第22話パン屋の妻の過去
ユッカは、ムッシュルとルカが営むパン屋へと向かった。
町には数件のパン屋があるが、そのなかでもムッシュルのパン屋は美味いと評判である。新商品を多く出していることもあり、味についても飽きがくることがない。ただし、ユッカはあまり利用したことがなかった。
理由は簡単だ。
家から少し遠くて、途中でパン屋が二件もあるからである。ちなみにムッシュルの店では柔らかいパンを中心に扱っていることもあり、アリテも利用していないであろう。彼の好物は、歯が欠けそうなぐらいに固いパンなのだ。
「あら、ユッカじゃないの」
パン屋のなかでは、年嵩の女性たちが集まって新作のパンを考えていた。テーブルの中央には、いくつかのパンが置かれている。あれが新作のパンなのだろう。
「ちょっと試食していきなさいよ」
女性の一人が、ユッカの口にパンを放り込んだ。いや、詰め込んだという勢いだった。
ユッカの口のなかに、パンが放り込まれた。その瞬間に、生臭い香がいっぱいに口に広がってユッカは思わず吐き出しそうになる。
ユッカは頑張って咀嚼し、ごくんと飲み込んだ。口の中にはパンはなくなったと言うのに、口のなかは生臭いままである。
こんな不味いものをよくも作れたものである。
ユッカは料理が出来ないが、自分ならばもっと真面な物が作れると思ってしまう。それぐらいに酷い味であった。
「これ、酷い味だよ。本当に酷い味だ」
二回も言ってしまった。
「そうなのよね。不味いパンばかりができるのよね。これは魚の身を練り込んだのだけれども……川魚だったのが悪かったのかしら」
パンのアイデアを出したらしい女は悩んでいたが、そのような問題でもないような気がした。香辛料やハーブも何も使わないから魚臭いのだ。料理なんてしないユッカが思いつくのに、どうして女たちは思いつかないのか
「魚のすり身を包んでみようかしら?」
それよりも先に、魚の臭み抜きをしてほしい。
ユッカは、そう心の底から思った。
それぐらいには、魚パンは不味かったのだ。
ああでもないこうでもないと悩む婦人たちは、次々にユッカの口に新作のパンを詰め込んでいく。どれも美味しくなかった。祭り用に奇抜なパンを作りたいが、それはことごとく失敗しているようだ。
ここまで失敗するならば、パンは売り出さない方が良いのではないだろうか。
ユッカの思いは虚しく、試食は続いた。正確に言うならば、口の中にパンを放り込まれる作業だ。
女たちは朝からパンの味見を繰り返していたので、お腹がいっぱいになってしまったらしい。だからこそ、やってきた若いユッカの胃袋を頼りにしたのである。
空腹だったので、ユッカとしてはパンは嬉しい。嬉しいが、全て美味しくないのはいただけない。どうやったら、こんなパンが作れたのか。いっそのこと教えて欲しい。
「この魚パンは駄目ね。こっちのイノシシパンはどうかしら?」
パンから離れていても分かる獣臭さに、ユッカは首を横に振って否定した。お腹はいっぱいになっていたし、ここにやってきたのはパンを試食するためではない。
いや、正直に言えば試食もしたかった。試食もしたかったが、美味しいものに限る。
ユッカは、パン屋の厨房にいるだろうルカに会いに来たのである。
ユッカは、エアテールに聞いていたルカの経歴を今一度思い出す。なにせルッカもそれなりの年齢なので、古い話ばかり。十代半ばのユッカにとっては、初耳なことばかりだった。
エアテールによれば、ルカは二度目の結婚でムッシュルと一緒になったのだという。
ルカは、一度目の結婚の際に子供と夫を流行り病で共に亡くた。そして、二度目の結婚でムッシュルと結ばれたのだ。
なお、ルカは近隣の町の出身だ。ムッシュルの親と亡くなったルカの親が知り合いだったことが縁になって、この町に嫁いで来たのである。
結婚前は、ルカとムッシュルはあまり交流が出来なかったらしい。
家同士の繋がりを重視する貴族はともかく、庶民ともなれば恋愛結婚も珍しくはない。しかし、親が結婚相手を探してくる場合も多々あることだ。ルカの場合は親がムッシュルを進めたので、交流の場を設けられなくても再婚を決めたのだろう。
親がもってくる縁談は、よっぽどのことがない限りはおかしなことはない。親は子のために結婚相手を吟味するからだ。だが、ルカの場合は彼女自身の条件もあまり良くはなかった。
ルカは二度目の結婚だったし、美人ではあるが適齢期は過ぎている。考えたくはないがムッシュルの両親に、色々と足元を見られたのかもしれない。
「あれ。ルカさんは、いないの?」
生臭さに耐えながら、ユッカはルカを探した。だが、厨房にルカはいない。厨房にいたのはムッシュルの妹で、普段から店を手伝っているシェイカだった。
シェイカは勝ち気な女性で、目尻が吊り上がっていることもあって怖い印象を抱かれがちだ。すでに結婚して二人の子供を育てているが、兄の店で働いて家計と実家を助けている働き者なのである。
だが、パンを焼く腕前は微妙だ。
エアテールによれば、最初こそパン屋はシェイカが継ぐという話もあったらしい。しかし、シェイカの腕が一向に上がらないので、ムッシュルが後継ぎとなったと言う話だ。美味しくない新作のパンの数々は、彼女の手によって生まれたのかもしれない。
「ルカ姉さんなら、衣装作りの手伝いに行ったわ。器用な人だから」
ルカが作ったパンは動物を模したものが多くて、幼い子供に大人気だった。へぇ、とユッカは感心する。あのパンたちは、彼女の器用さによって作られていたらしい。
「もしかして、ルカさんって子供が好きなのかな?」
ルカとムッシュルの間には子供はいないが、一度目の結婚の際にはいたという話だ。ルカとムッシュルの結婚時期を考えたら、子供は幼いうちに亡くなってしまったのかもしれない。だからこそ、ルカは幼い子供たちをパンで喜ばせたいと思っているのだろうか。
だとしたら、ルカは優しい人なのだろう。
「ねぇ、私のパンはどう思う?」
シェイカが、ずいと身を乗り出してきた。ユッカよりもかなり年上のシェイカは、人との距離感が近い。
いや、これはシェイカにとってユッカが子供だからだろう。アリテと喋っていた時は、シェイカは頬を染めて普通の距離感でいた。
シェイカは異性として、ユッカにまったく興味がない。だからこそ、シェイカはユッカに気安いのだ。これは、アリテにだって言えることだろう。子供なのは認めるが、距離感だけは大人と同じ扱いをして欲しいとユッカはしみじみと思う。
ユッカは大人ではないが、心の方は大人に近いと思っている。歳が離れていたとしても相手が美形だったり、異性に必要以上に近付かれると戸惑ってしまうことだってあるのだ。
でも、これを大人に言うと思春期だと言って笑うのである。大人たちはズルい。自分たちだって、ユッカのような心を抱えていた時期があるというのに。
子供の心を忘れるような大人にはなりたくないとユッカは思った。
「正直に言っていい?」
ユッカは大人の心が分かる子供なので、シェイカの様子をうかがい見た。シェイカは何を言われても気にしないとばかりに、胸を叩く。それを信じて、ユッカは正直に答えた。これは、ユッカの嘘偽りない気持であった。
「不味い!」
「力いっぱい言うな!!」
シェイカ、は泣き出してしまった。
こんなの女子と同じだ。大人なのに子供と一緒だ。いいや、もはや女児である。女性というのは、いつまでも女児の心を持っているのだろうか。そこまで考えて、ユッカはアリテを思い出す。
彼は恐らくだが、いつまでも男児の心を持っている。だから、いつまでも人にものを投げつけているに違いない。
「大人って面倒くさいよぉ」
ユッカは悲鳴を上げる。
十五歳のユッカには、まだまだ大人たちは理解しがたい。というか、理解しがたいことしかしていない大人が周囲に多すぎる。エアテールみたいな立派な人格者ばかりだったらいいのに、とユッカは考えてしまっていた。
「ルカ姉さんみたいにパン作りも完璧になりたいのに……。どうして料理が上手くならないのかしら。愛情は、しっかり注いでいるのに」
愛情より技術を注ぎ込んで欲しい。そして、美味しいパンを作ってほしい。せめて、食べられるものを作って欲しい。今回のパンは飲み込むので精一杯だった。
美味しいものが食べたい。
ユッカは切実に、そのように思った。
「そういえば……。アリテは、技術と愛情は比例するって言っていた」
愛情を持つほどの集中力や努力をしなければ人の技術は向上しない、とアリテは言いたかったのであろう。職人らしい言葉だ。
言われたと当時は何も思わなかったが、今更になってアリテの言葉の偉大さが分かった。物作りには、愛情が確かに必要だ。
そうでなければ、ユッカは美味しくないパンを食べる羽目になるのでる。
ユッカがアリテの名前を出した途端に、シェイカは大きなため息をついた。そして、ユッカをじっと見る。その目がじとっとしているような嫌な眼つきだったので、ユッカは後ずさりした。
「アリテさんはいいわよね。美形で、子供好きで……欠点なんてないじゃない」
シェイカの言葉に、ユッカはすぐに首を横に振って否定した。アリテは見た目が良いだけで、欠点だらけだ。子供っぽいし、すぐに物を投げる。固いパンばかり食べているし、酒癖も悪い。
「それに、それほど子供好きでもないような……」
というよりは、アリテ自身が子供なのである。アリテが子供に面倒を見てもらっている様子は想像できるのだが、逆に子供の面倒を見ている様子はまるで想像ができない。
「ユッカと一緒にいるのだから、子供好きに決まっているわよ」
シェイカの目には、アリテがユッカの面倒をみているように見えているらしい。非常に遺憾である。ユッカの方が、アリテの面倒を見ているというのに。
「兄さんじゃなくて、アリテさんに嫁いだら姉さんも幸せになれたのに」
ムッシュルは子供が好きではなくて、子供を作ることを反対しているらしい。小さな子の面倒を見るのが嫌だというのならば、ある程度育った子供を養子にもらう気なのだろうか。それとも弟子をとって、パン屋をませる気なのか。
「まぁ、そんなの嘘で実際は出来ないだけなのよ。絶対に、兄さんは種無しよ。前の結婚相手のときは、姉さんには子供がいたんだもの」
妹のあけすけな話に、ユッカの顔は引きつった。ムッシュルとルカ夫婦に子がいないことは知っていたが、妹に種無しと侮辱される兄が同じ男としてかわいそうだ。
夫婦の幸せが子供の有無にかかわるとはユッカは思っていないが、種無しと言われるのは屈辱的である。出来ないようにしていると思われた方が、何倍もマシだ。
「神様が授けてくださらないだけじゃないのか?」
ユッカは顔がを引きつらせながら言った。
大多数の町の人間は、週に一回は教会に行って祈りを捧げる。子供は、特に勤勉に通って神父から神の教えを学ぶのが良しとされた。
ユッカが今よりもずっと幼い頃には、教会に通って神父から人生において知るべきことを教えてもらっていた。学校とは別に通うので大変だったが、神父に隠れて友人とふざけることが楽しかったことを覚えている。神父に教えてもらったこともそこそこは覚えているので、神様には当時のことを許して欲しいところだ。
ユッカが教会で聞いた話では、夫婦となった男女に授けられる最大の幸福が子供という話だった。夫婦の間に子が産まれない場合でも小さな幸せがある。神父は、そんなことを言っていたような気がする。あくまで、ユッカのおぼろげな記憶によればだが。
「あのね。神様が、この世の全てを動かしているわけではないの。女の豊かな畑に、男の種が蒔かれなければ実は出来ない。それだけのこと」
シェイカの言葉に、ユッカは赤くなった。
何をすれば赤子できるかは知っていたが、知人の女から聞くような話題ではない。いや、同世代の男子同士でもなかなか恥ずかしい話題だ。でも、興味がないわけでもない。
このような話題の緩衝材としても神の話は機能していると思うのに、シェイカはちっともユッカのことを気遣ってくれなかった。
「あら?ユッカには早すぎる話だったかしら」
けらけらと笑うシェイカの姿が、ユッカには憎らしい。シェイカの笑い声につられて、パンの味見をしていた女たちも厨房に入ってきた。ユッカは嫌な予感がした。
「若い子をからかうのは、いい加減にしなさい。こんなに赤くなってかわいそうでしょうが」
ユッカとシェイカの話は、厨房の外にいた女たちにも聞こえていたらしい。ユッカは益々赤くなった。自分の母親ほどの女性に慰められるのが、一番恥ずかしかったりする。
「それより、あんたはルカさんを探しているんだよね?」
ユッカをなぐさめてくれた女性は、大きなため息をついた。そして、ユッカに小さく耳打ちする。
「エアテールさんが探りを入れているから、あそこの夫婦に関わるのはよしなさい。若い内に仲の悪い夫婦を見ると結婚したくなくなるから」
そうはいかない。
アリテを手伝うためにユッカは働いているのだ。少しでも情報を仕入れなければ、アリテの元には帰らない。
ユッカの頭のなかでは、疲れ切って機嫌の悪くなったアリテがいた。
帰らなくてもいいかもしれないと思った。
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