第6話──6「これからの方針」
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「わたくしの夫──と言いたくはないですが、名義上はまだそうなっているアンドロゼン・トリスム・ブランクは、この世界では地位のある貴族です。王都フレアラートから直々に領地を与えられ、いくつかのそこを管理し、君臨している。ようは、自分の権威にかまけるゲス野郎ですわ」
飲食店の、朝食の席。シザクラたちの向かいの席に着くルーヴはそう言った。フィーリーにたっぷり淫気を補給した、翌日だ。
プティは、少し離れた席でフィーリーが食事の手伝いをしていた。この話を聞かせないためだ。だが、彼女は何となく察していると思う。ちらちらと、こちらを窺っている眼差しにシザクラは気づいている。
「わたくしを妻に娶ったのも、祖母から受け継いだ妖精魔法のことを密かに聞きつけたからなのです。それに自分より位の低い貴族の娘を娶ったとなれば外聞もいいと考えたのでしょう。父も母も、わたくしの意見は尊重しませんでした。わたくしに優しく接してくれたのは、亡くなった祖母だけ。わたくしには、あの男との結婚以外に選択肢はありませんでしたわ」
ルーヴの目は、暗く沈んでいる。少なくとも幸せな結婚生活ではなかったことが、それで窺える。
「わたくしも、周りの人たちの傷や病気を癒すために惜しみなく妖精魔法を使っていたから、それが良くなったのでしょうね。アンドルゼンは、わたくしの妖精魔法を何とか魔石に変換できないか研究し始めたのです。わたくしは、魔法を使わされ続けました。その効力を観察するために、わざと怪我を負わされたことも、彼の部下がわざと痛めつけられたこともありました。……あの男は、人の善意でさえ利用して、踏みにじる。尊厳も何もかも、他人の全てを自分のものだと思っているような冷酷なクズ野郎」
彼女は苦そうに口にした。
きっと想像に絶するくらい、そのアンドロゼンに貶められる日々は。彼女にとって凄まじい地獄だったのだろう。聞いているシザクラの胸も悪くなる。
「ですが、妖精魔法は魔石に転ずることは出来ませんでした。当たり前です。それが出来れば、今頃傷や状態異常を治せる魔石がゴロゴロ転がっているはずですわ。アンドロゼンは、その結果に満足しなかった。わたくしを使っての研究にそれなりの労力を掛けましたからね。自分の思い通りにならなければ気が済まない幼稚な男なのです。それで──プティに目をつけた。わたくしの妖精魔法を、継いでいるであろうと考えるこの子を」
ルーヴはプティをちらりと盗み見る。そんな母親に視線を受けてこちらを見たプティは、また窺うような不安そうな目をしていた。思えばこの子は出会ってから、ずっとこんな表情ばかりだ。
不穏に、晒されなかった時間はあったのだろうか。こんな幼子が。母の心情は、子に簡単に伝わるものだ。子供は馬鹿じゃない。そんな彼女が物語っている。これまでの、彼女たちの地獄を。
「だからわたくしたちは逃げ出したのです。あの男の元から。……昨日の追手たちは、あの男の差し金です。プライドを傷つけられて、腹立たしいのでしょう。それはわたしたちを連れ戻して折檻するまで収まらない。わたくしが知らないうちに、追跡用の魔石を、腕に埋め込んでいたくらい執着の醜い男です」
ルーヴが腕を押さえる。そういえば昨日の追手のリーダー格が追跡用の魔石をルーヴの体に埋め込んでいるとか言っていた。腕だったのか。……少し嫌な予感がした。
「あの、ルーヴさん。もしかしてその腕に埋め込まれた魔石って」
「はい。熱したナイフで抉って取り除きました。あの男はわたくしがそんな度胸もないと奢っていたのでしょう。追手連中に自慢するくらいですからね。あ、腕には妖精魔法を施したのでご心配なきよう。傷跡すら残ってません」
この人、思った以上に肝が据わっている。きっと凄まじく勇気と痛みの伴うことだっただろう。
だがこれで、しばらく彼女は追っ手の追跡を警戒しなくて済むわけか。だが聞く限りそのアンドロゼンは、彼女たちを諦めることはなさそうだ。きっと新手はやってくるだろう。
ルーヴとプティが危険なことは、依然変わりがない。それなら。
シザクラは隔てたテーブルに身を乗り出す。
「ルーヴさん、提案があります。一応あたしたちは、塔までの道案内を頼みましたが。その後もあたしたちと行動を共にしませんか。アンドロゼンはおそらくもっと手練れの刺客を放ってきます。勝手に追っ手を追い払ったあたしたちにも責任はありますし、しばらくはあなたたちの護衛ということで。途中で安住の地でも見つかれば、御の字ですし」
ルーヴの相手は、王都フレアラートに直々のツテがある貴族だ。おそらく自治と治安を司る騎士団を頼っても、アンドロゼンの元に連れ戻されるだけだろう。表向きはただ、行方不明の妻と子を夫が捜しているように取られるはずだ。
(こういう時、騎士団は役に立たない。それは身に染みてよくわかっている)
苦みを噛み締める。だが彼女たちの安全を、少しでもこの手で守れるなら。それに越したことはない。
守れる人は、守りたい。失うのはもう、二度とごめんなのだ。
ルーヴは。やはり迷っていた。わかっている。シザクラたちは結局のところ部外者でしかない。でも、首を突っ込んだ部外者だ。おまけに追っ手たちに堂々と大立ち回りをして名乗ってやった。ならもう、部外者という名の関係者ではないか。
「……そうですね。ですが……」
「返事は、今すぐでなくて大丈夫です。とりあえずは塔までの道案内、よろしくお願いいたします。その間も、臨まれれば、その先も。あなたとプティちゃんの身の安全は、私とフィーが保証します」
そう言って微笑みかけ、シザクラは手を差し伸べる。
ルーヴはやや迷いながらも。そっとその手に、自分の手を重ねてくれた。だから掴む。
「……ありがとうございます。まだあなたたちを巻き込んでしまうこと、迷っていないわけではないですが。塔までは、お供させてください。その後のことは、これから答えを出しますわ」
──あの子と。ルーヴの目がプティを見る。プティはまだ遠慮がちな顔をしていたが、フィーリーとの食事にも打ち解けているようだった。
「はい。……で、その。昨日お話した、フィーのことなんですけれど……」
「ああ、フィーリーちゃんの。理解しましたわ、あの子の特別な体質のことは。命に関わることならば致し方ないと思いますが。……あまり悪影響を与えてはなりませんよ? あの子も、まだまだ幼いのですから」
「……承知してます」
とりあえず、ルーヴの視線に侮蔑の色が含まれていないことに安堵する。まあ彼女も、まるっと受け止めてくれたわけではないのだろう。
だが昨日、フィーリーの角と尻尾を見せてサキュバスの血のことを説明して。シザクラとの営みで淫気を補充し、今日無事元気になったフィーリーの姿を見て。ルーヴは一応納得はしてくれたみたいだ。
(とりあえず、あらぬ誤解は受けずに済んだみたいだけれど)
だが誤解とはなんだろう。考えてしまう。結局彼女との情事に、自分は溺れてしまっているのだから。
プティの口を拭いてあげているフィーリーに目をやって、シザクラは思う。ルーヴの言う通り致し方ない事情とはいえ。もう自分は彼女に悪影響以上のものを与えているのではないだろうか。つまり、手遅れ。
ならば自分たちの関係とは、何なのだろう。ただの旅の道連れ。……まあ、今はそれでいいか。
ただこれから淫気の補給は。プティの目も耳も届かないように気を遣わねば。肝に銘じる。ルーヴにはそういう時はそれとなく伝えておこう。
ひとまず話は済んだ。これからも方針も、何となく定まった。
「お待たせ。さ、行こうか。旅の続きだ」
席を立ったシザクラとルーヴは。ちょうど食事を終えたらしいフィーリーとプティの元へ向かった。
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