(名称未定)

1

 キシリ、キシと少女の足元から音が鳴る。夜風が憂いを拭き取っていった後の雪道、乾いた雪の下には重みで固められた氷道が隠れている。


 道と崖の境もわからないような峠の道、その上に少女がつけた足跡が、一つ。そのさらに後ろには、ソリの跡が続いている。そして、先頭には三つの影が重なっていた。


「だからやめときなさい、って言ったのよ」


 少女の影、ジェーンは語りかける。


 それに答えずに、彼女の肩に担がれてうつらうつらとする小さな少女。


 その手には灰白色の球体が握られている。


「推測、状態、睡眠」


 担がれた少女を見ながらレンズに雪原の輝きを反射させる球体、嫦娥が疲れた声で言った。


「んなこたぁ、わかってるって」


「独り言ですか、寂しいですね」


「このっ」


 思わず向き直ろうとしたジェーンだったが、担いだ荷物を思い出したことと、嫦娥の口調に嘲りの色がなく疲れた声色であることもあって、ため息を付いて前に向き直る。


「ため息は幸福が逃げますよ」


「おだまり」


 それを合図に、またしばらく無言で進む三つの影。


 ジェーンが纏うオリーブ色の防寒具の上には赤色の真新しい小さな防寒具が揺れている。


 赤い防寒具から伸びた黒髪が、嫦娥をかすめては揺れていた。


 しばらくは荒い息遣いと寝息が交互に立ち、その後ろにはソリが雪を踏みしめる音、そして時折ソリの上に載せたキャリーバッグが音を立てる。


 ヒョォ、ヒョォと鳥の地鳴きがかすかに聞こえる中、雪を踏みしめる音がしばらく響く。


 やがて足音が止まり、ジェーンがため息を吐くと、肩の上の少女が身じろぎをした。


「んもぉ、着いた?」


 寝ぼけた声で問う少女。


「着いてないから、起きたなら降りなさい」


 ジェーンの答えを聞くと、小さく唸ってまた目を閉じる。


「終いにゃ投げ落としてやろうか」


 苛立つジェーンだったが、それを嫦娥は諌めも煽りもせずに黙って聞いていた。


 しばらくは身震いをしてみたり、軽く跳ねたりとしていたジェーンであったが、少女に降りる気がないと悟ると、肺の空気をすっかりと吐き出してからまた歩き出す。


 担いだ無駄な荷の重さに辟易しながら、彼女はここに至る経緯を思い出していた。


 事の起こりは、十日程留まった集落から発とうとした時の事である。


 荷の確認を終え、宿を借りた家に礼をしてまさに発とうとするジェーン達を眺める者があった。


 彼女達のくぐった門の斜向かいにある家、その塀の影からくりっとした黒い目とおかっぱ髪が覗いている。


 荷物を引いてあるき出す二人の後ろで、少女が壁から飛び出て呼び止めた。


「ねえ、姉ちゃんたち。待ってよ」


 彼女達が振り返ってみれば、赤いハレの着物を身につけた少女が小さな体で仁王立ちしていた。


 着物のたもとには毬が刺繍されており、白い雪道にはよく映えた。


「姉ちゃんたち、石神さんのふもとまで行くんだろ。あたいも連れてっておくれよ」


 少女の言葉に思わずジェーンの額にシワが寄る。


 肘で嫦娥を突き、軽くボディをぶつけては、互いを促す二人の様子を我関せずと、少女は続ける。


「なな、いいだろ姉ちゃん」


 顔を見合わせる二人だったが、やれやれとジェーンが少女に歩み寄って腰をかがめる。


「お嬢ちゃん、何の悪戯かは知らないけれど、知らない大人にそんなことを言うものじゃないよ」


「大人……?」


「シッ!」


 後ろからチャチャを入れる嫦娥を語気荒く嗜めるジェーン。


「違うやい、イタズラじゃないや。あたいも一緒に連れてってほしいんだい」


 そう言われた少女は頬を赤くして言い返した。そして続ける。


「それに姉ちゃんのことも知ってるや。赤髪の姉ちゃんはマヨイガに行ってきた旅人だろ」


「あぁ、まあそれは何と言うか。マヨイガといえばそんな気もするけれど、言うほどマヨイガとは、そうねぇ……」


 言い淀むジェーンに目を三角にして胸を張る少女。


「良いんだマヨイガで。イエに上がれたんだから妙な人じゃないやい」


「まあ自分から変質者と名乗る変質者もいないから、私も自分が変質者という気はないけれども。いや、逆に変質者か?」


「ジェーン、比較的には変質者と言えますよ」


「シッ!シッ!」


 再びのチャチャに更に語気を強めたジェーン。少女に向き直って腰を据え直す。


「まあともかく、連れて行ってくれなんて、急に言うものじゃない。親御さんも心配するだろうから、ほら。お家に帰りなさい」


 それを聞いた少女は顔を真赤にして地団駄を踏み始めた。


「だから連れてってって言ってるんじゃないか!あたいはおうちに帰りたいんだよぅ!連れて行ってくれたっていいじゃないかい!ケチだ!ケチだい!」


 これにはたまらず顔をしかめるジェーンだったが、嫦娥がボディを時計回りに回転させながら聞きとがめる。


「帰りたいと言いましたか?この集落にあなたの家があるのでは?」


「そうさ!その玉っころの言う通りあたいの家は下綾部さ!もういいやい!別の人に頼むや!」


 玉っころ……と落ち込んだ風の嫦娥とあっけにとられたジェーンの前から、少女は着物とは思えないような速さで走り去る。


 そして、出てきた塀の裏へ曲がる前に振り返り、


「このクソババァ!」


 と叫んで、すっと身を翻した。


「な、このガキャ、んの」


 一気に沸騰したジェーンは今にも走り出しそうだったが、自称大人の余裕で踏みとどまると息を落ち着ける。


「妙な子供でしたね」


 ジェーンのそばまで飛んできたのは、いくらか立ち直った様子の嫦娥。


「なんだったのかしらね」


「障害があったのでは?」


「いつも頭だけ地球の裏側にいる奴の言葉だ、説得力がある」


「発言の意図が不明」


「季ぃがいつでも違っているでしょ」


 怒りのビープ音を上げるながら上下に揺れて不満を表す嫦娥と、ケラケラと笑いながらソリの紐を手に取るジェーン。


 静かな朝の道を進んでいく二人の背、五十歩ほど下がったあたりの樹の影からは赤いたもとが覗いている。


 二人が一間口ほど進むとたもとは引っ込み、しばらくして少し近い物陰からまた覗く。


 それを知ってか知らずか、ジェーンはふと思い出したように呟いた。


「そういえば、下綾部なんてあのあたりにあるのかしら」


 それを聞いた嫦娥はレンズを光らせると、世間話の風で返す。


「はい、いいえ。かつて石上山の麓には綾部村という集落があり、町村合併後は一部が下綾部と呼ばれていました。しかし、国家機能の事実上の消滅に伴い現在は意味をなさない区分です」


「なら、本当にあの辺りに住んでる子なのかしら」


 それを聞いたたもとは、嬉しそうにうなずいて揺れる。


「そうだったとしても、私達が構う義理はありません」


 嫦娥の言葉に応じてたもとは、不満そうに首をふる。


「それはそうなんだけどさ、帰りたいと思う気持ちはまあ、解らないでもないから」


「ジェーン」


 その呼びかけを最後に、会話が途切れる。


 雪道を踏みしめる音と共に、進み続ける二人と、赤いたもと。


 それから、集落の境まで沈黙は続いた。


 やがて家屋が途切れる頃、二人は示し合わせたように足を止める。


「それで、お嬢ちゃん」


 振り返ったジェーンは家の影に声をかけた。


 すると、おかっぱ頭が半分だけヌッと出てくる。


「名前はなんていうの?」


「松乃」


 言葉にヒョイと飛び出した少女は先程と同じように仁王立ちして名乗った。


「それは、また……」


「お似合いの名前ですね」


 フン、と胸を張る松乃と、苦笑いのジェーン達であった。


 それはさておきと、ジェーンは腰をかがめて松乃に目線を合わせる。


「松乃ちゃん、付いてきたいならその格好じゃ難しいよ。古着でもなんでも、まずは服を揃えましょう」


「うん!」


「ジェーン、いいのですか?」


 跳んで喜ぶ松乃とは対象的に、嫦娥は不満げに尋ねた。


「このまま付いてこられて、雪道で迷われても寝覚めが悪いしねぇ」


「いえ、そちらではなく、彼女の衣装代を払う余裕は有るのですか?」


「……後で親御さんに請求するさ」


 その言葉に嫦娥は不安げに返す。


「疑問、下綾部における彼女の親権者の実在性」


「と、言うと?」


「親のいる子供が一人で居るということは、この時代であってもあまり一般的なことではありません」


 それを聞きつけ、やったやったと小躍りしていた松乃が嫦娥に詰め寄った。


「バカ!いるに決まってるだろ!こっちにはおじちゃんに七五三の着物を見せに来て、一人でおじさんのとこにいたんだい!」


「では、そのおじさんに連れて行って貰えば良いのでは?」


 それもそうだとジェーンが納得しかけたが、松乃はキッと嫦娥を睨むと


「そのおじさんが見えないから頼んでるんだろ!玉っころ!」


「玉っ……、私には嫦娥という名前があります」


「ふん、薬味みたいな名前だな」


「薬味……」


 再び落ち込んだ嫦娥を尻目に、松乃はジェーンに笑顔を向ける。


「なあ、姉ちゃんはジェーンってのか?」


「プクク、薬味……あ、ええ。そうよ。私はジェーン。よろしくね」


 ジェーンはそう言った後、ふと気がついたように訪ねた。


「そういえば、おじさんの姿が見えないってどうしたのかしら」


「どうせ、獣撃ちにでも行ってるんだ。あたいを忘れる様なおじさんなんか知るもんか」


 どことなく暗い空気を醸し出す松乃に、少し腰が引けながらも「そう」と返す。


 それなら言伝か書き置きでも残しておきましょうと、松乃に連れられてジェーンは集落へと引き返すことにした。


「ほら、しょう……嫦娥、いじけてないで行くよ」


 歩き出す少女たちと、抗議のビープ音を出しながら追従する嫦娥。


 朝の雪道には一行の残した跡が続いていた。

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