2

 戸板を叩くカンカンという音が、冬の日差しの中響き渡る。


 松乃が叔父の家だと案内した戸建て、長蔵と書かれた表札は汚れて読めない、の前には返事を待つジェーンと後ろに浮かぶ嫦娥、そして辺りを見回す松乃がいた。


 十秒ほど待てども、返ってこない返事にもう一度戸を叩くジェーン。


 呼び鈴は見当たらず、壁に残る錆びた金具だけがその名残を伺わせた。


 再びの十秒にも返事がない様子だったが、背中越しにガラリと戸の開く音がする。


 振り返って見てみれば、向かいの玄関からクマのような大男が彼女達を覗いていた。


「そこの人なら昨日からおらんよ」


 ジェーンが口を開く前に、男は気怠げに教えた。


 顔を見合わせたジェーン達に訝しげな様子で男は問う。


「すまんが、あんたたちそこの家になにか用事かい」


「はい。長蔵さんに知らせたいことがあるのですが、ここにお住みと聞きましたので。今日中にはお戻りになられますか?」


 男は叔父の名を口に出したことで多少は警戒を解いたのか、眉の皺を和らげる。


「あんたら、長蔵の知り合いか?」


「いいえ、面識はないのですが松乃さんの話で知りまして」


 ほら、と松乃を探すジェーンだったが、どうしたことか見当たらない。


 辺りを見渡すジェーンを珍奇に見ていた男だったが、松乃の名を知っていたのだろう。フン、と鼻を鳴らして扉の外に出てくる。


「なんだ、姪御の知り合いか。悪いが長蔵は狩りに行ってまだ戻らんぞ」


「いつごろ戻られるでしょうか?」


「奴は銃を使うからな。一日で戻らんということは、仮小屋に腰を据えて狐か鹿でも追っておるんだろうなぁ。となると、しばらくは戻らんだろ」


 訪ねたジェーンに彼は少し考えた様子だったが、顎をさすりながら言った。


 それに困ったのはジェーン達である。


 長蔵を見つけて松乃を押し付けてしまうつもりだったが、いつ戻るかもわからないのではそうも行かない。


 ならばと次の手を定めたジェーンは、それでは、と切り出した。


「長蔵さんに言伝を頼めないでしょうか。松乃さんのことなのですが」


 それを聞いた男は渋い顔で手を振る。


「すまんが俺もこれから山に行くんでな。俺がやるのは罠猟だが、山にも籠もるし伝えられん。そこの郵便受けに書付でも入れておくがよかろう」


 事情を話して遠回しに松乃を押し付ける算段も潰え、いよいよ腹をくくるしかなくなったジェーンである。


 いろいろとどうも、と男に別れを告げ、扉の内へと入っていく男を尻目に松乃を探す。


 家の周りを回ってみれば、いつの間に回り込んだのか、長蔵の家の裏庭にしゃがみ込んでいた少女を見つけた。


「松乃ちゃん、いきなり居なくなると心配するじゃない」


 そう声をかけられた彼女はバネ細工のように跳ね上がると、何が楽しいのか笑いながらジェーンの周りを回り始める。


「心配か?あたいのこと心配したか?」


「はいはい、心配しましたよ」


 気が重そうなジェーンの様子に気を向けず、そうか、そうか、うひひ、と笑う松乃。


 ため息をこらえて、ジェーンは彼女に今しがたのやり取りを伝える。


「叔父さんは山に猟に入ったそうよ。いつ帰るとも解らないそうだから」


 そこまで言った途端に、松乃は表情を消して俯く。


「やっぱり、おじさんあたいのことなんか知らないんだ」


「ね、書き置きを書いて家に帰ろう。またそのうち来ればいいさ」


 数段低い声でつぶやく彼女に、ジェーンは慌てて肩を抱いて宥めた。


「うん」


「さ、まずは着替えだ。知っての通り、雪の山は寒いからね」


 消沈した彼女の気を晴らそうと、ジェーンは努めて明るく言う。


「着替えならもうまとめたもん」


 それに答えた松乃が指差した先を見ると、確かに濡れ縁の上には子供の服ならば八着ほど入っていそうな風呂敷が包んで置いてあった。


 その側には、厚手の洋服と赤い防寒着が畳んである。


「いつの間に……」


「姉ちゃんがクマのおっさんと話してる間さ」


 驚くジェーンに得意げな松乃。


「クマ、ってあの人本当に熊って名前なの?」


 あまりに見たままの名前に聞き返したジェーンだったが、松乃は首をふる。


「いんや。でも、見た目が熊だからクマのおっさん!」


 その言葉に思わずフフと笑うジェーン。


「確かに、クマみたいだったわね」


「ジェーン、人の見た目を笑うのは感心しません」


 それに水を差すのは、それまで黙っていた嫦娥である。


「でも嫦娥、本当にクマみたいに大柄でもっさりしてたじゃない」


「口に出すべきでないこともあります」


 どこか不機嫌そうな彼女に取り付く島もない。


「どうしたの、性根の腐ったお前らしくもない」


 これでも心配しているジェーンだったが、嫦娥は憮然とした風でそっぽを向く。


 数秒ほど無言でいた二人だったが、やがて嫦娥は口を開いた。


「子供の前では手本になるべきでは?」


 到底本音とは思えない言葉だったが、反りの合わないこともあるだろうと、それ以上の追求はされなかった。


 今は置いておこうとジェーンが振り向くと、いつの間にだろうか。松乃は洋服に着替え、防寒着を手に持っていた。


「もう着替えたの、素早いわね」


 思わずジェーンが驚きを顕にすると、松乃は胸を張る。


「どうだ、すごいだろう」


 得意げな彼女を微笑ましく見るジェーンだったが、後ろに脱ぎ散らかされた着物を見て眉をひそめた。


「おや、脱ぎ散らかして。しっかりと畳まないとシワになるのだろうけど…… 松乃ちゃんは畳み方知ってる?」


「なんだ、姉ちゃん知らないのか」


 思わず眉間にしわが寄るが、努めて柔らかく続ける。


「松乃ちゃんは知ってるの?」


「あたいも知らない」


 こめかみが引きつるのをこらえて、ジェーンは嫦娥に問うた。


「嫦娥、おまえは知っている?」


「袖を折って丸めておけばいいかと」


「嫦娥」


 たしなめるようなジェーンの口ぶりに嫦娥は気まずげに沈黙するが、耐えかねて着物の畳み方を教えることにした。


「縫い目に合わせて……そうです、そして……」


 嫦娥の指示通りに着物を折っていくジェーンと、それを隣に腰掛けて眺める松乃。


 やがて、着物が長方形に折りたたまれる。


「本来は飾り縫いが布を傷めないように紙をはさみたいところですが、手持ちの油紙を使うわけにも行かないのでこれでいいでしょう。あとは予備の収納袋に入れておけば数日は十分と思われます」


 その様子を見ていた松乃が縁の下から飛び降りると、嫦娥の元へ向かいながら笑って褒める。


「おまえ、すごいな!物知りだ」


 そう言って触ろうとする彼女の手を上昇することで躱す嫦娥。


 目を丸くする松乃に嫦娥は機械の声で告げる。


「申し訳ありませんが、繊細な玉っころですのでお手を触れないようお願いします」


 それに少ししょげた様子の松乃と、苦笑いのジェーン。


「少し大人げないよ、嫦娥」


「ジェーン、私は繊細なのです」


 責めるような様子の嫦娥に、肩をすくめるジェーンであった。


 さて、和気あいあいとはならずとも、成り行きなりに集落を出た一行。


 雪の積もった河原を横に見ながら、山向こうへと川沿いの土手を歩く。


 かつては整備され舗装されていた道も、手入れするものが絶え、所々が崩れ、あるいは土がむき出しになっている。


 これが夏であれば雑草に足を取られることもあっただろうが、冬場とあって足元の不透明な分、足を掴まれることはなさそうだった。


 とはいえ、どのみちの悪路である。歩幅の小さな同行者に合わせて、自然と歩みはゆっくりとしたものになる。


 松乃は最初のうちこそしょげたままだったが、いくらもしないうちに元の生意気さを取り戻していた。


 遠歩きに慣れているのか、飛び跳ねるようなことこそなかったが、子供の加減を知らぬ活発さで喋り通す。


「それで母ちゃんがな、赤いおべべでオヒナサマみたいだってから、オヒナサマってなんだって聞いたんだ」


 初めは鳥獣や景色について話していたが、やがて道が川面からだいぶ高くなったあたりに差し掛かる頃には家族の話を始める松乃。


「そしたら困った顔で、なんだったかしらねぇなんてんだ。あれは知ってる顔なんだけど、教えないのはなにか大人で独り占めしてるんじゃないだろうなって」


 そう言って少し黙って嫦娥を見る。


「えっと、ショウ、じゃなくて、ジョウガなら知ってるだろ?」


 水を向けられた嫦娥は少し迷う様子だったが、観念したように身震いをするとレンズを松乃に向ける。


「ジョウガではなく嫦娥です。アクセントの位置が違いますよ」


「アクセント?」


「……つまり、ジョウを強めに発音してください」


「ジョウガ、ジョウガ、嫦娥。わかった!」


「さて、お雛様についてですが、かつて女子の健やかな成長や幸福を祈願して、宮中における婚礼の様子を模した人形を飾る、ひな祭りと呼ばれる行事がありました。お雛様とは、この行事に用いられる人形を指し、特に皇后役である女雛を指します。解りましたか?」


「わからん……」


 しょっぱい雰囲気の嫦娥と、頬を噛んで笑いをこらえるジェーン。


「……つまり、結婚式で着飾ったお嫁さんのことです」


「お嫁さんかぁ。嬉しいなぁ。でも、なんで教えてくれなかったんだ?」


「おそらく、雛人形の由来のためでしょう。雛人形の源流の一つに流し雛の風習があるとの説があり…… つまり、良い例えではなかったことに気がついて、バツが悪かったと考えられます」


「なんでお嫁さんが良くない例えなんだよ!馬鹿にするな!」


「いえ、お嫁さんがというわけではなく、流し雛というのは……ジェーン、助けてください」


「ップ、ハハ、アッハアハハハァ、プフ」


 情けない声に思わず吹き出したジェーン。ひとしきり笑った後に、松乃の頭を撫でる。


「お雛様というのは行事が終わると一年はしまわれるのさ。そうやって悪いものをしまい込む役割もあるから、人形とは違って幸せになって欲しいと思ったんでしょう」


「笑い声を検知、採点、三十三点」


「三十点満点で?」


「九百九十点満点です。下手くそですね」


 半端な数ねぇ、とおどけるジェーンと、ビープ音で抗議する嫦娥、そして、そんな二人をみて大笑いする松乃であった。


「でもそうか。お雛様はしまわれちゃうか」


 少しして落ち着いた松乃は、笑い顔のまま誰とも無しに呟いた。


「同じしまうでも、箱入り娘ならまだ良いのにね」


「えぇ、あたい箱なんかに入りたくないぞ」


 不満気な様子になる彼女と対象的に、笑顔になったジェーンが嫦娥に話を振る。


「嫦娥、説明してあげたら」


 しかし、嫦娥はそれに答えず、レンズを左右に動かしながら周囲を気にしている。


 その様子に笑みを引かせたジェーンは、彼女に問いかける。


「なにか異常でも?」


「ジェーン、なにか聞こえませんか?」


 基礎性能向上の一環として、広域かつ好感度の聴覚を備えるジェーンであったが、耳を澄ませても何も聞こえた様子はない。


 しかし、それに対して反応したのが松乃である。


「本当だ、聞こえる」


「本当?聞こえないけれど」


 ジェーンの問いに答えずしばらく周囲を見回していた松乃だったが、山へと通じる道の方を向くと、視線を定める。


「こっち、呼んでる!」


 と言うが早いか駆け出した。


 これにはジェーン達も驚いて、あとを追いかける。


 しかし、どうしたことか、ジェーンはおろか嫦娥とも彼我の差はなかなか縮まらない。


 ようやく追いついて松乃を押し留めた頃にはすっかり山中であった。


「いきなり走り出すな!危ないでしょう」


「ごめんなさい、でも、足が不思議と動いて。なあ、姉ちゃん。声の方に行ってみようよ。呼ばれてるんだよ」


「やめておいたほうがいいと思うけれど。山の中なら特に」


 でも、といじける松乃に助け舟を出したのは、嫦娥である。


「私も調査を提案します。現象として、興味深い」


「そんなこと言って、幼い子もいるんだから」


「大丈夫だよ、姉ちゃん。なあ、いいだろう」


 年長者としての良識と、ここで癇癪を起こされてもかなわないという懸念。


 二つの考えの間で揺れるジェーンを二つの視線とヒョォ、ヒョォと鳴く鳥の声が見つめていた。

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