檻の中

松原凛

檻の中

 檻の前を通りかかったとき、妙な匂いが鼻を突いた。気になって立ち止まり、鍵を開けて中を覗き込んではっとした。床に置かれたピンク色の毛布が赤く染まっていた。よく見ると血だった。血まみれの毛布にくるまって、ハナが目をつむって震えていた。震えながら、腕の中にいる何かを大事そうに抱きしめていた。

 そこには赤ん坊がいた。

 おそるおそる触れると赤ん坊はびっくりするほど冷たくて、ほとんど息が止まりかけていた。ハナは赤ん坊をしっかり抱きしめて温めようとしていた。そうするしか、赤ん坊を守る方法が思いつかないようだった。

 急いで救急センターに電話をして、なんとか一命をとりとめたが、赤ん坊の意識はなく、体重は新生児の基準値よりずっと少なかった。


 私が動物園の飼育員になったのは三年前、はじめは雑用で、象やキリンやペンギンやいろいろなエリアをまわって勉強し、二年目から猿エリアの飼育担当になった。猿エリアは園内の奥まったところにあり、ニホンザル、テナガザル、ゴリラ、チンパンジー、ヒヒなど、五十種類以上の猿科の動物がいる人気エリアだ。飼育員は、朝九時に開園してから夕方五時の閉園まで、それから掃除や点検などやるべきことを済ませたら家に帰る。夜勤はない。昔は昼夜交代制だったらしいけれど、働き方改革で廃止されたという。

 ニホンザルのハナが出産したのは夜、飼育員がひとり残らず帰ったあとのことだ。二月に入ったばかりの凍えるような夜だった。

 ハナはまだ四歳で、半年前の秋に初潮を迎えたばかりだった。大人になる前の段階で、人間でいえば中学生くらいの女子と同じくらい。子供を産むには早すぎるし、準備もできていない。もともと痩せ型だったこともあり、お腹の膨らみもなく、体調が悪そうでもなかった。

 だから、飼育員の誰もハナの異変に気づかなかった。もしかしたらハナ自身、自分のお腹に赤ん坊がいることを知らなかったかもしれない。

 そして、父親が誰かもわからなかった。出産前、ハナがいた檻の両脇には三匹のオス猿がいたが、それぞれの檻はしっかりとフェンスで仕切られており、ほかの檻へは自由に行き来できないようになっている。調べてみても、どこにも抜け穴は見当たらなかった。

 でも、ハナは赤ん坊を産んだ。もちろん何もないのに勝手に赤ん坊が産まれるわけがなく、夜のあいだに何かが起こったにちがいないけれど、本当のことは猿たちにしかわからない。


『猿が謎の出産。父親は誰か?』

 ハナの出産はネットで話題になり、テレビでもとりあげられて全国的に広まった。本来なら冬の動物園は一年でいちばん暇な時期だが、猿エリアにはふだんの三倍くらいのお客さんが押し寄せている。

「ほら、猿の赤ちゃん。かわいいねえ」

 とほほ笑む親子の横で

「父親わかんないとかやばいよねー」

「じゃあどうやってできたの? 想像妊娠?」

「そんなわけないじゃん!」

「えーじゃあ誰ー?」

 と芸能人のゴシップでも噂するような調子で女子グループが騒ぎたてる。

 ハナは出産後すぐ、元いた檻から少し広めの檻に移った。建前上は育児のためということになっているけれど、本当は二度も想定外の妊娠があったりしたら困るからだ。

 寝床の上で、ハナが背中をかがめて赤ん坊にお乳をあげている。茶色の毛の中からミミズのようににゅっと突き出た乳首を、赤ん坊が小さな口でちゅうちゅうと吸っている。

「おっぱい! おっぱい!」

 幼稚園くらいの男の子が檻の前で騒ぎたてる。母親が「しっ」とちょっと恥ずかしそうにしながら黙らせようとするが、男の子は調子にのってさらに声を強める。

「おっぱい! おっぱい!」

 人間のおっぱいと猿のおっぱいはずいぶん形状がちがうけれど、それがおっぱいだということは小さな子供にもわかるらしい。

 スピーカーから「いぬのおまわりさん」の歌が流れだす。迷子のアナウンスだ。迷子アナウンスは一日中ひっきりなしにかかり、混んでいるほど頻繁になる。私はそれとなくアナウンスを聞きながら、食べかすや藁のくずや糞をほうきで履き、ぱんぱんになったゴミ袋をきつくしばった。

 昼間の動物園は騒がしい。アナウンスや人の声や猿のなき声。それらをつゆほども気にせず、赤ん坊はお腹が満たされて気持ちよさそうに母親の腕の中で眠っている。

 そこはもう、母親と赤ん坊だけの世界だった。ついこの前まで幼かったはずのハナが、いまはもうどこからどう見ても母親になっていることに私は驚く。真っ赤な顔、長い毛並み、丸く大きなお尻、といった成熟したメスであることを示す見た目だけではなく、全身から醸しだされる雰囲気や面持ちが、完璧な母親になっていた。


 夕方、仕事を終えて外に出た。私は仕事が人一倍遅く、ほかの飼育員はとっくに自分の仕事を終わらせて帰ってしまった。まだ残っているのは私と、上司で主任の浅野さんだけだ。

 動物園は坂の上にあり、猿エリアは奥のほうにあるので、建物を出ると、園内の遠くのほうまで見渡せる。ミニチュアのような檻、その中で影みたいにちろちろ動く動物たち。昼間の騒がしさが嘘みたいに静かだ。夜の動物園はどこか淋しげで、少し不気味だ。

「おつかれ、田端さん」

 仕事を終えたらしい浅野さんが、建物から出てきて言った。

「おつかれさまです」

 私は長くもない髪を耳にかけるふりをして、耳の上部分をさわった。緊張すると、なぜか無性に耳がかゆくなる。

「じゃ、また明日」

 浅野さんはそれだけ言うと、一秒でも早く帰りたそうに、駆け足で坂を下りていった。グレーのトレーナーに十年くらい使っていそうなくたくたの黒いダウン、つま先が擦り切れたグレーだか黒だかわからないスニーカー。背が高くて足も長く、走るのが速い。運動か何かやっていたのかもしれない。

 また明日。私は返しそびれた言葉をつぶやく。けれどもその声は小さすぎて、浅野さんの背中よりもずっと手前に落ちてしまう。

 ほんの数秒だけの短いやりとり、というかただの挨拶。何してたのとさえ訊かれない。私に興味がないのだ。

 私はとくに急ぐ用事もなく、家で待つ人もいないけれど、ほかに人がいないのだと思うととたんに心細くなり、コートをたぐり寄せて早足で坂を下った。

 

“ナナ”と名づけられた赤ん坊は、一ヶ月のあいだにみるみる成長していった。体重はあっという間に基準値に達し、つるつるだった体からは柔らかい毛が生えてきた。猿の赤ん坊は人間と違って、産後数週間で立ち上がるようになり、よちよち歩きをはじめる。お腹がすけばなき、遊んでほしいときは母親にくっついて甘えたりもする。

 その愛らしい姿に誰もが顔を綻ばせる。客足は増え続け、休日の猿エリアは大繁盛。ナナの声は次第に大きくなり、朝も昼も夜もなき続けた。そのたびハナは機敏に反応し、お乳をあげたりあやしたり寝かしつけたり、甲斐甲斐しく世話をしていた。

 ――が、ある日突然、ハナはそれらすべてを放棄した。

 昨日まで普通にしていたのに、夜が明けて出勤すると、ハナは何もかもが嫌になったみたいに、まったく何もしなくなっていた。ナナがないても寄ってきても反応を示さず、知らんふりを決め込んでいる。食事とトイレのときだけのそりと起きあがり、済んだらさっさと寝転んでぴくりとも動かない。

 その姿を、私は知っていた。見覚えがあった。

 しみだらけの黄ばんだ壁にささくれだった畳の狭い部屋で、一日中敷きっぱなしの布団に寝転んでテレビばかり見ている母親。台所に積み上げられた汚れた食器、床に散らかった服やビールの空き缶、部屋中に染みついた煙草の匂い。それらに埋もれるようにして、赤ん坊が泣いている。母親は見向きもしない。夜になると母親は化粧をする。下着を黒に履き替えて、香水の匂いをさせてどこかへ出かけて行く。父親はいない。赤ん坊は私の妹で、妹の世話は私の役目だった。

「急に人が増えたから、ストレスが溜まってるのかもしれない」と浅野さんは言う。

 ハナは一日中まったく動こうとせず、ナナは朝からずっと何も口にしていない。飼育員が哺乳瓶でミルクをあげようとしても頑なに拒む。お腹は空いているはずなのに、母親が振り向いてくれるのをひたすらに待っている。

「それにしても、同じ担当だっていうのに薄情なやつらだよなあ」

 様子を見に来た浅野さんが、ため息を吐いて言った。自分の仕事だけ片付けてさっさと帰ってしまったほかの飼育員のことを言っているのだ。

「田端さん、悪いけど、もう少し粘ってみてくれないか」

「はい」

 私はミルクがたっぷり入った哺乳瓶を持ち直す。温かかったミルクはすっかり冷めてしまった。

「お願いだから、ミルク飲んで」

 ナナの小さな口は固く閉ざされたまま動かない。

 赤ん坊は母親がいなければ生きられない。猿の場合はとくに、父親が育児をしないので、野生の猿は母親が死んだら子供も一緒に死んでしまうという。それは動物園の猿だって同じだ。母親が動かなくなると、母親の真似をするように子供も動かなくなる。

 蛍光灯だけが明るく灯る檻の中で、人形のようにくたりと力の抜けた赤ん坊を抱きながら、私は泣きそうになった。

 私ではだめなのだ。母親でなければ、だめなのだ。

 私は哺乳瓶をナナの口にあてながら、疲れきって頭がぼんやりとし、半分目が閉じかけていた。

 赤ん坊の声が聞こえる。狭い部屋にわんわん響く泣き声。妹が泣いている。泣いても誰も助けてくれない。それどころか隣の部屋からうるさいと苦情がくる。私がやるしかない。やらなければ妹は死んでしまう。まだ産まれたばかりで、食べるのもトイレも何もできない小さな妹がいなくなってしまう。それは幼い私にとって、かわいそうというよりも、まるで自分の体の一部がなくなるような、恐ろしいことだった。

 大丈夫、私は泣き続ける妹に、にっこり笑いかけた。何ひとつ大丈夫だとは思えなかったし笑える状況でもなかったけれど、泣いている場合ではなかった。泣くのをこらえるために、ぐっと口の端を引きあげるようにして笑った。妹は何も見えていないように泣き続けたが、私はぎこちない笑みを浮かべて待った。妹はそのうち疲れてきたのか、息が切れるように泣くのをやめた。そして、涙を浮かべた目を細めて、かすかに笑った。

 笑った! 笑った! 誰も一緒に喜んではくれなかったが、私は飛びあがって叫んだ。どたどた走りまわって隣から壁を叩かれたけれど、かまわなかった。

 私はナナにミルクを飲ませようと必死で、いつのまにか顔が強張っていたのに気づく。そうか、私が怖い顔をしていたら、この子も怖がってしまうんだ。

「ナナ」

 私はナナに笑いかけた。

 ナナのガラス玉のように丸く黒い瞳が、私を捉えた。やっと、初めて、目があった、と思った。

 そして、ナナの口が小さくひらいた。哺乳瓶のちくびをくわえ、ゴムがぺこりとへこむ。ちゅっと小さな音がした。力が弱くて吸えていない。私は笑った。大丈夫、声をかけながら背中をさする。大丈夫、待ってるから。

 哺乳瓶の中のミルクが揺れた。ようやく、ナナが吸いはじめたのだ。いったん飲みはじめると、勢いがついて、どんどん瓶の中が白くなり、ミルクはあっという間になくなった。

 すぐさま報告しに行くと、浅野さんは振り返って優しく笑った。

「やったな」

「はい」

 私は泣きそうになりながら頷いた。子供のころ、いつまでたっても自分だけできなかった逆上りがようやくできて、先生に頭をぐりぐりされながら褒められたときみたいに嬉しかった。

「おつかれさま。ほんとよくやってくれたよ。明日も頑張ろうな」

 浅野さんは帰りに自販機で缶コーヒーを買ってくれた。ゴトンゴトン、と缶が二本落ちてくる。

「ありがとうございます」

 受け取ると、缶の熱がじんと両手に伝わってくる。

「もう遅いから、田端さんも気をつけて。じゃあまた明日」

 浅野さんは仕事が終わるといつも飛ぶように帰って行く。浅野さんには、家で待っている家族がいる。

 私はそのことを羨ましいと思う。自分の帰りを待っている人がいるのが羨ましいのか、浅野さんの家族が羨ましいのかはわからない。でもそれは結局のところ私には縁のない幸せのかたちなのだと、浅野さんにもらったコーヒーを飲みながらぼんやりと思った。


 つぎの日から、私はナナの世話役になった。

「田端さんすごーい」

「俺たちがミルクあげても飲まなかったのに」

「田端さんじゃないとだめだったんだよ」

 普段は私を「使えないやつ」とみなしている同僚たちが、ここぞとばかりに持ちあげてくるのを、私は苦笑いを浮かべながらやり過ごした。

 ハナが育児放棄をしはじめて一週間が経つ。くつろいでいるというよりもはや座布団みたいに寝そべったまま動かず、たまに息をしていないんじゃないかと不安になるけれど、そうかと思うとのんきにお尻をぽりぽりかいたり欠伸をしていたりする。ナナは母親にかまってほしくてちょっかいをかけるけれど、無視されるので、一人遊びを覚えたようだった。地面に落ちている食べかすをおもちゃみたいに手で転がしたり、自分で藁の上を転がったりする。お腹がすけばなき、ミルクを飲む量も増えてきた。ひとまず順調に見えた。母親が育児をしないということ以外は。

「まだ子供なんだ、こいつは」

 浅野さんはハナの背中を眺めながら、仕方ないなという風に腕を組む。

「自分がやらなくても、誰かがなんとかしてくれると思ってる。ほうっておいても子供は育つと勘違いしてる。甘えてるんだ」

 赤ん坊が自分で勝手に育つわけがないということは、ハナもわかっているはずだ。でも、自分以外に世話をする人間がたくさんいるこの環境が、ハナの育児に対する意欲や赤ん坊への関心をなくしてしまったのだ。

 ハナが育児放棄をする前、私は、ハナがどこから見ても完璧な母親になったように見えた。ハナが何の戸惑いもなく「普通に」母親をやっているものとばかり思っていた。でも、違った。猿だって予想外の出来事には戸惑うし、子育てが嫌になれば育児放棄もする。

「浅野さん」

 私は事務所で仕事をしている浅野さんの背中に言った。

「ん?」

 浅野さんが振り向く。机で仕事をしているとき、浅野さんは眼鏡をかける。向かいあうと、私は耳の上部分がかゆくなる。

「しばらくのあいだ、夜まで残っていたらだめでしょうか」

「だめだな」

 一寸の迷いもない返答だった。それから浅野さんは、困ったように頭をかいた。

「田端さんはよくやってくれてるよ。いつも遅くまで残って、ナナの世話も頑張ってくれて、感謝してる」

 でも、と浅野さんは続ける。

「いくら心配でも、それはだめなんだ。定時になったら帰る、残業は一時間まで。そう決まってるから」

 浅野さんはそう言うと、机に向き直り、もう私のほうを見ていなかった。

 そう決まってるから。考える余地すら与えないその言葉に、私は突き放されたように感じた。心配だから見ている、それはだめなことなんだろうか。緊急のときくらい、ルールを曲げてもいいんじゃないか。ナナはいまのところ順調に育っているけれど、自分では何もできない赤ん坊なのだ。いつ何がおこるかわからない。そのとき、誰も見ていなかったら。いちばん近くにいる母親が赤ん坊を見ようともしなかったら。何かあってからでは、遅いのだ。


 四月に入るとハナの出産ブームもすんと落ち着いた。家族連れや学校の遠足などが増えて、見慣れた春の光景といった感じだ。

『謎の出産、次は育児放棄か』とまたしても一部で騒がれたけれど、出産のときほどには注目を集めなかった。

 掃除を終えて檻から出たとき、浅野さんに呼び止められた。

「田端さん、ちょっといいかな」

「はい」

「DNA鑑定の結果がでたんだ」

 えっ、と私は声をあげた。結果がでた、ということはつまり、ナナの父親がわかったのだ。

 出産前、ハナの檻の隣には、三匹のオス猿がいた。ハナが広い檻に移動したので、いまニホンザルの檻には三匹のオスだけが残っている。猿たちは一匹ずつ小さな檻の中で生活しているのだが、よく調べると、一つ一つの檻のフェンスすべてに、飼育員に見つからないよう巧妙につくられた抜け穴があった。夜、誰もいなくなってから、猿たちは暗い檻の中でせっせと抜け穴をつくり、交尾をし、翌朝には何事もなかったようにもとに戻していたのだ。なんて器用な、と感心している場合ではなく、父親がわからないというのは動物園として問題だ。そこでDNA鑑定で調べることになり、ようやくナナの父親が判明したのだった。

 赤ん坊の父親は、ハナの檻から遠くの端にいたオス猿だった。四歳半、三匹のオス猿の中ではいちばん年少で、体も小さい。私は檻の前にしゃがんで、小柄なオス猿をしげしげと見つめた。

 このちびっこいのが父親……。

 父猿は食後の排泄中で、しかしなかなか出ないらしくふんばっているところだった。

 のんきな顔して、いや顔に力は入っているけれども、この小柄なオス猿ももう四歳半、まだ早いけれど繁殖能力は充分にあり、人間でいえば盛りがつきはじめたばかりの男子中学生みたいなものだ。彼女に会うため夜中に親の目を盗んで家をこっそり抜け出す男子中学生のごとく、飼育員の目をかいくぐってフェンスに抜け穴をつくり、そのうえ子供までつくってしまった。

 このオス猿は、はたして自分が父親になったことを知っているのだろうか。いや、知らないのだろう。ハナは出産してすぐにべつの檻に移っているのだから、知りようがない。もしかしたら出産前に「どうしようできちゃったんだけど」「まじかよ」「どうする?」「いやどうって言われても……」みたいなやりとりが、二匹のあいだでひそかに交わされていたかもしれないけれど。

 父猿は唸りながら、ようやく、真っ赤なお尻から糞を落とした。その体格には見合わない巨大な糞だった。だすものをだしきって清々しい顔をしている。

 私は産み落とされたその巨大な糞とともに、自分の頭からも何かがぽろりとこぼれたように、はっと大事なことを思い出した。そうだ、ハナの出産のあわただしさで忘れていたけれど、彼らは赤ん坊の親である前に、一匹のオスとメスなのだった。

 夜な夜なこっそり抜け穴をつくってメス猿に会いにいくオス猿。父親になっても子供の顔すら見れず、せいぜい糞しか産めない父猿。だけど本当はこの父猿も、ハナと赤ん坊に会いたいのかもしれない。ハナだって一日中子供も面倒もみずに尻をかきながら寝てばかりいるけれど、じつは父猿に会いたいという気持ちを心の中でくすぶらせているのかもしれない。

 ハナをもとの檻に戻してみてはどうか。いや、いっそ父猿も一緒にして、親子水入らずで過ごさせてみては。浅野さんに提案してみようか。それは我ながらとてもいい思いつきに思えた。むしろハナの赤ん坊への関心を取り戻すためには、もうそれしかないように思えた。

 けれど、訊くまでもなく、そんなことはできないこともわかっていた。

 オスとメスを同じ檻に入れてまた妊娠したらどうするのか、猿一匹増えるごとに食費がどれだけかかると思ってるのか、無理に決まってる、勝手なこと言うな、お前は赤ん坊の世話だけしていればいいんだ――あの優しい浅野さんが、私がどれだけミスをしても仕事が遅くても使えないとかおまえはだめだとか一言も言わない浅野さんが、そんなことを言うはずがない。けれど、きっと、心の中ではほかの人と同じように、そう思っている。だから結局、私は何も言えなくなってしまう。

 父猿を眺めながら暗い気持ちになっていると

「ちょっと邪魔なんだけど」

「あ……すみません」

 同僚に粗大ゴミを見るような目で見られて、私は顔を伏せて自分の持ち場に戻った。


「……さん、田端さん」

 後ろから声をかけられて顔をあげた。

「ナナの調子、どうですか?」

 後輩の栗原さんが、首を傾げながら中を覗きこんでいる。

「いま、薬を飲ませたところです」

 私は顔だけ振り向いて答えた。

「飲みました?」

「はい。少しだけ」

「そっかあ。早くよくなるといいですねぇー」

 栗原さんは間延びした口調で言うと、ひとつにまとめた長い髪をくるりと翻して去って行った。

 私はふうと息を吐き、哺乳瓶を床に置いた。中身はまだ半分以上残っている。ナナは少し飲んだだけでくたりと頭をもたげ、それ以上飲む気はなさそうだった。

 昨日の帰り、シフトを見て浅野さんが明日休みだと知ったときから不安はあった。

朝出勤して檻を見に行くと、ナナの様子がおかしかった。声もあげず、顔もあげず、半分目をあけたまま寝床でぼうっとしている。心配しつつ、ほかの仕事を片付けてから戻ると、ナナはまだ同じ態勢で寝ていた。ミルクをあげようと抱きあげると、熱湯にでも浸かったように体が熱かった。ハナは子供の異変にきづいているのかいないのか、檻に入ってきた私をちらりと見やっただけで、また寝てしまった。

 その姿を見た瞬間、私は頭に血がのぼってハナを引っぱたきたくなった。自分の子供がこんな状態なのに何してるんだ、心配じゃないのかと。

 無理やり起こしたい気持ちをぐっとこらえて、大急ぎでナナを救急センターに連れていくと、風邪だと診断された。四月とはいえまだ寒い日もありますからねえ。獣医は定型文みたいな言葉とともに私に薬を渡し、しばらく様子を見るようにと告げた。


 一時間ほどかけて、少しずつ薬を飲ませた。

「田端さん、私いまから休憩なんですけど、一緒に行きません?」

 栗原さんがやって来て言う。

「でも……」

「薬飲んだんですよね? それならきっと大丈夫ですよ」

 気が進まなかったが、私は栗原さんに強引に連れられて従業員用の食堂に向かった。

 栗原さんは私の二つ下の女の子で、可愛くて明るくて仕事ができる。彼女が笑うと、光が散ったようにその場が明るくなる。そして、私のことをあからさまに見下すことなく普通に接してくれる、数少ない人でもある。

「田端さんて、誰に対しても敬語ですよねえ」

 栗原さんが、芝生みたいに緑色に染まったバジルのパスタを食べながら言う。

「すみません、癖で」

「なんで謝るんですかー」

 おもしろいことなんてひとつも言っていないのに、栗山さんはけらけらと笑った。

 先輩だとか後輩だとか、年齢が上とか下とか、そういう区分は私にとってあまり意味がない。他人はみんな自分より上にいる。自分より能力があって、自分より人から愛されて、自分より存在価値がある人だ。私が対等に接することができるのは、会話ができない動物たちだけだった。

「なんか可愛いですよね、田端さんて」

「え?」

「なんか危なっかしいっていうか、ほっとけないっていうか……あ、すいません、先輩なのに失礼ですよね。でも、浅野さんもそう思ってるんじゃないかなあ」

「なんで浅野さん?」

 いきなり出てきた名前に驚いて訊き返すと、栗原さんはきょとんとした。

「だって、浅野さん、田端さんのこといつも気にしてるじゃないですか」

「そ、そうかな……」

「知ってます? 浅野さん、自分が早くあがっても、田端さんの仕事が終わるまで待ってるんですよ」

 私は口をひらいたまま動けなくなった。まさか、と思った。

「私、浅野さんから直接聞きましたもん。待ってるくらいなら手伝ってあげればいいのにって言ったら、それじゃあ田端さんのためにならないだろって。愛ですよねえー」

 栗原さんはなんでもないことのように笑いながら言って、パスタをフォークで巻いておいしそうに食べた。

 愛。愛ってなんだろう。私には縁のない言葉すぎて、どう捉えたらいいのかわからない。愛という言葉は家族や恋人同士、もしくは栗原さんのような誰からも愛されるような人のためのものであって、私のようなできそこないの人間に向けられていい言葉ではなかった。

「田端さん、もっと自信もったほうがいいと思いますよ」

 栗山さんは輝かしい笑顔でそう言った。

 彼女はきっと、自分に自信があるのだろう。だからこそ、他人に自信を持てなんていかにも簡単そうに言えるのだ。

 食堂をでたとき、飛び交う人の声に紛れて、アナウンスが聞こえてきた。

「……キティちゃんのイラストがついたピンク色のワンピースを着た五歳の女の子です。お見かけした方は迷子センターまでご連絡ください。繰り返します――」

 私はあたりを見渡した。そんなに都合よく迷子がそばにいるはずもなく「田端さん、休憩終わっちゃいますよー」と栗原さんに呼ばれて、慌てて後を追いかけた。


 休憩から戻ってからも、ナナの熱はいっこうに下がらなかった。咳も鼻水もでて、息も荒い。本当にただの風邪なのだろうか。獣医が風邪だというのだからそうなのだろうけれど、私は不安でたまらなかった。普段なら真っ先に相談する浅野さんも、今日はいない。

 ふと視線を感じて顔をあげると、檻の柵越しに、女の子と目があった。両手で柵をつかんで、中を覗き込んでいる。

 あっ、と私は口の中で声をあげた。キティちゃんのイラスト。ピンク色のワンピース。五歳の女の子――アナウンスで聞いた特徴と当てはまる。

「おさるさん、びょうきなの?」

 女の子の言葉に、私はぎこちなく笑って、そうなの、と答えた。

「おさるさん、くるしそう。かわいそう」

 女の子はいまにも泣きだしそうな声で言った。

「いまはちょっと具合が悪いけど、ちゃんとお薬飲んで、たくさん寝れば大丈夫だよ」

「ほんとに? ほんとによくなる?」

 女の子があんまりにも心配そうに見つめるので、心配しないでと伝えるために、私は大きく頷いた。

 そうだ、迷子だ、と思い出し、檻をでて女の子のところへ行く。

「お母さん、心配してるよ。一緒に行こう」

「おかあさんなんてしらないもん」

 女の子はふてくされたように言った。ケンカでもしたのだろうか。何か言ったほうがいいだろうかと思っていたら

「でもおねえちゃんこまってるから、いってあげる」

 仕方なさそうに言われてしまい、私は苦笑しながら女の子の小さな手をとった。

迷子センターには誰もいなかった。私たちは待合のベンチに座って待った。親は何をしているのか。呼び出しておいて待たせるなんて。もしこのまま誰も迎えに来なかったら……そんなことはないと思いつつ、私は心配になる。

 そのとき、自動ドアがひらいて、男の人が駆けこんできた。その背の高い男の人に、私は釘づけになる。浅野さんだった。

 浅野さんは肩で息をしながら、私に気づいて頭を下げた。

「田端さんが連れてきてくれたのか。ありがとう、助かったよ」

 どうして浅野さんが私にお礼を言うのだろうと思ってぼうっと見ていたが、そうか、私がこの子を連れてきたからだと気づく。浅野さんが、この子の父親だから。

「田端さん、さっき聞いたんだけど」

「あ」不自然なくらい、はっきりと声がでた。

「私、もう戻らなきゃいけないので、失礼します」

 帰る間際、一瞬、女の子と目があった。女の子は何かを言いたそうな目でじっと私を見ていたけれど、結局、何も言わなかった。心配そうな浅野さんの視線を振りきって、私は逃げるようにその場を離れた。


 私は人混みの中を走って持ち場に戻った。私の持ち場。ハナとナナの親子がいる檻と、その周辺。飼育員たちが忙しそうにしている。所在なく突っ立っている私などいないもののようにそばを通り過ぎる。

 ――ありがとう、助かったよ。

 浅野さんの言葉が離れない。仕事中とは違う、父親としての浅野さん。家族の中にいる浅野さん。

 ――浅野さん、自分が早くあがっても、田端さんの仕事が終わるまで待ってるんですよ。

 栗原さんはそう言っていたけれど、やっぱりそれは違うと思う。浅野さんがそんなことをするはずがない。愛なんて、もっとありえない。浅野さんは、私に興味がないのだから。


 閉園後、お客さんがいなくなって音楽が消え、掃除や点検をして終礼をすますと、私はまた檻に戻った。

 柵越しに見える空は仄暗いオレンジ色に染まり、その向こうの街のほうはもう夜のように真っ暗だ。同僚たちが笑いながら帰ってゆく中、栗原さんだけが立ち止まって私を見た。

「田端さん、まだ帰らないんですか? もう帰りましょうよー」

「でも、心配だから」

 私は門が閉まるギリギリまで残るつもりだった。

 薬が効いて、ナナの熱は下がっていた。呼吸も落ち着き、ミルクも飲んでいまはぐっすり眠っている。でも、夜のうちにまた熱があがったら、誰も見ていないあいだに何かおこったら、と心配でしょうがなかった。

「どうしてそんなに頑張るんですか? もう熱下がったんだし、少しくらい手抜きすればいいのに」

 栗原さんは納得いかない様子だったが、私が黙っていると、諦めたように肩をすくめた。

「あんまり無理しないでくださいよー。田端さんまで風邪ひいたら、ナナにミルクあげる人、いなくなっちゃうんですからね」

「……もう少し、様子を見たら帰ります」

 もう少しっていつまでだろう。私は疲れきった頭でぼんやりと思った。門が閉まる時間になっても、私はナナを置いて帰る気にはなれなかった。浅野さんがいたら何て言うだろうか。電話をかけようか迷ったけれど、さっき、女の子を迎えにきた浅野さんの顔を思い浮かべたら、それもできなかった。

 もうとっくに夜が来ていた。檻の中は外にいるときよりもずっと暗く、静かだった。電灯の白い光だけが、淡い月明かりのようにぼんやりとこの小さな空間を照らしている。

 ひとりなのだ、と思う。見慣れた景色が煙につつまれるように、ゆっくりと闇に飲み込まれてゆく。それでもまだ私は動けずにいる。

 このところ私の関心は、この二匹の親子に集中していた。エリアにはたくさんの猿がいて、仕事はほかにもたくさんあるのに、何をしていてもつねに、頭の中には二匹が居座っていた。

 ――どうしてそんなに頑張るんですか?

 栗原さんに尋ねられたとき、私は答えられなかった。逆に問い返したかった。どうして病気の赤ん坊をほうって帰れるのか。どうして手抜きなんてできるのか。赤ん坊はこんなに小さくて頼りなくて自分では何もできないのに、どうしてそんな安易に大丈夫だなんて思えるのか。

 明日の朝、もしナナが息をしていなかったら、私はきっと、一生この日のことを忘れられずに自分を責め続けるだろう。誰もそこまで考えていない。たかが風邪くらいで大げさだと、と影で言われていたのも知っている。

 でも、この親子を見ていると、どうしたって自分の幼い頃と重ねてしまうのだ。五歳の私と、産まれたばかりの妹と、子供を育てることを放棄した母を。

 幼い頃に一度だけ、母と妹と私と三人で動物園に行ったことがあった。一日中働きもせずに寝てばかりいた母が、ある朝突然「どっか行こうか」と言いだした。どこ行きたい、と私に尋ねるので、私は動物園と答えた。

 初めての動物園に、私は門をくぐるなり夢中になった。テレビでしか見たことのない本物の動物たちが目の前にいて、実物大で動いている。それだけで感動だった。たくさんいる動物たちの中で、とくに気に入ったのが猿だった。顔立ちも仕草も人間とよく似ている。だけど猿たちは人間にできないことを軽々とやってのける。猿たちの動きは大胆で、飛んだり跳ねたり走ったり、延々と運動会をやっているみたいだった。

じっと見ているうちに、猿たちの顔が知っている人たちの顔に見えてくる。あれは親戚のおばさん、あれはコンビニの店員さん、と指さすと、母は、なによそれと言って笑った。私は嬉しくなって、もっとおもしろいものを見つけようと、檻にへばりついて猿たちを観察した。その日の母はやけに明るく、猿に夢中の私を文句も言わずに待ってくれた。めずらしく妹にミルクをあげて、普段は絶対にやりたがらないオムツ替えまでしていた。

 朝から夕方動物園を出るまで、ずっと楽しかった。奇跡みたいな一日だった。母は変わったのだと私は思った。こんな日がずっと続いたらいい。本気でそう思っていた。

 その日を最後に、母とは会っていない。

 翌朝目が覚めると、母は部屋にいなかった。いつもテレビを見ながら寝ている布団にも、風呂場にも、どこにもいなかった。コンビニに煙草を買いに行っただけかもしれないと思い、私は待った。妹が泣きはじめたのでミルクをあげた。一時間待っても、二時間待っても、夜になっても、母は帰ってこなかった。外が暗くなってようやく、散らかった机の上に一万円札がおいてあるのに気づいた。手紙も、短いメモさえなかった。一枚の紙切れだけだった。私は幼いながらにその一枚にどれだけの価値があるのかわかっていたけれど、私にとってそれはやはり、ただの紙切れでしかなかった。こんなものだけをおいて母はいなくなってしまった。もう二度と戻ってくるつもりはないのかもしれない。そんな予感がした。

 ふと気づくと、ハナが起きていた。ついさっきまで丸太のように床に転がっていた体を起こして、私を見ていた。ハナの顔をしっかりと見たのはずいぶんと久しぶりのような気がした。ふさふさとした茶色の毛、その真ん中にある真っ赤な顔、さらにその真ん中にある丸く大きな目。その目がじっと私を見つめ、何かを訴えかけている。

 私にはハナが何を訴えているのか、なんとなくわかる気がした。

 ここから出たい、ではないか。

 母は私と妹を置いて出ていった。私たちにとってただひとつの部屋は、母にとっては狭い檻と同じだった。母が檻から出たがっていることを、私はずっと心のどこかで感じていた。言葉にしなくても、毎日見ていた母の背中から、その気配から、母の心を感じとっていた。

 いま、私が扉を開けさえすれば、ハナは自由になれるかもしれない。けれど自由を手にしたからと言って、生きていけるわけじゃない。私にはハナが檻を出たその後が容易に想像できた。だから扉を開けてやることはできないのだ。

 ハナを見つめたまま、何時間も過ぎたような気がした。

「……田端さん?」

 突然暗闇から声がして、私はびくっとした。

 見上げて、息を呑んだ。檻の前に立っていたのは、浅野さんだった。

「ずっといたのか。こんな時間まで」

 浅野さんは呆れたように言った。

「こんな時間」

 そこでやっと自分の腕に時計がついているのを思い出して見ると、十一時を過ぎていた。

「どうして浅野さんが」

「夕方、ナナが熱だしたって電話で聞いて」

 浅野さんは檻の扉を閉めて、背をかがめて中に入ってきた。

「まあ、本当はこんな時間に入ったらだめなんだけど。どうしても心配だったから」

 ――いくら心配でも、それはだめだ。

 夜まで残りたいと頼んだとき、浅野さんはきっぱりと私に言った。そう決まってるからと。なのに、浅野さんはここにいる。門だってとっくに閉まっているのに。

「まさかとは思ったけど、いるんだもんなあ、ほんとに。いや参ったよ」

 怒られると思っていたのに、浅野さんはそう言って笑った。私は恥ずかしくなって、すみません、とつぶやいた。

 浅野さんは寝ているナナのおでこにそっと手を触れて、安心したように息を吐く。

「熱は下がったみたいだな」

 あの、と私は心配になって言った。

「こんな時間までいて、怒られませんか」

「怒られる? 誰に?」。

「奥さんとか……お子さんも淋しがるだろうし」

「いや、それはない。というか、じつは娘に頼まれて来たんだ。おさるさんが心配だから行ってあげてって」

「えっ」

「昔からそういうのに敏感な子で、俺が体調悪いときもすぐに気づくんだ。心配症なのは俺ゆずりだな」

 ――おさるさん、くるしそう。かわいそう。

 そう言ったあの女の子の泣きそうな顔を思い出す。

「ほんとは一緒に来るってごねてたんだけど、それはさすがにだめだって言って、実家に預けてきた。さっきやっと寝たってさ」

「そうでしたか」

 あれ、と思う。実家、と浅野さんは言った。

 私の疑問に答えるように、ああそれから、と浅野さんは続けた。

「奥さんはいないよ。娘が赤ん坊の頃、出て行ったんだ。子供より、仕事が大事だって言って」

 私は目を見張り、息を呑んだ。

 ――おかあさんなんて、しらないもん。

 あの子は私にそう言った。言葉通り、本当に知らないという意味だったのだ。

 浅野さんがかすかに笑みをこぼした。暗がりの中で、その横顔が、傷ついた少年のように痛々しく見えた。

「しばらくして帰ってきて、たまには子供に会いたいって言うんだ」

 そんな勝手な、と言いそうになって堪えた。

「もちろん拒否したよ。勝手に出て行って、そんな都合のいい話があるかって。でも、本当にそれでよかったのか、わからなくなるときがある。そんなことを俺が決めていいのか。娘には、たまにでも会える母親が必要なんじゃないかって」

たまに会える母親って何だろう。子供は、自分にとって必要かそうでないかなんて、わからない。ただ自分の置かれた状況を受け止めるしかないのだ。

 母親に置いていかれた子供の気持ち。私はそれを、よく知っていた。部屋にまみれたゴミ屑同然に、私には価値がないのだと最初に思ったのは、あのときだった。

 私――ひらいた口から、こぼれるように言葉がでてきた。誰かにその話をするのは初めてで、少し唇がふるえた。

「私、昔、死にかけたことがあるんです」

 浅野さんは目を丸くして私を見た。

「五歳のとき、母親に置いていかれて、何日もお腹を空かせて、妹はぐったりしてて、あのとき、もう本当に死ぬんだと思いました」

 後から知ったのだが、妹は脱水症状をおこしていて、かなり危険な状態だった。私たちは電気もガスも止まった、昼も夜も暗いずっと真夜中みたいな部屋で、死の淵をさまよっていた。

 何日もそんな状態が続いていたとき、電話のなる音が聞こえた。それまでにも何度かかかってきていた児童相談所からの電話だった。お母さんがいなくなったことを話すと、迎えがやってきた。おじいさんぐらい歳のいった男の人と、若い女の人だった。怖かったね、もう大丈夫だから、と女の人が優しく言った。その瞬間、涙があふれた。安心と、久しぶりに触れた優しい手に。

 その後、私と妹は養護施設に入り、高校を卒業するまで施設で過ごした。自分の生い立ちを誰にも言えなかった。なのに、みんな知っている気がした。私が施設出身の、親に捨てられた子だと。

「母は、きっと、私たちが死んでも構わなかったんです。どうでもよかったんです」

 子供を心配しない母親はいないとか、子供を愛さない母親なんていないとか、そんなのは嘘だ。子供を心配しない母親、愛さない母親は現実にいる。私の母親は、子供を捨てて、私の知らない男と暮らすことにした。そういうシビアな現実が、世の中にはあふれている。

「迷う必要なんてありませんよ」

 私はきっぱりと言った。

「捨てられたことを、子供は覚えてるんです」

 私は怒っていた。いままでの私なら、口に出す前に呑み込んでいた。普通の家庭を知らない私が、他人の家庭に口を挟むことなんてできない。そう思って遠ざけていたはずだった。でも、私はあの女の子を知っている。病気のナナを心配して泣きそうになっていた心優しい女の子。おかあさんなんて知らないとつぶやいた女の子。一緒にいたのはほんの少しの時間だけれど、関係ないなんて思えなかった。

「一度母親に捨てられたと知った子供の気持ちは、一生消えないんです」

 私は泣きながら訴え続けた。会ったこともない女の子の母親、そしてずっと忘れたふりをしていた母に対するやりきれなさや悔しさや怒りが、傷口から血が噴き出すみたいにあふれた。

「とりあえず落ち着こう、な」

 浅野さんになだめられて、私は我に返った。

「す、すみません。つい興奮して、必要ないなんて勝手なことを」

 とたんに恥ずかしくなって、私はもごもごと言った。

「いや、ありがとう。俺のかわりに怒ってくれて。ずっと言いたかったこと、言ってくれて」

 そう言った浅野さんの目には、少しだけ涙が浮かんでいた。

 ――ありがとう。そう言いたいのは、私のほうだった。

 浅野さんはずっと、私の憧れだった。仕事ができて優しくてみんなに頼られて、尊敬できる人。顔も知らない父親の面影をどこかに感じてもいた。ほかの誰より特別で、はるか上にいる人だった。それなのに、ほかの人みたいには、遠い存在に思えなかった。

 それはきっと、この気持ちを知っていたからだ。大切な人に捨てられたときの、自分がいらないものに思える気持ちを、浅野さんは痛いほど知っていた。だからハナとナナのことも、ずっと心配して見守っていたのだ。

「ハナ」

 浅野さんは、ハナのほうを向いて名前を呼んだ。それまで人形みたいにじっとしていたハナが、たったいま電池を入れられたみたいに、そうっと顔をあげた。

「おーいハナ、こっちこい」

 こっちこいと言いながら、浅野さんは腕を伸ばして、強引にハナの体を引き寄せた。

「おまえもな、親になったんだからしっかりしてくれよ。いつまでもお子様じゃないんだからな」

 その言い方がまるで巣立ってゆく娘に語りかけるようで、私は笑ってしまった。

そうか、浅野さんは、私よりずっと長く猿たちを見ているんだ。ハナが赤ん坊の頃から知っているのだから、もう娘みたいなものなのかもしれない。

 ハナは少し不服そうに、でも抵抗するでもなく、浅野さんの腕の中にすっぽりとおさまってじっとしていた。

「さてと」

 浅野さんはハナを横に下ろして、膝に手をついて立ち上がった。

「ナナもとりあえず大丈夫そうだし、そろそろ帰るか。いつまでもここにいるわけにいかないしな」

 私は頷き、涙でぐしゃぐしゃになった顔を汚れた制服の袖で拭った。

 檻を出て、扉に鍵をかける。

 すぐにはできなくても、いつか変われる日が来たらいい。のそのそと立ち上がり寝床に寝転がるハナを眺めながら、私は思った。檻の中は窮屈だし退屈かもしれないけれど、そのかわり、どこよりも安全な場所だから。


 いつのまにか日付が変わっていた。もうここまでくると何時だって同じような気がした。

 私は浅野さんと並んで真夜中の動物園を歩いた。星が瞬き、街頭が道をぽんやりと照らす。動物たちや檻や建物は暗闇に包まれて静かだった。

 でも、ひとりじゃない。隣には、私が誰よりも頼りにしている浅野さんがいる。

誰もいない部屋に帰っても、きっと前ほど夜を不安に思うことはない。そんな気がした。

「腹減ったな。そういや俺、昼からなんも食べてなかったな」

「……私もです」

 ぐるる、と私のお腹の虫が小さくないて、浅野さんが笑った。

「なんか食べてくか」

「お店まだ開いてますかね」

「探せばなんかあるだろ」

 ふたり並んで、近づいたり離れたりしながら、門までたどり着いた。お腹を満たす前に、まずはこの門をのぼらないと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

檻の中 松原凛 @tomopopn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る