終 どんどはれ

 カップとソーサーがこすれる音が静かなホールに響く。


 カップには合成でないコーヒーが半ばほどまで注がれており、ソーサーの脇には角砂糖が添えられていた。


「しかし、妙よね」


「今更ですか」


 ぼやくジェーンに呆れた声を返すのは嫦娥である。


「こんなに和風の旅館で、出てくるのがフレンチだもの」


「ああ……」


 更に嫦娥を呆れさせたところで、コーヒーを啜るジェーン。


「苦、いやこれ苦いね」


「推奨、砂糖の添加」


 その言葉に渋顔を作る。


「それはそうなんだけれど、まず香りがないというか、英国流で言う泥水だねこれ」


「おや、最後の最後でケチが付きましたね」


「まあ、料理も大抵不味かったけど」


 混乱する嫦娥。


「せっかくの天然物だったから頂いたけれど、まあ後三周ぐらいでいいかな」


「……卑しいですね」


「このご時世、癒やしの一つもないとね」


「楽しそうで何よりです」


 満腹ゆえか、皮肉も鼻歌交じりに聞き流すジェーンである。


「しかしネコちゃんには可哀想なことをしたねぇ」


 カップを揺らしながら呟いた。


「ネコ。あの三毛猫ですか。可哀想とは?」


「ほら、ホールの外に締め出してしまったから。今頃は鍋にでもなっているに違いない」


「山姥もあそこまで痩せたネコは食べないかと」


「そう、それだよ」


 ジェーンが残りのコーヒーを飲み干し、顔をしかめる。


 皿から砂糖を一つ取って口に投げ入れた彼女は、ヨッと立ち上がった。


「本当に山姥がいると思う?」


「現実に存在するかという意味ならば、いいえ。扉の外にいるかという意味ならば、はい」


 ランプの端を光らせながら嫦娥は即答した。


 いないものは、そこにいない。しかし、そこにいるのならば、いる。それが人工知能である嫦娥の本質だった。


 それを聞いたジェーンは憫笑した。


「嫦娥、だからお前はヒキガエルなのさ」


 思わず困惑をレンズを絞ることで表す嫦娥。


 それに構わずジェーンは続ける。


「私はここが少なくとも現実ではないと思っている。少しだけ奇妙な場所だからね」


「同意します」


「確かにあんたが好きそうよね。耳目して尚わからないモノ。目前にあって脳裏に浮かばぬコト。それを知りたいのでしょう?」


 廊下への扉へとゆっくり歩きながら語りかける。


「だから、闇が迫ってきた時に山姥が追いかけてきたのだと思ったんだ。そう、信じたかったのでしょう?」


 扉の前で立ち止まり、嫦娥へと向き直る。


 それに対して、ただ黙ってジェーンを見つめる嫦娥。


「確かに山姥はいる。けれども、たしかにそれがいると言えるのは、嫦娥。あんたの頭の中だけだ」


 尚も黙っている嫦娥。


「私達は山姥の声も、息遣いも、姿さえ見ていない。だから、私が思うのは、この扉の先にあるのは闇だけだということよ」


 震えた手でジェーンが扉を開く。


 その先には闇が広がっていたが、そこから何かが襲ってくることはなかった。


「なぜ、そう思ったのですか」


 嫦娥は沈んだ声で尋ねた。心なしか、ボディの塗装もくすんで見える。


「だって、あの肉どう見ても牛肉だったんだもの」


「は?」


「ウシなんて高級品、食べたことないもの。だからってヤギ肉の味というのもねぇ」


「推測、そのために何度も料理を?」


「それは空腹だっただけね」


 なんでもない様子で言うジェーンに、思わず落下しそうになる嫦娥。


 それを見て笑うジェーン。


「そんなだから、鏡を見て脂汗を流す羽目になるのさ」


 そう言って外の闇へと背を向ける。


「さて、ここは豊かに見えるけれども退屈だ。戻るとしようか」


「戻るとは、どうやって」


 問われたジェーンは笑って、後ろに踏み出した。


「昔ながらのやり方よ」


 そのまま闇の底へと落ちていくジェーン。慌てて嫦娥も後を追って飛び降りる。


「ジェーン!」


 誰もいなくなったホール。その奥の屏風に描かれた蝶が一頭、また一頭と飛び立つ。


 それらは机や椅子を巻き込みながら開いたままの扉へと猛進し、扉をくぐる頃には瑠璃色の濁流になっていた。


 濁流は勢いのまま、ジェーンと彼女の懐に飛び込んだ嫦娥を飲み込む。


 思わず彼女は腕で顔を庇う。


 そして、目を開けると廃墟の入り口に立っていた。


「……夢遊病ではない。と信じたいね」


 まとめられた荷物の上に乗ったガスマスクを手に取りながら、ジェーンは苦笑した。


 そんなジェーンの懐から嫦娥が這い出てくる。


 その姿は特に両生類には似ておらず、球体のままだった。


 登りつつある月に照らされながら、嫦娥は残念そうに呟いた。


「幽霊は見つかりませんでしたか」


「妙なものには出会ったじゃない」


「それはそれ、これはこれです」


 左様ですかと呆れながら、ジェーンは廃墟へと歩みを向けた。


「ジェーン、どちらへ行くつもりですか?」


「どちらって、屋内。テント持ってきてないし」


 これには嫦娥も思わず動きを止めた。


「……正気ですか?」


「だってぇ、夜の雪山なんてジェーンちゃん歩きたくないしぃ、お腹も空いちゃったしぃ、疲れちゃったんだもぉん」


 突如ぶりっ子を始めるジェーン。それに若干引き気味ながら問いかける。


「疑問、先程までの食事の行方」


「なんかお腹に溜まってなくて。夢みたいな話は夢のままね」


「それは構いませんが、食料は予備を含めて三食分しかなかったのでは?」


「あ」


「滞在期間を延長した場合の食料備蓄枯渇率、120%」


「……十割超えてるじゃん」


「内訳、食料を食べ尽くす可能性、80%、さらに消化可能な所持品を食べ尽くす確率、50%」


「どーいう計算よそれは」


 やいのやいのと言いながら進み出す二つの影。


 瑠璃色の粉がわずかに舞う空の下を門へと歩いていく。


 門をくぐった後、示し合わせたように廃墟を振り返ったが、すぐに向き直って山を降りていった。


 そうして愚痴を言い合いながら平地へと降り、無駄に走って鬼ごとをし、足を取られたジェーンが雪に埋まったところで、時は今に至るのである。


 さて、そんな回顧をしていたジェーンであったが、待てども待てども嫦娥からの反応がないことを訝しんで顔を上げた。


 すると、数歩行った先で灰白色の球がこちらを赤いレンズで見つめている。


 目と目をあわせて数秒。


「……なにさ」


「このまま見ているのもいいかと」


「んもぉー」


 マスクの下で口をとがらせるジェーンであった。


 無駄に体を冷やすこともないと手を付くジェーン。


 そこで、手の中になにか握り込んでいることに気がつく。


 握り込んで拾い上げてみれば、固まった雪の中に5センチメートル四方の薄い箱が埋まって見えた。


「これは……何かしら」


 片面に黒い帯の引かれた白地の箱には、紅白の花と鶏があしらわれた図柄が印刷されている。


「おや、これは紙マッチですか」


 ヒョイと覗き込んだ嫦娥が物珍しそうに呟いた。


「マッチ、これが?」


「はい。かつては旅館の客室などにも備えられていたと記録があります。推測、記念品」


 へえ、と紙マッチをつまみ上げて、しげしげと眺めるジェーン。


「あすこのお土産なら、なにか不思議な力でもあるのかしら。例えばこう、こするとガチョウの丸焼きが見えるとか」


「元の話通りならば、食べることはできませんし、最終的に凍死することになりますがよろしいですか?」


「夢を見ようってときに夢のないことを言うんじゃないよ」


 そう言いながら蓋を開き、端を三本ほど捥がれたその端から一本を捥ぎ取る。


 そして側薬の帯にこすりつけるが、火は着かずマッチが折れて終わった。


「これは、不良品ね」


「ジェーン、使用法が違います」


 マッチ棒をポケットにつっこんだ彼女を嫦娥が嗜める。


 言われて、再び端を三本ほど捥がれたその端から一本を捥ぎ取るジェーン。


「蓋で挟んで、そう。そして引き抜くと着火しやすいですよ」


 言われた通りにすると、彼女の手の中に小さな灯りが点った。


 おお、と思わず歓声を上げるジェーン。


 しばらく火を見つめていたが、半ばまで燃え広がっても特に何かが起きる様子はない。


「ま、それもそうよね」


 手を小刻みに振ってマッチを消した彼女は特に残念そうでもなくつぶやき、雪で冷やした燃えさしをポケットへとしまい込む。


 そして、端を三本ほど捥がれたその端から一本を捥ぎ取るジェーン。


 火を点すと、つまんだマッチを少し掲げて目を細める。


「気に入ったのですか」


「別に火が好きというわけじゃないけど、ガスライターとはまた違った明かりでいいねこれ」


 上機嫌な彼女を優しく見つめる嫦娥。


 火を消し、マッチの蓋を開ける彼女を


「あまり使いすぎると、すぐに無くなりますよ」


 と諫める。


 あと一本だけ、と言いながら火をつけたジェーンがにわかに動きを止めた。


 そして、マッチの蓋を開けては閉めるを繰り返す。


「なにか問題でも?」


 怪訝な表情のまま、ポケットを弄る彼女の様子に嫦娥が声をかけた。


「マッチが……」


「マッチが?」


「マッチが……減らない」


 その言葉にジェーンの手元を見てみれば、確かにマッチは端から三本ほど捥がれたのみ。最初と同じ本数だけが台紙に付いて見えた。


 思わず顔を見合わせる二人。


「まあこれで火種には困らないね。さしずめマヨイガの赤い椀だ」


 と笑うジェーンが手元を見ると、炎はいつの間にかつまんだ指先のあたりまで燃え広がっていた。


「熱っ……」


 思わず体をこわばらせるが、再び怪訝な表情になる。


「……くもない。というかぬるい」


「ぬるい」


 思わず聞き返す嫦娥。


 なんとも言えない表情のジェーンと見つめ合う。


 やがて、マッチはジェーンの指の間で燃え尽きた。


「そう上手い話はないねぇ。営利が絡むと、幸福もほれ、この通り世知辛い」


 そう言って、笑いながら紙マッチを手で遊ぶ。


 再び歩き出しながら、燃えさしをポケットに突っ込むと、おや、と声を上げた。


「燃えさしの方もどこかに消えてしまうらしい。まるで夢に化かされている気分だ」


「エコですね」


「エゴかも知れない」


「道行の明かりぐらいにはなるのでしょう?」


 それもそうだ、と笑い合う二人。雪道に銀幕がかかる中、平地の集落へと戻っていく。


 冬の袂の闇の中、小さな明かりは点いては消え、点いてはまた消える。


 しかし、それもやがて、吹雪く夜の闇にまぎれて見えなくなった。


 ただ、ある村には、冬の只中に訪れた旅人が、尽きることのない灯りを見せて大層驚かれた、という話が伝わるという。

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