第6話 地元愛

 都会に住んでいると、気にしなくてもいいようなことを気にするようになる。

 誰も気にしているわけはないのに、隣近所。

 自分が変な音を出しているわけではないのに、まわりが出す変な音。さらには、何かがこすれるような音、そして、夜中になると、急に、

「ドーン」

 という音がしたかと思うと、またしても、静けさが襲ってきて。さらに空気が重たくなり、冷え切ってしまうような気がするのだった。

 そんな音が一度聞こえてくると、今度は、気が立って眠れなくなる。静けさが増しているせいで、耳鳴りが激しくなり、余計に眠れなくなる。

「耳栓をしていると、何かあった時に逃げられない」

 と思ったが、さすがに、背に腹は代えられない。

 一生懸命に耳栓をし、それに慣れるまでにも時間が掛かった。

 何といっても、違和感がハンパではないのだ。空気が乾燥しているのか、それとも湿気を帯びているのか、それすらも、感覚として分からない。

「自分の城ともいうべき、やっと憧れていた一人暮らしだったのに」

 と、

「こんなはずではなかった」

 そう思えてならなかったのだ。

 まわりのうるささに耳を塞ぎながら、必死に寝ようとしていると、寝ることができなくなる。

「もし、起きれなければどうしちょう」

 という思いである。

 ここ何度か、起きることができず、遅刻したことがあった。

 一度は目が覚めたのが、昼過ぎだったので、さすがにいいわけもできず、無断欠勤扱いにされてしまった。

「気が緩んでいるんじゃないか?」

 と上司から小言を言われ、その顔は、

「お前の代わりなんか、いくらでもいるんだぞ」

 と言わんばかりだったのだ。

 時代的には、なかなか、若い連中が会社に定着せず、平均年齢が、40代後半という会社が多くなっていたので、若い人を育てるということが、企業での一番取り組まなければいけない事業であった。

 募集はたくさんあるのだが、なかなか若い連中が固定化しない。

 一時期、ある事件で、世界的に大きな不況に見舞われた時、日本でも、その対策として、それまで企業がたくさん抱えてきた、

「非正規社員」

 の連中を、一気に解雇という形を取ったところが多かった。

 つまりは、3カ月に一度の、更新を、派遣先の会社が、打ち切ってきたのだ。

 別に、派遣社員が、

「何か悪いことをした」

 というわけではないのだ。

 企業側の都合ということで、一つの会社だけではなく、かなりの会社が、派遣社員の更新をしなくなったせいで、街に、

「失業派遣社員」

 が溢れる形になった。

 そのせいで、街の公園、ネットカフェなどで寝泊りする人が増え、年末の寒空の中、炊き出しが行われるというようなことがあった。

 いわゆる、企業による、

「派遣切り」

 ということによって、溢れた失業者を、ボランティアの人で助けるという、

「派遣村」

 などと呼ばれるものがあったくらいだ。

 しかし、そのうちに、企業が落ち着いてくると、今度は、会社には、若い者がいなくなり、残っている正社員は、ほとんどが、年配ということになる。

 そうなると、

「定年が60歳で、定年後の雇用が65歳までと考えても、果たして、何年で、何人が残るということになるだろうか?」

 ということであった。

 そんなことを考えていると、企業側も、本当は、若い人を育てる時代に入っているのではないだろうか?

 しかし、今の時代は難しい。

 城址も部下も、変に気を遣わなければいけなくなっている。年齢差が大きければ大きいほど、一緒にいるだけで大変だ。

 昔の、特に昭和の頃では、それが当たり前だったということも、今の時代では、

「一発アウト」

 ということも多いのだ。

 例えば、昭和の頃であれば、

「上司が、会議で定時以降も会議が続くというのであれば、誰か一人、残っていなければいけない」

 というような風潮があった。

 さすがに昭和の時代であっても、

「残っていろ」

 というわけにもいかないし、だから、居残りをさせられた社員も、

「残業手当の申請」

 などもできるわけもない。

 だからこそ、

「サービス残業」

 と言われるのだが、

 今の時代では、完全な、

「パワハラ」

 だった。

 さらに、今では信じられないこととして、

「4月1日に、新入社員が入ってくるが、ちょうど、10日くらいが、花見の見ごろの時期となる」

 ということで、

「花見の場所取りは新入社員」

 というのが、年中行事での新入社員の最初の、

「仕事」

 ということになるのだ。

 会社に出社して、すぐに、

「花見の場所取り」

 ということで、いい場所にござを敷いて、夕方になるのを待つのだ。

「どうせ、新入社員が会社にいたって、仕事にはならない」

 ということかも知れないが、これも完全なパワハラであった。

 今の時代は、そんなことは許されない。

 女性社員などに対しての態度もデリケートになった。

「そろそろ結婚してもいい時期だよね?」

 などというのも今ではアウトだ。

 昔であれば、普通の世間話だったはずである、

 さらに、

「いい人紹介しようか?」

 というのも、アウトだろう、

 もちろん、本当に真剣に紹介しようという縁結びのような上司がいれば別だが、それでも、会社で話すことではないだろう。

 それだけ、上司が部下に対して、いかに扱っていいのかが分からないというのは、大変であろう。

 しかも、今まで、新入社員をあまり取っていなかった会社は、中間職がいない。20代後半から、40代前半くらいまでの、主任から、課長クラスまでの、いわゆる、

「バリバリの世代」

 というものが、いなくなっているのだ。

 今まで、恒例のように、新入社員を取ってこなかったことで、気が付けば、事務所は、ベテランばかりになってしまい、40代前半のいわゆる、

「一番の若手」

 が、主任、係長クラスの仕事をし、それ以上の人が課長も兼務というような感じであろうか。

 完全に、自分たちの仕事がカオスになり、気が付いた時に、上司ばかりという、

「こんな会社に誰がしたんだ?」

 と言いたいくらいなのかも知れない。

 そんな会社に勤めるようになったこの時期は、新入社員は貴重だった。

 しかし、上司の態度に嫌気をさしたり、会社の先行きに心配を感じて、会社を辞めていく人が続出した。

 そんなわけで、橋爪も、会社を辞めることにした。

 何しろ、都会の生活にも嫌気が差していたので、気にはいらないと思ったが、九州の中の大都市ということで、博多に戻り、職を探すことにした。

 幸いにも、学生時代の友達が、

「うちの会社が募集しているぞ」

 ということで、面接を受けてみることにした。

 東京でやっていた仕事が、ちょうど、今回面接した会社でも受け入れられるということで、自分がやっていた仕事をアピールすると、

「合格です。今度、お越しになられる時に、同封の書類にサインと、必要なものを揃えてください」

 ということで、入社に必要なものを揃えて、いよいよ地元では大都市の博多の街で働くことになったのだ。

 福岡市内は、九州で一番の大都市ということで、私鉄や地下鉄、さらに、バス路線も充実している街であった。

 ただ、交通マナーの悪さは全国でも有数らしく、

「車の運転には、気を付けるように」

 ということを、会社からも言われていた。

 なるほど、実際に運転してみると、赤信号でも、平気で交差点に突っ込んでくる車の珍しくなく、だからといって、自分だけが交通マナーを律義に守っていると、事故に遭う可能性もあるので、仕方なく、まわりの運転手に気を遣いながら、流れに逆らわないように運転するしかなかった。

 そのために、少々の運転は仕方がない状態だったが、慣れてくると、何とか気にしなくてもよくなるのだから、いい加減なものだともいえるだろう。

 そんな悪いところもある街であったが、昔からの伝統を大切にしたり、その街独自の伝統を、味であったり、工芸品であったりを、全体で守っているだけではなく、

「個々の店でも、守り続けているところが、いかにも、博多の街」

 という感じで、親しみが感じられた。

 福岡の街は、市の中心部から、福岡城跡と、昔の武家屋敷があったりしたところというだけに、官庁街があったり、反対側には、商業施設などもあり、結構賑やかになっていたりした。

 昭和の頃は、砂浜が広がり、海水浴場などが、ある程度のところであったものが、平成に入っての、

「博覧会ブーム」

 に則って開かれた、

「アジア太平洋博覧会」

 いわゆる、

「よかトピア」

 と言われた博覧会の跡地に、マンションや病院、さらに、コンピュータ関係や大企業の九州支社などが、たくさん入った地区ができたり、さらには、この地区に移ってきた、プロ野球球団が、ドーム球場を建設したりして、開けてきたのだった。

 そもそも、江戸時代までは、海だったところなので、その発展は、人口の増加とともに、目まぐるしいものがあったのだろう。

 そんな福岡市で、イベントあっせん関係の会社を営んでいて、いろいろな企画をやったり、地元情報誌なども発行するという、平成になって、いや、

「バブルが弾けてから」

 というもの、普通であれば、多角経営は、敬遠されがちだが、この会社は、それらのことを行い、実際に収益をあげようとしていた。

 橋爪が入った時は、まだまだ、

「海のモノとも山のモノとも分からない」

 と言われていたが、それでも、彼の悪運が強かったというべきか、結果として、東京にあのままいたら、

「ノイローゼとなって、気が狂っていたかも知れない」

 という思いがかなりあったので、思い切って、

「福岡に来てよかった」

 と思った。

 しかも、会社がいい方向に向かっているのだから、これ以上のありがたいことはないというものであった。

 そんな会社において、毎年のように企画をしているのが、

「一つは必ず、地元のものをアピールするような企画」

 ということで、そのプロジェクトリーダーを、約10年ほど続けてきて、その後5年ほどは、現場を後輩に任せて、自分は、本部で企画を見るということをしていた。

「企画を通すのも、結構大変だった」

 と、今では思っているが、その企画を通すための、

「当時の難関」

 と呼ばれた相手を、今の自分がやっているというのは、実に皮肉なことだと思うのであった。

 ということは、

「今の立場になると、どちらの気持ちも分かるので、複雑な心境だ」

 と考えると、最初の頃の自分が、

「どれほど、怖いもの知らずだったのか?」

 ということを思い知らされた気がした。

「穴があったら、入りたい」

 という言葉があるがまさにそんな感じで、顔から火が出るような感覚で、

「本当にあれだけの大それたことを、よく提案できたもので、自分のまわりについていた人間が誰一人反対しなかったというのを、思うと、そっちの砲が怖いと思うくらいだった」

 と感じるのだ。

 若造の、しかも、東京から戻ってきたというだけで、それ以外には、何もない人間を、いきなり、責任者などにするのだから、最初から、

「この会社、大丈夫か?」

 という思いはあった。

 福岡という、九州の中では1番の大都市であり、全国でも、5本の指に入るといってもいいだろう。

 ただ、一度東京や大阪などの大都市を味わった人間からすれば、どうしても、

「中途半端な都会」

 というイメージしかなかった。

「私鉄もあるといっても、一社だけ、さらに、その路線も本戦と言えるものも一つしかなく、地下鉄だってあるにはあるが、大きな線が、2つしかない」

 というものであった。

 地下鉄も、どちらの線も片方それぞれに、

「乗り入れ状態」

 になっている。

 そのせいもあってか、少々、ややこしいことにもなっているのだ。

 というのも、

「皆さんは、私鉄とJR(旧国鉄)で線路の幅が違うのを知っているだろうか?」

 というものである。

 しかも、

「同じJRでも在来線と、新幹線で、線路の幅が違う」

 ということである。

 つまり、

「私鉄が乗り入れする線と、JRが乗り入れする線とでは、同じ地下鉄でも、線路の幅が違う」

 ということであった。

 福岡においては、まず、筑肥線という線があるのだが、こちらは、佐賀県の唐津まで伸びているJRの線であった。

 地下鉄開通までは、博多駅から、ローカル線乗り換えという形で、福岡市内を横断する形で伸びていたのだが、今では、

「地下鉄空港線」

 に乗り入れすることで、都心部の地下を通るようになったのだった。

 だから、市内を横断していた筑肥線は、廃線となり、地下鉄乗り入れの、姪浜という駅からの以西が、JR筑肥線ということになり、唐津まで伸びている。

 つまり、

「筑肥線が乗り入れているということは、福岡市の地下鉄の線路の幅は、JRと同じ規格であり、幅が狭い」

 ということになる。

 そのことは、地下鉄2号線でもある、

「箱崎線」

 というのが、終着駅が、貝塚駅になっているのだが、その貝塚駅から、

「西鉄宮地岳線」

 というものに乗り換えられた。

 以前は、福津市の宮地嶽神社の近くまで走っていたことで、

「宮地岳線」

 と呼んでいたが、昨今の事情からか、大幅に路線が短くなり、途中の、

「三苫駅」

 までしか運用しなくなったので、路線名も、

「貝塚線」

 となったのだ。

 この西鉄貝塚線への乗り換えであるが、そもそも線路幅が一致しているわけではないので、乗り入れができない。

 というのも、列車によっては、一本の線路で、唐津方面まで行くことができるので、線路幅はJRと同じで狭いものとなっていた。

 したがって、貝塚駅で、列車の乗り入れはできず、地下鉄も、西鉄も、

「貝塚駅が終着駅」

 ということにして、ただ、改札一つで、向こう側に待っている列車と連絡できるということで、何とか、面目を保っているということであった。

「なぜ、JR(旧国鉄)と私鉄とでは、線路幅が違うのか?」

 ということは分からない。

 勝手な想像画許されるのであれば、

「昔の旧日本軍と呼ばれた、陸軍と海軍が仲が悪かったように、わざと規格を変えたのだろうか?」

 と最初は思っていたが、この会社に入って調べてみると、よくわかってきた。

 元々、鉄道の幅は、現在のJRの幅として、明治に最初に鉄道が開業した時、同時の大蔵大臣である、大隈重信が制定したのだという。

 この方式は、鉄道というものが、国営化されることで、全国の国鉄(当時は省線電車)になってからも、決められていたが、ある私鉄が、最初は、

「国鉄と平行して走ることで、許可されなかったことで、路面を走る路面電車形式にしたことで、従来の鉄道法とは別に、軌道法に準拠した形で営業することになり、その法律が、線路幅の規定をしていなかったことで、現在の私鉄の線路幅として定着した」

 のだということであった。

 それを考えると、私鉄も当時の国鉄も、法律や許可が下りなかったりしたことでの、

「紆余曲折から生まれた線路幅」

 だといっておいいだろう。

 そんな福岡市であったが、

「住めば住むほど」

 そして、

「仕事をすればするほど」

 自分の中で、仕事への情熱であったり、楽しさのようなものが溢れてきたといってもいいだろう。

 そんな状態の中で、橋爪が最初の5年間ほど、ある街のPRを独自に企画したもので、本来であれば、一度やった街は、次回のクールが回ってくるまでは、やらないという、一種の、

「持ち回り制」

 のようなものを考えていた。

 ただ、似たような企画はいろいろなところでも、行われていた。

 例えば、ある番組の中での一貫としてやっているものもあれば、

「町おこしPR」

 ということで、都道府県単位での自治体が、力を入れているというところもあったりした。

 そんな自治体をいろいろな企業がバックアップすることで、企業の思惑もそれぞれにあるので、企画をする側でも、それらスポンサーに気を遣わないわけにもいかず、

「一つの自治体を特別に贔屓する」

 ということが難しいのが、現状であった。

 だから、橋爪が入社した会社でも、いくつかのスポンサーがついたのだが、そのうちに、会社のいくつかが、撤退していくということが起こった」

 というのも、全国的な不況ということで、複数のところに町おこしとしての企画を持っていくということが難しくなった。

 そのせいもあって、どうしても、メディアのような注目力の圧倒的なテレビ局などには、一イベント会社くらいが太刀打ちできるものではなかった。

 それを考えて、実際にPRを言ってくるところも、それぞれ気を遣って、

「かぶらないように」

 ということで、話を持ってくるのだった。

 そんな事情も重なったことで、5年連続同じ街のPRということになったのだ。

 そのおかげか、同業他社との比較が容易になったのだ。

 やっている方は、どうしても比較されるので、シビアではあったが、見ている方は、

「どちらも頑張れ」

 とでもいうような、

「高みの見物」

 と、しゃれこまれていたといってもいいだろう。

 そんな会社が推し進める街は、福岡県のベッドタウンに当たる街で、元々、福岡市に隣接する、これら複数の街は、昔から、

「ライバル関係にある」

 といってもいいだろう。

 そのうち、南に位置する二つの市と、そのほとんどが福岡市に隣接している北側の二つの市が、それぞれ争っているという感じだった。

 そのせいなのかどうなのか、

「市の境界線が、歪に折れ曲がっていたりして、一度市の境を超えて、数メートル歩いただけで、さっきまでいた市に戻ることになる」

 という、まるで、

「突出口のようになっている」

 というところもあるようだ。

 さすがに、

「一つの家の真ん中を、市の境界線が通っている」

 というような、行政上のややこしい街になっているわけではなかったのだ。

 橋爪が企画を担当しているのは、それら4つの市の中で、一番福岡市と接しているという、

「O市」

 であった。

 こちらは、市制が敷かれた時、本当は市の名前の候補として挙がった名前があったのだが、少し先に、越前、つまり、福井県に先を越される形で使われてしまったのだ。

 頭に、

「筑前」

 という言葉をつければよかったのだろうが、それでは、ちょっとということで、古来からこの土地に遭ったと伝わる山城をテーマにし、それをPRできるということも重なってか、今の市の名前になったのだった。

 もちろん、市の名前に由来する、

「古代山城」

 というものが、この市での一番のPRとなるのだが、他にも自治体でいろいろば工夫がされることで、結構な街のPRになっていた。

「福岡市に隣接している」

 ということで、何と言っても、福岡市のベッドタウンとしてのその地位は、確固たるものだったことだろう。

 このあたりのライバルとなる市の中でも、最初に市政を敷いたという意味でも、

「一歩リード」

 というところであろうか。

 ただ、この市には、決定的な何かがあるというわけではない。

 最大のライバルとなる

「K市」

 では、古代弥生時代の史跡が多く発見されたことで、そのあたりの強さが眼を引いた。

 南の、

「C市」

 では、有名な温泉が出ることから、そのあたりを前面に打ち出している。

 最後に市制を敷くことになった、

「D市」

 というのは、古代の九州の中心地といってもいいようなところであり、国宝であったり、全国でも有数の天満宮が、一番の目玉であった。

 さらに、古代の政庁跡も残っているので、ある意味、一番強いと言ってもいいのではないだろうか。

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