第17話
3
真夜中、フェインは目を覚ました。
病院の仕事にも慣れてきて、死んだように眠ることが少なくなったことも大きいが、少し尿意を催したからだった。
今は一人で眠っている子供部屋から、そっと扉を開けてリビングに出る。
その時、暗闇で開いていた瞳孔よりもなお大きく、フェインの目が見開いた。その眼には、暗闇の中で大きな袋を抱えた大男が映っている。
「ぅ――」
「静かにっ」
チャリンと音が鳴った。
大男はその音だけを立ててフェインに近づき、口元を押さえていた。その手の臭いと冷たさで、フェインは大男の正体に気づいた。
「……シュトラウスさん?」
「そうだ。よく気づいたな」
少し口を動かして小声を漏らしただけなのに、シュトラウスには通じた。
「煙の出るやつ……たばこ? の臭いがしたから」
フェインは小声で話した。手を離したシュトラウスが、人差し指を口元で立てて「静かに」というポーズをしていたからだ。
「そっちもなんだが、俺の気配に気づけたんなら良い勘してるぜ?」
「……お便所、行きたくて」
「行っといで」
シュトラウスはニヤっと笑った。
「ん? 見つかっちまったからには勝手に消えたりしねーから、早く行ってこい」
「わかりました……」
そう言った後も、フェインは何度か振り返りながらトイレに入っていった。
フェインがトイレから出てくると、シュトラウスは黒ずんでひしゃげた何かと、さっき手に持っていた大きな袋をテーブルの上に静かに並べていた。
「それは……?」
フェインが小さく問いかける。
「ん……少し外で話すか」
そう手招きされるまま、フェインは外へ出た。
その際、シュトラウスは着ていた臙脂色のベストをフェインに着せた。フェインには大きすぎるので、ノースリーブのカーデガンの様に羽織らせる。
「まぁ……座んな」
シュトラウスとフェインは並んで家の前の石段に座った。
静寂に澄んだ真夜中。明るく輝く星空と、暗闇に沈む家々。
こんな時間に起きていたことなどないフェインにとって、この時の特別な光景と感覚は、大人になっても強く遺るものとなった。
「あんま時間もねーし、回りくどいのは嫌いだからよ……。お前のパパ……死んじまってた」
フェインは少し固まった後、口を真一文字に結び、目に涙を浮かべた。そうして、しっかり話しを聞こうとしている。
「……机の上に形見を置いといた。眼鏡とお金な……。大事にしろよ」
「……ぅん……!」
きつく閉じた口から、微かに声が漏れてくる。
「偉いな、お前。良い漢になるぜ」
シュトラウスはフェインの眼を見て、そう思った。
「だけどよ、辛かったら泣いていいし、逃げていいし、誰かに頼ったっていいんだ。その分、強くなれば。腕っぷしじゃなく、心がよ」
「……じゃあ……どこにも行かないで……」
フェインは俯いて、膝を濡らしながら自分の気持ちを吐き出した。
「僕……父さんも死んじゃって……母さんも……病気で死んじゃうかもしれないのに……エリサも……。独りじゃ怖いよ……!」
その気持ちを受け、シュトラウスはフェインを優しく抱き寄せる。そして、着せているベストの胸元から白いハンカチを取り出し、フェインの口元にそっと当てた。
「泣け。思いっきり」
それからフェインはシュトラウスにしがみつくように、縋るように泣いた。くしゃくしゃになったハンカチから、堰を切ったように泣き声が漏れ、反響する。
フェインは物心がついてから初めて、自分の感情を素直に表に出していた。
本人に良い子を演じていたつもりはないが、どこかで両親の顔色を窺い、妹の世話をして、良いお兄ちゃんであろうとしていた。そのストレスがここ数週間で一気に蓄積され、限界を迎えてしまっていた。
本当は誰かに頼りたかった。甘えたかった。
しばらくして、その声は小さくなっていく。
シュトラウスは震えていた小さな肩から右手を離す。そして、冷えた左手で腰に括り付けていたランタンを器用に外した。
泣き疲れたフェインは、視界の上の方で何かが光っていることに気づいた。
赤くなった顔をゆっくりと上げてみると、そこにはランタンの灯りに照らされた氷の星空が広がっていた。
「どうだ? キレイだろ? 他の奴には内緒な」
啞然としながら目を見開いてるフェインの目線の先で、シュトラウスはランタンを軽く揺する。すると白光が優しく揺らめき、氷の星々が瞬いた。
「……シュトラウスさんは……魔法使いなの?」
いつの間にか階段ごとフェインたちを覆う様に、氷の膜のドームが地面ピッタリに作られていた。その中にいるフェインが、まるで自分たちがガラス玉の中に入ったかのように思い、シュトラウスにそう訊いてもおかしくはなかった。
「当たらずも遠からず、ってところか。でも、どっちみち他の人には内緒な」
「うん。……良い魔法使いだから、僕たちのことを助けてくれるの?」
「それはちょっと違うな。……過去に犯した過ちってのを、他の誰かで償いたくなる。大人にはそーいう時があんのさ」
フェインはその言葉を必死に理解して、何か質問を口にしようとした。
だが、シュトラウスの紅い星の様な瞳を見て、その先の星空に視線を向けた後、口だけを動かした。
「難しかったな。お前も大人になれば解るさ。……さ、じゃあそろそろ、他の人も助けに行かなくちゃあな」
シュトラウスはランタンをフェインに渡すと、氷のドームを解除した。氷は風に運ばれるようにパラパラと散りはじめ、夜空に昇っていく。
「シュトラウスさん……」
フェインは哀しげな顔で見上げた。
「フェイン、別れは辛いもんだが……それでも、生きていかなきゃならねぇ。だからよ、強くなれ、フェイン。お前ならなれる。パパの分まで……ほどほどに頑張ってな」
シュトラウスはそう言って、フェインの頭を撫でた。
その夜について、フェインの記憶にはそこまでしか遺っていない。不意に意識が遠のいた後、気がついたら朝になっていたからだ。
冷たい手の記憶の他には、ベッド横のテーブルの上に、ランタンと臙脂色のベストと白いハンカチが遺されていた。
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