第17話



 真夜中、フェインは目を覚ました。

 病院の仕事にも慣れてきて、死んだように眠ることが少なくなったことも大きいが、少し尿意を催したからだった。

 今は一人で眠っている子供部屋から、そっと扉を開けてリビングに出る。

 その時、暗闇で開いていた瞳孔よりもなお大きく、フェインの目が見開いた。その眼には、暗闇の中で大きな袋を抱えた大男が映っている。

「ぅ――」

「静かにっ」

 チャリンと音が鳴った。

 大男はその音だけを立ててフェインに近づき、口元を押さえていた。その手の臭いと冷たさで、フェインは大男の正体に気づいた。

「……シュトラウスさん?」

「そうだ。よく気づいたな」

 少し口を動かして小声を漏らしただけなのに、シュトラウスには通じた。

「煙の出るやつ……たばこ? の臭いがしたから」

 フェインは小声で話した。手を離したシュトラウスが、人差し指を口元で立てて「静かに」というポーズをしていたからだ。

「そっちもなんだが、俺の気配に気づけたんなら良い勘してるぜ?」

「……お便所、行きたくて」

「行っといで」

 シュトラウスはニヤっと笑った。

「ん? 見つかっちまったからには勝手に消えたりしねーから、早く行ってこい」

「わかりました……」

 そう言った後も、フェインは何度か振り返りながらトイレに入っていった。

 フェインがトイレから出てくると、シュトラウスは黒ずんでひしゃげた何かと、さっき手に持っていた大きな袋をテーブルの上に静かに並べていた。

「それは……?」

 フェインが小さく問いかける。

「ん……少し外で話すか」

 そう手招きされるまま、フェインは外へ出た。

 その際、シュトラウスは着ていた臙脂色のベストをフェインに着せた。フェインには大きすぎるので、ノースリーブのカーデガンの様に羽織らせる。

「まぁ……座んな」

 シュトラウスとフェインは並んで家の前の石段に座った。

 静寂に澄んだ真夜中。明るく輝く星空と、暗闇に沈む家々。

 こんな時間に起きていたことなどないフェインにとって、この時の特別な光景と感覚は、大人になっても強く遺るものとなった。

「あんま時間もねーし、回りくどいのは嫌いだからよ……。お前のパパ……死んじまってた」

 フェインは少し固まった後、口を真一文字に結び、目に涙を浮かべた。そうして、しっかり話しを聞こうとしている。

「……机の上に形見を置いといた。眼鏡とお金な……。大事にしろよ」

「……ぅん……!」

 きつく閉じた口から、微かに声が漏れてくる。

「偉いな、お前。良い漢になるぜ」

 シュトラウスはフェインの眼を見て、そう思った。

「だけどよ、辛かったら泣いていいし、逃げていいし、誰かに頼ったっていいんだ。その分、強くなれば。腕っぷしじゃなく、心がよ」

「……じゃあ……どこにも行かないで……」

 フェインは俯いて、膝を濡らしながら自分の気持ちを吐き出した。

「僕……父さんも死んじゃって……母さんも……病気で死んじゃうかもしれないのに……エリサも……。独りじゃ怖いよ……!」

 その気持ちを受け、シュトラウスはフェインを優しく抱き寄せる。そして、着せているベストの胸元から白いハンカチを取り出し、フェインの口元にそっと当てた。

「泣け。思いっきり」

 それからフェインはシュトラウスにしがみつくように、縋るように泣いた。くしゃくしゃになったハンカチから、堰を切ったように泣き声が漏れ、反響する。

 フェインは物心がついてから初めて、自分の感情を素直に表に出していた。

 本人に良い子を演じていたつもりはないが、どこかで両親の顔色を窺い、妹の世話をして、良いお兄ちゃんであろうとしていた。そのストレスがここ数週間で一気に蓄積され、限界を迎えてしまっていた。

 本当は誰かに頼りたかった。甘えたかった。

 しばらくして、その声は小さくなっていく。

 シュトラウスは震えていた小さな肩から右手を離す。そして、冷えた左手で腰に括り付けていたランタンを器用に外した。

 泣き疲れたフェインは、視界の上の方で何かが光っていることに気づいた。

 赤くなった顔をゆっくりと上げてみると、そこにはランタンの灯りに照らされた氷の星空が広がっていた。

「どうだ? キレイだろ? 他の奴には内緒な」

 啞然としながら目を見開いてるフェインの目線の先で、シュトラウスはランタンを軽く揺する。すると白光が優しく揺らめき、氷の星々が瞬いた。

「……シュトラウスさんは……魔法使いなの?」

 いつの間にか階段ごとフェインたちを覆う様に、氷の膜のドームが地面ピッタリに作られていた。その中にいるフェインが、まるで自分たちがガラス玉の中に入ったかのように思い、シュトラウスにそう訊いてもおかしくはなかった。

「当たらずも遠からず、ってところか。でも、どっちみち他の人には内緒な」

「うん。……良い魔法使いだから、僕たちのことを助けてくれるの?」

「それはちょっと違うな。……過去に犯した過ちってのを、他の誰かで償いたくなる。大人にはそーいう時があんのさ」

 フェインはその言葉を必死に理解して、何か質問を口にしようとした。

 だが、シュトラウスの紅い星の様な瞳を見て、その先の星空に視線を向けた後、口だけを動かした。

「難しかったな。お前も大人になれば解るさ。……さ、じゃあそろそろ、他の人も助けに行かなくちゃあな」

 シュトラウスはランタンをフェインに渡すと、氷のドームを解除した。氷は風に運ばれるようにパラパラと散りはじめ、夜空に昇っていく。

「シュトラウスさん……」

 フェインは哀しげな顔で見上げた。

「フェイン、別れは辛いもんだが……それでも、生きていかなきゃならねぇ。だからよ、強くなれ、フェイン。お前ならなれる。パパの分まで……ほどほどに頑張ってな」

 シュトラウスはそう言って、フェインの頭を撫でた。

 その夜について、フェインの記憶にはそこまでしか遺っていない。不意に意識が遠のいた後、気がついたら朝になっていたからだ。

 冷たい手の記憶の他には、ベッド横のテーブルの上に、ランタンと臙脂色のベストと白いハンカチが遺されていた。

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