二 宿にて歩き惑う事(上)

 畳の上に敷かれた布団。 その中から規則正しい寝息が聞こえる。 音ともに上下する掛け布団の脇からは白い足が伸び、 暖を求めてうごめいていた。


 やがて、登った朝日が窓から差し込むと、 部屋の調度が彩りを鮮やかにしていく。


 広縁へと通じる障子は閉め切られていたが、 側の切窓から暖かな光が広がっていた。 切窓の向こうのガラス窓からは、手入れされた中庭が見える。 十六畳の和室に備わった床の間には蝶が舞い遊ぶ様を描いた掛け軸が掛かっており、 隣の違い棚には大小の焼き物が据えられていた。


 いつの間にか床の間に活けられていた紅と白の花が僅かな香りを漂わせる頃、 布団の主がやおら起き上がる。


 その人影は夢現といった様子でゆっくりと目を遊ばせていたが、 目の焦点が合うと共に訝しげな表情へと変わっていく。 そして小首をかしげ思わず呟いた。


「なんでぇ……?」


 人影は赤髪碧眼、体に起伏のない少女である。


「あれ、マスクは!?」


 少女の名前はジェーンと言った。


 昨晩は廃墟の一室で毛布をかぶって寝たはずの少女である。


 彼女の混乱をよそに、日は昇っていく。


 ひとしきり慌てたジェーンがいつの間にか用意されていた膳に気がつくには、 太陽があと5度ほど傾く必要があった。


 そうして慌てた後、 彼女は膳に置かれた汁物のたてる湯気を遠巻きに見ていた。


「食べたい。食べたいけれど、怪しい。けれど、食べたい。けれど……」


 そうつぶやきながら、手に持ったビスケットをかじる。 企業努力の末に完成したそれは決して不味いものではないが、 長距離の移動などは大抵これで済ませるために、 食べ飽きた味であった。


「一汁三菜。けれど、怪しい……」


 そも、怪しいといえば眠っていた部屋が、 明らかに変わっていることからして怪しいのである。 昨晩彼女が眠りについた部屋は和室でこそあったが、 十畳ほどの部屋であったし、 そもそも廃墟の部屋であるから、 埃の積もったお世辞にも整ったとは言えないような部屋であった。


 それが、目覚めたと思えば手入れの行き届いた部屋で布団にくるまっていたのである。


 眠りの浅くない彼女のことであるから、 仮にさらわれたとしてもこの饗応は不可解に思えた。


 第一、彼女をさらうとして嫦娥の目を逃れられるものだろうか。


「あれぇ?」


 そこまで考えたところで、嫦娥の姿が見当たらないことに気がついた。


 しばしの思案。そして、得た結論は、


「まあ、そのうち出てくるか」


 と、投げやりなものであった。


 さて、懸案が一つ減ったところで問題になるのは次に何をするかである。


 後ろ髪引かれる思いではあるが、膳に手を出すのもマズかろう。


 さりとて、この部屋で呆けているわけにもいかないと、 ジェーンは腰を上げる。


 枕元や天地の袋をざっと見ても持ち込んだはずの荷物がなかったために 物取りの仕業かとも思ったが、 やはり現状に理由をつけるには足らないようだった。


 そこで、廊下へと通じるふすまを開ける。 最後に一度部屋を見渡したが 特に目新しいものもなかったので、 ジェーンはふすまを閉め、 廊下へと踏み出した。


 そうして、後にはいつの間にか片付けられ、 茶菓子の乗った机のみが据えられた部屋が、 新たな客人を待つばかりである。


 さて、廊下を進むジェーンであったが、 やはり人影と会うことはなかった。


 これは本来の意味で人影と会わなかったということではなく、 比喩的な意味でも人影と会わなかったのである。


 生憎とジェーンは旅館に足を踏み入れるのはこれが初めてだったが、 大抵の肉体労働がシリコン上の知能の手に委ねられたのは ジェーンが生を受けるより半世紀以上も前のことであった。


 そのような働き手たちの姿を、 彼女は見ることがなかったのである。


 しかし、それよりも奇妙なことは、 人の姿かたちも気配すらないのに、 人の仕事だけはされているようなのであった。


 例えば、角を曲がった先の袋小路を戻ると、 空だったはずの花瓶に紅白の花が活けてある。


 例えば、外を見ようと開けた窓をそのままにしたはずが、 次に通ったときには閉まっている。


 例えば、火鉢を模して見えるヒーターの上に、 いつの間にか鉄瓶がかけられて湯が湧いている。


 例えば、……。


 といった怪奇にも彼女が慣れてきた頃、 通り過ぎた娯楽室の中から、 ゴトリと物の落ちる音がした。


「嫦娥、そこにいるの?」


 取って返したジェーンが見たものは、 机の上で喉を鳴らすヒキガエルであった。


 しばらく見つめ合う二対の目。


 やがて、彼女はそっとヒキガエルを手にすくい上げると、 顔の前まで持ち上げる。


「嫦娥、盗みを働いて月にでも行ってたのかい」


 そう問われたヒキガエルは何をするでもなく喉を鳴らしていたが、 ふと何かを思い出したように飛び跳ねると、 ジェーンの肩に乗った。


 彼女はそれを見てため息を吐くと 軽く頭を撫でて、


「まあどっちでもいいか。ほら行くよ嫦娥」


 と語りかける。


 やはりヒキガエルは喉を鳴らすばかりだったが、 肩から降りようとする素振りもないので、 彼女は探索を再開するのであった。


 そうして部屋を十は通り過ぎた頃であろうか。


 ジェーンが肩のヒキガエルへと話しかけた。


「しかしまあ、この宿も随分と育ったもので」


 その言葉の通り、彼女が泊まった廃墟と同じサイズならば二周はできそうな距離を歩いていたが、 特に元の場所に戻る気配はなかった。


 対して、ヒキガエルは喉を鳴らしている。


「さて、問題は」


 それを肯定と取ったか否定と取ったか、 ジェーンは独り言のようにつぶやく。


「これは夢か現実か。どちらかしら」


 夢ならば彼女が心の一つでも病んでいそうな話でおしまいだが、 現実ならば荷物などを探す手間がある。 さらには、ここまで連れてきた下手人に相応の礼をしなくてはならないだろう。 もっとも、 彼女は自分をカラッとした性格だと思っているので、 両手足の骨を砕く程度で許してやるつもりだった。


 益体もない事を考えながら彼女が歩いていると、 不意に肩のヒキガエルが飛び降りた。


「どうしたの?」


 と彼女は尋ねるが、 ヒキガエルは我関せずと横道へと入っていく。


 ジェーンは肩をすくめると、 ヒキガエルの後を追った。


 のっそりとした動きのはずなのに、何故かヒキガエルとの距離は縮まらない。 これは夢かと思い始めたジェーンだったが、 ともかくはカエルを追うのが先決と歩みを進める。


 ヒキガエルの先導でランプ型の照明に照らされた洋風のサロンを抜けると、 大きな窓ガラスのある渡り廊下に出た。


 ここで、ジェーンは目覚めた部屋を出たときから今の今まで窓を見ていなかったことを思い出す。


 そう言えば外の様子はどうなっているのかしらと窓の外を覗いてみたが、 深い霧に覆われており庭木のさざめく音と、小川のような水のせせらぐ音が聞こえるばかりであった。


 霧の奥に誰か動くものは見えないかしらと数秒立ち止まっていたジェーンだったが、 ヒキガエルの鳴き声に気をそらして、追跡を再開する。


 そんな彼女の背中を、 とぐろを巻いた霧が見送っていた。


 そうとは知らないジェーンがヒキガエルに追いついたのは、 両引き戸のある丁字路の突き当りだった。


 扉には大きく「湯」と書いてあったが、 驚くべきはその扉自体の大きさだろう。 幅は片側だけで三メートル、高さは六メートルはあるだろうか。 木目の様子からベニヤのような合板ではなく、 一本の木を切り出したものと見える。


 さらに扉の両端には照明が据えられていたが、 光の揺らめきが電球のそれではなく、 灯火のもののように見える。 さらに、物を燃やした匂いが漂うからには、 液体の油が燃やされているに違いなかった。


「これはまた贅沢な……」


 ジェーンがあっけにとられていると、 ふと扉の奥から話し声が聞こえた。


 これには彼女も驚かされる。 なにせ、これまで人の気配を感じずにいたところに、話し声である。


 更に驚くべきことは、 その話し声がささやき声のようなものではなく、 大声で笑い合うような声が複数混じったものであったことだ。 声の調子も老若男女様々で、 中で楽しげに語り合う人々の様子がまざまざと見えるようである。 そして、それを周りで聞くだけの人々の様子すら感じ取れるような、 濃密な気配も同時に現れた。


 流石のジェーンもこれは不審に思ったが、 声たちがあまりにも楽しそうであるし、 敵意も感じられないものだから、 警戒するのも馬鹿らしくなってしまった。


 ところがである。 どれ、どうせなら混ぜてもらおうかと思った彼女が扉を開けると、 途端に声が止んだ。


 先程まで感じていた大量の気配も消え失せ、 空っぽの脱衣場だけが彼女を迎える。


 ならばと彼女は奥のガラス戸を開け、 磨りガラスの向こうの湯殿を覗いてみた。


 湯殿は手前に四列の洗い場があり、 奥には貯水池と見紛うばかりの巨大な湯船が湯をたたえていた。 湯船からは湯気が立っており、 湿気が湯殿中を満たしている。


 まるで真夏になったような錯覚を覚えるようだったが、 やはり人影は見えない。


 洗い場には桶にかけられた手ぬぐいがいくつかあり、 風呂椅子も先程まで誰かが座っていたかのように乱れて並んでいる。 湯船には桶がいくつか浮かんでおり、 あまつさえ、徳利とおちょこの並んだ盆すら浮かんでいるのだが、 人っ子一人、影も形もないのである。


「これは、夢よね。多分……」


 ガラス戸を閉めながら、怪訝な面持ちで思案するジェーン。


 それを眺めるヒキガエルの口には、瑠璃色の羽をした蝶が咥えられていた。

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