第4話──9「海の先」


  12


 揺蕩う意識の中で。フィーリーは自分を呼ぶ声をどこか遠くで聞いた気がした。

(……お母さん?)

 黒い海の中を漂っているみたいだ。その心地良さに揺られながら、声の主を探して彷徨う。視界は真っ暗で、何も見えない。

 考えれば物心ついてから母の声など。二人共聞いたことなどないのに。どうして母のそれだとわかるのだろう。

 だから、会ったら聞きたいことが山のようにある。どこにいたのか。どうして連絡の一つも寄越さなかったのか。

 ――どうして私を、ひとり置いてどこかへ行ってしまったのか。

 会いたい。その一心で、声を辿る。

『……リー。……フィーリー……』

 その声はだんだん鮮明になっていく。この感じ、馴染みがある。

 この感覚は、魔法だ。自然に宿る精霊たちの気配だ。

『……リー。フィーリー、来てはダメ』

(……え?)

 その言葉は、はっきりと聞こえた。

 フィーリーは跳ね上がるように身を起こす。自分はどうやら、ベッドに寝かされているらしい。

 簡素な室内の雰囲気から察するに、おそらく宿屋の一室だ。自分はどうやら、眠っていたらしい。部屋の中には誰もいなかった。

(今のは、夢……?)

 額に手をやって俯く。それにしてはやけに鮮明に覚えていた。「来てはダメ」。夢の中の声は、確かにそう言っていた。

 聞き覚えはない声。でも、どこか懐かしいとさえ感じる。だとしたら、あの声は。

 いや、今はそれより現状把握。フィーリーは首を振るう。微かに体のあちこちが痛んだ。だが、歩いたりする分にはなんの支障もない。

 そうか自分は、ターシェンと名乗るサキュバスと対峙したのだ。

 彼女は禁断の魔法である催眠を使って、フィーリーを打ち負かした。思わず拳を握りしめる。意志のあるものから意志を奪い意のままに操るなど、あってはならないことだ。それに、負けた。

 そしてはっとなる。ターシェンの操っていた人と、シザクラは沈みかけた船の上で戦っていたのだ。無事なのだろうか。ベッドから立ち上がった時だった。

 小さなノックの後に、部屋の入口が開く。シザクラが、紙袋を抱えて顔を覗かせた。どうやら買い出しに言っていたらしい。

「フィー! 良かった、起きたんだね。体はもういいの?」

「……シザクラさん。ありがとうございます。ここまで運んで下さったんですね。少し痛みますが、怪我はありません。おかげさまで元気です」

「無理しちゃダメだよ。念の為、もう一泊はここで安静にしてないと。あんな高いとこから落ちたんだから」

 シザクラはフィーリーをベッドに座らせて、説明してくれる。

 ここは目的地であるフィスチ港で、あの騒動の後ゲシュペルの船でここまで運んでもらったそうだ。目覚めなかったフィーリーを、シザクラは宿屋に連れてきてくれたのだと言う。

 あれから半日は経っておらず、今は夕方だ。フィーリーが意識を失っていたのもそれほど長くない時間らしい。

「……あのターシェンとかいうサキュバスと、一緒にいたフォルとかいう女は何だったんだろうね。フィーも、同じサキュバスと会うのは初めてだっけ」

「はい。ターシェンというサキュバスの目的はわかりません。……でも、許せない。あの人は禁忌の魔法、催眠魔術でフォルという人を操っていました。人の意志を踏みにじって、自分の意のままに操る。魔法使いとして、これほど腹立たしいことはありません。魔法は正しく、誰かや何かのために使われるべきです。それをあのターシェンは、あんなに容易く……っ」

 ぎゅっと着直したローブの裾を、フィーリーはぎゅっと握る。ここまで他者に、他の何かに。強い怒りを覚えたのは初めてだ。

 魔法使いとしての自分を。いや、魔法使いという存在自体を侮辱されたような、屈辱。

 ターシェンが何を企んでいるのか知らない。だが、彼女はこのまま野放しにしていては行けない気がする。あの魔法の技量と、人をいくらでも操り自由を奪える催眠魔法。いずれ誰かの脅威になる。それでは、理性のない魔物と同じだ。

「……サキュバスというのは。ああいう連中ばかりなのでしょうか。記述のある書物も、魔に関するものばかり寄せ集めた本が多いです。もしかしたら、私の母も……」

 恐れていたことが、つい口から零れそうになる。昨日、彼女が残した百合の花の記憶。映っていた楽し気な人間の方の母。あれも、催眠魔術によるものだとしたら。

 ふと、強張った手を包み込まれる。前にしゃがみ込んだ、シザクラの手だった。優しくそっと手の甲を撫でて、力の入った指を解いてくれる。

「それは絶対ない。フィーリーのお母さんは、良い人だよ。あの記憶の中で、お母さんたちは楽しそうだった。催眠なんかじゃ、そんな感情は絶対に起こらない。それに、フィーリーだっていい子でしょ? 悪い人からこんないい子が生まれるわけないって」

 ──だから、自信持ちな。肩を優しくぽんを撫でられ。それで少し、心が和らいだ気がする。ずっと自分は気が立っていたのだ。それをシザクラが解いてくれた。

「……そうですね。母を信じて、私は会いに行こうと思います。ありがとう、シザクラさん」

「いいって。それと……無事でよかった、フィー。実を言うと、もう起きないかもって、ちょっと不安だったんだ」

 ぎゅっと。シザクラがフィーリーを抱きしめて、お腹の辺りに額を埋める。触れ合った体温にどきりとした。

 自分を包む、その腕は。どこか心細そうだった。心配をかけていたのだ、彼女に。心配してくれていたのだ、彼女は。フィーリーが思っていたより、ずっとずっと。

「はい。無事です。シザクラさんのおかげですよ。私は、ここにいます」

 ふっと頬を緩めて、彼女の髪を優しく撫でてやる。「子ども扱いすんなぁ」と言いつつも、彼女はまんざらでもなさそうにフィーリーに額を擦り付けてきた。


  13


「おお、良かった。お前さん、目を覚ましたのかい。何事もなさそうで良かったよ。悪かったな、こんなことに巻き込んじまって」

 波止場に行くと、自らの船を磨いていたゲシュペルが待っていた。頬の汚れを拭った彼は、海に浮かんだ夕焼けの光を帯びて、どこか澄んだ目をしていた。憑き物が落ちたみたいだ。

「ゲシュペルさん。待っていてくださったんですね。ここまで送ってくださって、ありがとうございました」

「礼ならこっちの台詞さ。依頼通り護衛もしっかりしてもらえたしな。おかげで船もわしも五体満足だ。幽霊船にも巡り合えたしな。まさかあんなところにいたとはな」

「……あなたはやはり、あの船に乗っていたのですね」

 フィーリーが言って、シザクラが懐からルームプレートを取り出す。あの幽霊船に落ちていたものだ。脱出の際、震える船の通路で、瓦礫の中から転がり出てきたのだ。その錆び切って曲がったプレートには、ゲシュペルの名前がある。

「あの船は貨物船でな、若い頃のわしはその船員だった。乗っている奴らは皆、家族みたいなもんでな。魔石もまだ普及し切っていない船旅には厳しい時代だったが、楽しかったよ。──あの船も、その家族の一員だった」

 そこに、あの魔物が乗り込んできたんだ。ゲシュペルは遠い目を海の方へ向けて言う。彼の船の向こう側に見える地平線。橙色の空が、海面に溶け込んでいる。

「わしらは必死に逃げた。避難用の船に乗り込んでな。あの時は、ただ恐ろしいばかりだった。そしてわしらの家族を奪われたとも。船は、あいつのものになった。あれからずっとな。……だがよく考えてみれば、わしらは誰も殺されなかった。あいつはただ、場所が欲しかったのかもな。自分が誰も傷つけない、檻のような場所が」

 ゲシュペルの手が、自らの船に触れた。いや彼が今触れたかったのは、きっと別の船のだろう。

「最初はあの魔物が憎らしくてたまらなかった。復讐のために、あの船を取り戻すために探し回ったこともある。だが、見つからなかった。今日まではな。そして、あの船を目にした時思った。あの魔物はやはり死に場所を求めていたんだと」

 ──お前さんたちが、それを与えてやったんだな。振り向いたゲシュペルは笑う。

 朽ちてなお彷徨い続けるあの船は、棺だった。周囲を拒絶するあの霧は、檻だった。あの魔物はもしかしたら。理性を失って獣になりかけても。誰も傷つけたくなかったのもしれない。せめて自分であるままに死にたかったのかもしれない。

(魔物って、何だろう……)

 フィーリーは考える。最初は理性を失いかけていたとはいえ、あんなに人間に近い雰囲気の魔物とは初めて会った。

 そして、自分が魔物と通じ合える力。サキュバスの血のおかげなのか。それがあの霧の中の船に、自分たちを招いてくれたのかもしれない。

 自分は一体何者なのか。フィーリーは知りたい。母を探そう。改めてそう、気を引き締めた。

「達者でな、お前さん方。困っている誰かを、また救ってやってくれ。旅の無事を、祈ってるよ」

 ゲシュペルが乗り込んだ船が、夕日の沈む方へと進んでいく。

 その後ろ姿が完全に溶けてしまうまで。フィーリーはシザクラと一緒に、ずっと手を振り続けた。


  ***


『現状を報告しろ、ターシェン。さっきお前の魔法反応と、馴染みのない不思議な魔法反応を探知したぞ。何があった』

「あーもー、うるさいなぁ。いちいち連絡してこなくとも、ちゃんと報告するってばぁ」

 頭の中で直接響く声に、ターシェンは顔を顰める。

 空を飛行していた。風の魔法。とりあえずあてはなく、寝心地のよさそうなベッドがあるならどこでもいい。自分たちを知覚できないように相手の認知を催眠でいじってやれば、どこででも休憩し放題だ。

「ちょっと面白いオモチャを見つけてさぁ、遊んでただけ。あーしと同じサキュバスっぽいんだけれどぉ、何でか人間の匂いもしたんだよね。それで、人間の女と一緒に行動してた」

『どういうことだ。お前のように催眠でも使っていたか。それとも……その人間と女とやらに、捕らえられているのか』

「んー、あーしが見た感じ、どっちでもなさそう。……でもさ。あの魔力の感じ、何かちょっと知ってる感じしなかったぁ?」

 ターシェンが問いかけると、頭の中の声は考え込むように黙る。向こうも心当たりがあるようだ。そして、まさかな、と考えているのだろう。こっちだって、思いもよらない事態だ。……面白くなってきた。

『まぁ、いい。お前は一旦こっちと合流しろ。催眠魔術でやってほしいことがある。二人の動向はその後だ』

「えー、何でぇ? あーし、もっとあの子たちと遊びたいんだけどぉ。せっかく久々に魔法をぶつけても壊れないの、見つけたのにぃ」

『そろそろ俺たちは、王都フレアラートの中に潜入する。その前に二三、仕込んでおきたいことがあるんだ。お前の催眠魔術がいる』

「はーん、なるほどぉ。王都の奴ら、きっと今頃獲物が自分から檻に飛び込んできたとでも思ってんだろうねぇ」

『人間はそう甘くはない。が、そう思ってくれているならやりやすい』

 王都、フレアラート。この世界五大陸の中心地にある最大規模の王国で、各地に騎士団を配置し事実上一国で世界を統治管理している。いわば人間世界の、脳味噌だ。

 攻めるなら、まずそこからだろう。

『人間どもが魔族と呼ぶ我らに、勝利の栄光を』

「はいはい。えーこーをぉ。じゃあね、ゲレティー」

 ターシェンがゲレティーと呼んだ男の気配が、頭の中から消える。

「……ねーえ、フォル?」

「はい、ターシェン様」

 飛ぶターシェンの背中に、しがみついているフォルに呼びかける。これだけの風圧を掛けても彼女はびくともせずちゃんとくっ付いてくる。頑丈な傀儡を選んで正解だった。

「さっきだいぶ魔力使っちゃったからさぁ。……後であんたから、いっぱい淫気奪うから。覚悟しといてねぇ?」

「……かしこまりました」

 少しフォルの声が上擦ったのを、ターシェンは聞き逃さない。期待の、昂ぶり。手に取るようにわかる。

 ターシェンは小さく長い舌を舐めずって。早く休憩できそうな建物を探した。

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