2分50秒小説『見てるぞ』

   見てるぞ


 メモを手に、動きが止まる。履きかけの靴、踵を潰したまま、玄関のドアポストを見る――誰だ?!こんなメモを入れたのは?

 ”見てるぞ”――脅し文句?悪戯?爪先をとんとんして踵を靴に押し込む。


 翌朝、出勤しようと玄関を出る。廊下にパンをトーストした匂いが漏れている。階段へ向かう。途中で立ち止まる。振り返る。ドアポストに紙が挟まっている――昨晩帰宅した時には無かったはずだ。戻る。引き抜く、メモにはこう書かれている――”見てるぞ”。


 昼、社員食堂でBランチを食べ終え、カップに残った氷、舌の上で転がしながら、ポケットからメモを取り出す――”見てるぞ”誰が書いたんだ?会社の同僚か?それともアパートの隣人か?それとも、縁もゆかりもない、変質的な地域住民か、分別の無い子供か?気配を感じて振り返る。誰もいない。

 そもそもどういう意味だ?誰が何を”見ている”というんだ?俺は、そんな人に見られて困るような、悪事は働いていない……と、自分ではそう思っている。平均的なサラリーマン……の、はずだ。この先も続くのだろうか?いずれにせよ、俺のことを知ってる誰かが、俺が帰宅してから、朝の間に、ポストにメモを差し入れている、それは間違いない。ならば――。


 夜。買い込んだ缶コーヒー、プルトップを引き上げる。椅子に座り、玄関のドアを睨む。アルミ缶の冷たい感触、カフェインが肝臓にタッチする感覚。犯人を突き止める。幸い明日は休みだ。夜通し監視してやる。その前に、カップ麺でも食おう、有名店が監修したとかいうやつ、旨かろうがマズかろうが、もやもやするやつだ。


   『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている』

    フリードリヒ・ニーチェ 『善悪の彼岸』第146節


 俺を”見てる”ということは、俺に”見られる”こともあり得るわけだ。ふふ、犯人はさしずめ深淵か?いや、多分些細なことで俺を恨んでいる誰かだ。取り立て誰かを傷つけた覚えはない。しかし、生きるということは誰かを傷つけるということなのだ。それくらいの常識、いや良識は持ち合わせている。スマホの液晶、光沢のある黒に顎が映っている。

 飲み干した缶、涙型の飲み口の内側に、闇がある。覗いてみる。ニーチェが言う――”深淵もまたこちらをのぞいている”


 深夜、朦朧としてきた。むやみにコーヒーを飲んだせいか、気分が悪い。意味も無く立ち上がる。意味もなくだ。立ち上がった自分に驚く――どうして立ち上がった?リビングに向かう。なぜ?椅子に座り。メモ用紙を1枚千切り、ボールペンを手にした右手を眺める。


 俺は、何を、書こうと、して、いるのだ?


 書き終えて、玄関へ向かう。サンダルをひっかけ、扉を開け、ドアポストに、メモを挟み、室内へ戻る。椅子に座る。そして、玄関を睨みつける。


 嗚呼、思い出した。昨日も同じことをした。いや、昨日だけじゃない。一昨日もだ。いや、多分もっと前からだ。


 寝よう。犯人は分かった。いや、分かってはいない。怖い?全然。だって――明日の朝には、きっと忘れている。


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