこんだ。

 このほんのりと冷たい感触も、その柔らかさも。ただの夢なのだろう。……悲しい。惜しい。

 でも、行かなくては。夢は、いつか醒めなければならないものだから。

「……またね、テフラ。大好き」

 たぶんあなたが、あたしの初恋の人だった。シザクラは踵を返し、走る。テフラに背を向けて。何度も振り返りそうになったが、堪えた。夢だけれど、もう一度彼女と会えてよかった。

 走るうちに、周りの景色がぼやけていく。そうしてやがて真っ暗な世界に飛び込んでいく。浮いているのか立っているのか。わからないおぼつかない感覚に身を任せていたら。

 シザクラは、目を覚ました。

 ぼんやりした視界。それが像を結ぶと、心配そうにこちらを覗き込む、見慣れすぎた少女の顔が浮かんできた。

「……フィー。おはよ」

 どうやら自分は、本棚になっている壁にもたれるような格好で寝かされていたらしい。だんだん朧気な記憶がはっきりしてきた。ここは魔法学校だった廃墟の塔。自分たちは魔法の罠に掛かって眠らされたようだ。

 そして自分は今、目の前の少女と。彼女の母親を探す旅をしている。

「おはようございます、シザクラさん……っ」

 彼女はこちらが起きたのを確認して。細めた瞳いっぱいに涙をためてこぼし、ぎゅっとこちらに抱きついてきた。それを受け止めて、背中に腕を回す。

 頼りない小さな感触。でも、ちゃんと感じられる。それがシザクラのおぼつかない心を解きほぐしてくれた。

(……この子は。あたしにもテフラにも、似てないな。この子はこの子だ)

 ふと先程まで見ていた夢の残滓を思い浮かべつつそう感じた。もう霞みつつある夢。でも、テスラの姿だけはまだ鮮やかにくっきり残っている。

 この子にあの頃を重ねていた自分は。ただあの日の記憶に縋っていただけだ。はっきりとそれがわかった。フィーリーは、フィーリーだ。それと向き合おう。

「シザクラさん、大丈夫ですか? 魔法の後遺症は……残ってなさそうですわね。よかった」

 ルーヴが傍に来て、妖精魔法で体の状態を確かめてくれた。夢の途中で聴こえた途切れた声は彼女だったのだろう。シザクラはお礼を言いつつ、ついでに体に掛けてもらっていたいい匂いの上着をルーヴに返しつつ立ち上がった。

「……さてと。皆さん、心配おかけしました。じゃあ道も開けたみたいだし、進みますか」

 本棚だった壁が消えて、屋上へと続く階段への通路が開けていた。どうやらフィーリーが本を抜いたことが引き金になって道ができたらしい。

「あれ、そういえばフィーリー。さっき読もうとしてた本は?」

 シザクラはまだぎゅっとこちらの体にしがみつくようにしているフィーリーに聞く。彼女はもう泣いてこそいなかったものの、目元を赤く腫らせて鼻を啜っていた。随分心配をかけさせてしまったみたいだ。そっと帽子の後ろ毛を撫でてやる。

「……目を覚ましたときには無くなってました。あれは、もしかしたら今の夢の世界に落ちる罠の発動条件だったのかもしれません」

「でも、お母さんの気配がしたんでしょ? 本に字が現れたのも、フィーの魔力に反応したみたいだし。フィーのお母さんがそんな罠仕掛けるわけないじゃん」

「……魔法学校時代の置き土産、にしても妙ですわね。わたくしたちに掛けられたのは間違いなく、禁断魔法でしたわ。そんな禁忌を、魔法学校だったこの場所で犯すでしょうか」

「もしかして、私達にあの本を見られたくない誰かが、後からあの魔法の罠を張っていたんでしょうか……?」

 プティも交えて四人で顔を見合わすが、まあ答えが出るわけでもない。

「とりあえず一旦、最上階へ出よう。フィーのお母さんは、そこに百合の花の痕跡を残してくれているはず」

 シザクラが言うと、フィーリーも深く頷いて歩き出す。先導する彼女はシザクラの手を固く話さずに繋いだままだった。これじゃあ迷子にならないように手を引かれているみたいだ。

 まあ、実際迷子になりかけたのを彼女に救われたので。大人しくシザクラは彼女に従った。

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