第6話──3「心の声」


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 突っ込んできた巨躯の振るう拳を。シザクラは刀の鞘で受け切った。衝撃で足が地面を擦れるのを必死で踏ん張って吹っ飛ばないようにした。かなりの力。腕が少し痺れた。あまり直接的に受け過ぎたら刀を握れなくなるかもしれない。避けるのが正解か。

 シザクラ達が相手にしているのは、見上げるほど大きく筋骨隆々とした緑色の体を持つ魔物。比較的人に近いが、頭がやや大きく額に角がある。瞳はトカゲのように縦に割れていて赤い。

 オーグレという魔物。この辺りだと強敵。一体だけだが、非常に獰猛で剛力。

「シザクラさん!」

 フィーリーが叫んだので、シザクラは魔物から飛び退く。途端、宙から現れた植物の太い蔦が、魔物の両手両足を絡め取った。彼女の植物の魔法。

「ガァアアアッ!!」

 だが魔物は地を震わせるような雄叫びを上げると。そのまま力任せに暴れて、蔦を引き千切ってしまう。馬鹿力め。この調子だとフィーリーの言葉も通じないだろう。まず大人しくさせないと。

「くっ……! ……ルーヴさん?」

 ふと再び詠唱しようとしたフィーリーの前に、ルーヴが歩み立つ。そしてじっと彼女を睨む魔者の目を見ながら、彼女は高らかに言った。

「止まりなさい。そのまま座って、大人しくして」

 彼女の声が、反響したように響いた。その目が一瞬、エメラルドのような光を帯びる。

 再びシザクラに突進しかけていた魔物が。不意にぴたりとその場でつんのめって止まった。そして座り込む。ルーヴの言葉通りに。

 その表情は、まだもがくように引き攣っている。この前に見たサキュバスのターシェンのような、心まで支配する催眠とは違うタイプの魔法のようだ。精神までは蝕まず、あくまで体のみを一時的に操れるものか。

 だが効果はあまり長続きしないようだ。オーグレは、早くも拘束を破ろうと体を大きく振るわせて膝を立たせかけている。

 そこにすかさずフィーリーが飛び込む。もがくオーグレの前に。

「────」

 魔物にしか伝わらない、言葉。我々には音としか認識できないもの。

 オーグレが吠える。シザクラはもうフィーリーのすぐ前に待機して、いつ攻撃が来ても彼女を守れるように刀を構えている。

 フィーリーは、絶えず呼びかけていた。吠える声が、やがて唸りに。そしてオーグレの表情から、徐々に敵意が消えていく。

 オーグレが、ゆっくり立ち上がった。刀を構え直したシザクラを、フィーリーが手で制す。オーグレは、そのままあらぬ方向へ駆け出して行った。その姿が茂みの中へ消えると、ほっと肩から力が抜ける。

「シザクラさん、お疲れ様です。ルーヴさんもありがとうございました。おかげで穏便に終わりましたね」

「いえ。やはりフィーリーちゃんの交渉あってこそですわ。わたくしたちでは、おそらく逃げるか追い払うか、殺すしか選択肢はありませんから」

 安心したように微笑んだフィーリーに、ルーヴが歩み寄ってハンカチで彼女の額の汗を拭った。そして近くに隠れていたプティを呼ぶ。少女は、母親に駆け寄るとその腰にそっと縋るように抱き着いた。

「さすがに人里離れているせいか、この辺りは魔物も活発ですね。大丈夫ですか、ルーヴさん、プティちゃん」

「シザクラさん、お気遣い感謝いたしますわ。わたくしたちは平気です。先へ参りましょう。魔物が手強いということは、それだけ追手もこちらを追跡しにくいということですから」

 ルーヴは気丈に微笑んでみせる。プティも、ややぎこちなくだが頬を緩めた。「まだ頑張れる」の意味だろうか。段々プティの控えめな表情表現で、彼女が伝えたいことが少しずつ分かってきたような気がする。

 ベゲーグンを出て、数日。野営を繰り返しつつ、シザクラたちはルーヴたちの案内で魔法学校であった塔を目指していた。

 比較的栄えていたベゲーグン周辺と比べ、今進んでいる場所はだんだんと人が居住している雰囲気がなくなってきている。代わりに、魔物の住処が多い。なかなかに険しい道のりになりそうだ。

 旅慣れてきたフィーリーはともかく、ルーヴとプティ親子にはきついのではと思ったが、意外にも二人は逞しかった。野営も抵抗がない様子で、「それなりにしていますから。むしろシザクラさんとフィーリーちゃんのおかげで、前よりも快適に眠ることが出来てます」とルーヴは言った。

 その言葉に嘘はなさそうだ。最初に会った時よりも、ルーヴも顔色が僅かに良くなり、プティもフィーリーに懐いてきたのか一緒に行動することが多くなってきた。お姉さんとして頼られるのが嬉しいのか、フィーリーも乗り気だ。二人のやりとりは、シザクラには微笑ましかった。


 夜になった。魔物除けの魔石を辺りに設置して野営をする。フィーリーとプティはテントの中で身を寄せ合うようにして眠っていた。その姿に、どこか遠く色あせた記憶が過りそうになって、シザクラは首を振るう。

「失礼、少し夜更かしをしてもよろしいでしょうか。目が冴えてしまって」

 ふと自分のテントにいたルーヴが出てきて、こちらに微笑みかけてきた。シザクラはもちろん当たっている焚火の傍らに彼女を歓迎した。置いてある折り畳みのチェアに、ルーヴは腰を下ろす。眠気を阻害しない温かいお茶の入ったカップを差し出すと、「ありがとうございます」と彼女は嬉しそうにしてそれを受け取ってくれた。湯気をふう、と息で宥めて、口をつける。それで少し、ほっとしたようだ。

「……眠れませんか。やはりまだ、少し不安ですよね」

「いえ。わたくしは平気です。……むしろ心配なのは、あの子で」

 ルーヴが後ろを振り返り、フィーリーの胸に縋って寝息を立てているプティを見る。目を細めた。その愛おし気な眼差しに、シザクラの胸が微かに痛む。子を心配しながら、追われている彼女の心情。それが少しだけ窺えたからだ。

「あの子、物心付いても。言葉を話せないんですわ。もう少しで七歳になるのですけれど。きっと心に負担を掛けさせすぎてしまったせいね。いつも、怯えているのです。シザクラさんとフィーリーちゃんと出会ってから、久しぶりにあの子が笑うところを見ましたわ」

 感謝いたします、とルーヴはまた丁寧に頭を下げる。こっちが恐縮してしまう。首を勝手に突っ込んだのはこっちだし、目的地までの道案内もしてもらって。むしろ得をしていて、彼女たちを振り回しているのはこちら側だろう。感謝される立場ではない。

「……これから。プティちゃんとどこへ行かれるんですか」

 ふとシザクラは尋ねてみる。そろそろ追われている理由や、ルーヴたちのことを聞いても大丈夫だろうかという問いかけも兼ねて。

 ルーヴの視線に、一瞬焚火の明かりでも照らせぬほど深い闇が沈んだ。だがマグカップを口に運ぶと、こちらに差し向けた笑みでそれを掻き消してしまう。あくまで、こちらを巻き込むつもりはない、ということか。

「頼れる宛ては、ありませんが。何とかしてみますわ。あの子のためにも」

 そう言った彼女の声には、固い意志が籠っている。プティだけは、絶対に守る。そこに彼女の強さが感じられた。……何だか、ひどく哀しい決意だった。

 気づけばシザクラは提案している。

「あの。手を握っても、いいですか」

「え?」

「いえ、他意はないです。自分で言っちゃうと胡散臭くなるけれど下心も。ただ、あなたも少しは誰かを頼ってもいいと思うんです。とりあえず手だけでも、今だけでも。あたしにちょっと預けてみませんか」

 椅子から身を乗り出し、手を差し出して彼女に頬を緩めた。ルーヴはやや戸惑ったようだったが。やがてカップを置くと、おずおずとこちらの手を握って来た。

「……シザクラさんの手は、大きいですね。そして逞しいです。今まで幾度も、この手で誰かを守ってきたのでしょう。フィーリーちゃんが一緒に居たがる訳がわかりますわ」

「ルーヴさんの手も、逞しくて、温かいです。でも、あんまり強張らなくもいいんですよ。あなたは、母親というだけではない、一人の人間なんですから。怖くて当然、不安で当然です。誰かに頼るのは、もたれかかるのは、悪いことじゃない」

 たぶんこれは、自分が言って欲しい言葉なのだと。シザクラは気づいている。それに気づかせてくれたフィーリーを、一瞬だけ見る。

 ルーヴは、はっとなって。一瞬、その目尻を緩めた。ほんの少しだけその瞳が揺らいだように見えたのは、焚火の加減のせいだろうか。違うと思う。

 でも彼女は涙の気配も見せずに。また気丈に笑った。

「……ありがとうございます。時々あなたを。フィーリーちゃんを。頼らせていただきますわ」

 そうしてください、とシザクラも笑み返す。彼女の弱さを、少し垣間見れた。それだけで、今日の収穫はあったのかもしれない。

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