第5話 地元愛
橋爪は、最近気になっていることがあった。
それは、
「自分の記憶が、10歳以降しかない」
ということであった。
普通、記憶喪失でもない限り、ある時から過去の記憶を思い出そうとしても、ぼやけてしまうのだ。
ただ、思い出そうとしなければ、急に記憶がよみがえって、意識が通じるようなことがあるのが不思議だった。
というのも、ふと、赤ん坊の時の記憶であったり、幼稚園の頃の記憶と思しきものが、急に記憶としてよみがえってくるのだった。
その時、いつも、
「あっ、思い出した」
という意識になるのだが、次の瞬間、忘れてしまっているのだ。
「何か思い出したんだけどな。幼い頃の今までに思い出せない記憶だったものだ」
と感じるのだった。
その時、
「子供の頃の父親に対しての記憶がよみがえれば、父親の気持ちが分かってくるんだろうか?」
とも感じるが、
「どうもそんな感覚でもないようだった」
というものであった。
そもそも、幼児の頃の記憶が乏しいということは、中学生の頃から気になっていることであった。
「僕の記憶は、途中からしかないんだ」
というのは、友達の家に遊びに行った時、友だちが、
「小さい頃のアルバムなんだよ」
といって、見せてくれた時のことだった。
一枚一枚解説をつけてくれるのだ。
「これは、三歳の時に、家族で遊園地に行った時」
だとか、
「小学生になった時、動物園に行った時の写真」
という形で教えてもらった時だった。
「あれ? そういえば、僕の記憶その頃ってないんだけど?」
というと、
「確かに子供の頃の記憶って、なかなかきっかけがないと思い出せないけど、僕もかくいうそうなんだよ。だけど、こうやって、昔の写真なんか見ると、勝手に記憶によみがえってくるんだよな、それが楽しいし、嬉しいんだ」
というではないか。
その話を聴いて。
「そういえば、僕は、子供の頃の写真を見た記憶がないな。どんな顔をしていたんだろう?」
自分の顔というのは、鏡などの媒体を使わないと、普通は見ることができないものだ。
ということは、
「こういう写真を見るのが一番なんだろうな」
と思うと、写真に思い出として残しておくという感覚が分かる気がした。
だが、今などは、写真に写るのが嫌である。
「写真は、見るのはいいけど、映るのは、どこか嫌だな」
と思うのだった。
その理由がその時まで分からなかったのだが、友達の写真を見せてもらって、見ることの楽しさを知ると、果たして家に写真が残っているのかが気になっていたのだった。
ただ、何年か前、つまり、小学5年生の頃くらいだったか、だしぬけに、
「小さい頃の写真を見てみたいな」
と言ったことがあった。
それは、本当にだしぬけで、
「なぜあんなことを言ったのか、自分でも分からない」
と思ったものだった。
だが、その時は母親から、
「あなたの小さい頃の写真、ないのよ」
と言われたことがあった。
「ひょっとして、お母さんが忘れているだけか、あるいは、見せるのが面倒くさいと思っていたか何かで、本当はあるけど、ないと言ったのかも知れない」
と感じた。
そして、
「その言ったことすら忘れているとすれば、ワンチャンあるな」
と思ったとしても、無理もなかった。
そこで、前に聴いたことがあったという感覚を完全に消して、
「僕の子供の頃の写真、見たいんだけどな」
と、今度は少し強めに、そして、
「写真があるべきもののはず」
という意識で、聴いてみた。
すると、
「ああ、あそこの引き出しにあるわよ」
というではないか。
母親は、この質問をされることを予期していたからなのか、それとも、別に余計な意識を持たずに答えただけなのか、簡単に教えてくれた。
「どこなんですか?」
と聞いてみると、
「ほら、そこよ」
と、まるで、最初から聞かれることが分かっていて、そこに置いたという感じにも見えなくもなかった。
「どれどれ」
といって見てみると、そこには、きれいなアルバムが、立てかけてあったではないか。
橋爪はそれを取ると、中を開けた。ビニールの感覚が静電気を帯びているようで、少しビリビリする感覚があった。
中を開いてみると、
「アルバムはキレイなのだが、写真は、少し手荒く並べられている」
ただ、時系列になっているようで、何枚も可愛い男の子の写真が出てきたのだ。
「これが俺なのか?」
と感じたのだが、最初が信じられなかった。
「こんなにかわいい子供が映っていて、自慢したくなるような写真なのに、どうして写真がないなんて言ったんだろう?」
という思いと、見ているうちに、次第に何かの違和感があることに、気付いてはいたが、その理由までは分からなかったのだ。
そのうちにすぐに分かってきた。
「ああ、お母さんの姿が一枚も写っていない」
ということであった。
もちろん、父親の姿もなく。すべてが自分の写真だけだった。
「ねえ、どうして、お父さんとお母さんが映っていないのかな?」
と聞くと、
「ああ、お父さんもお母さんも、写真に入るのが嫌いなのよ」
というではないか。
「お父さんが映っていないのは分かるけど、お母さんが映っていないというのはね、確かお母さん写真好きじゃなかったっけ?」
と聞くと、
「写真に写るのが好きになったのは、今だからなのよ。昔は、本当に写真に取られるの、嫌だったわ」
ということであった。
「お父さんもそうだったの?」
と聞くと、
「さあ、どうだったかしら?」
と、言いたくないという雰囲気で答えたのだった。
その様子を見ていると、
「お母さんは明らかにお父さんを鬱陶しいと思っているんだわ」
と感じていた。
今だから思うのだが、自分が、思春期に入った頃、夫婦仲は最悪だったような気がする。
一度だけだったが、
「お父さん、本当に嫌いなのよ」
と言っていた。
別に喧嘩をしている時ではなく、ぼんやりと何かを考えている時で、
「お母さんはお父さんが嫌いなんだ」
と思ったのだった。
理由は聞かなくても、
「何でも平均的な人間を好きだという父親に嫌気が差したのではないか?」
と、橋爪は感じていた。
ただ、お父さんも、一時期。
「お母さんの、あの優柔不断さが嫌いだ」
と言っていたような気がした。
しかし、二人の様子を見ていると、
「これは時間の問題だ」
と思っていたが、いつの間にか仲直りをしたのか、お互いに何も言わなくなったが、ただ、ぎこちなさだけは感じられたので、安心したわけではなかったのだ。
実際に、ぎこちなさを漂わせていると、子供にとって、神経質になってしまった。
実は、普段思い出すことのない幼少の頃のことを思い出したのが、
「夫婦間の歪み」
と言えるような感覚に陥った時であったのだ。
幼少の頃というのは、
「本当に記憶にはないのだが、見たという意識だけはある」
と感じた時、最初はどこでだったのか、そのことにピンときた時。その時に、アルバムのことも一緒に聴いて、ピンときたことを忘れてしまうという、悪循環に陥ったのだった。
というのも、その時思い出したのが、
「夢の中ではなかったか?」
というこの発想は、普通なら誰もがすぐにでも思い出すことのはずだった。
しかし、それをすぐに思い出せないということは、その思いが、すぐに打ち消されてしまうのだ。
これを感じた時、
「人間というのは、実にうまくできている」
と思うと、
「都合のいい時だけ思い出して、都合の悪いことは忘れる」
というのが、人間の本性なのではないだろうか?
それが、考え方として、
「人間が、無意識のうちに、すべての可能性を考えられる秘訣なのではないか?」
ということであった。
前章における、
「ロボット工学三原則」
の、ロボットにはできない、
「すべての可能性」
というものは、人間だけが、実際に考えて、うまくこなすことができる。
もっとも、
「他の動物もできている」
と言えるのかも知れないが、それは、
「感情というものを持っていない動物」
という意味で、彼らには、本能というもので、すべてを網羅できているのだろう。
逆に人間には、
「そこまでの本能が備わっていない」
というものなのかも知れないが、
「他の動物と人間とでの違い」
というと、それは、
「感情を持っているか、持っていないのか?」
ということであろう。
これも、人間が知らないだけで、動物には動物の感情があるのかも知れない。確かに、ペットなどを見ていると、人間のいうことが分かったり、イルカなどの頭のいいと言われる動物は、教えれば、芸だってするではないか?
ということを考えると、
「感情のある動物もいることだろう」
と言えるのではないだろうか?
だから、
「ロボットだけに、できない」
と考えるのか、
「他の動物は本能で、人間は、感情と頭脳で理解してできているが、ロボットにはできないのは、本能も感情もないからであって、問題は、頭脳ではないのではないか?」
ということになると、今度は、
「ロボットには、感情が必要ではないか?」
ということになるのだ。
だが、もし、そうなると、ロボットが感情を持った知能を有するということになると、
「自分たちを使っているのが、自分たちよりも数段劣る人間である」
ということを理解し、そのことで、
「理不尽だ」
と感じるようになると、それこそ、
「フランケンシュタイン症候群」
であり、
「人間を襲わないようにするための鉄則を、果たして、持った感情が、人間の命令に従うということになるだろうか?」
そう考えると、ここまでくれば、
「負のスパイラル」
と言えるのではないだろうか?
「フランケンシュタイン症候群」
というものが、そもそもの起点になっているわけで、元々この話も、フィクションであり、小説のネタといってもいいだろう。
だから、
「必ず起こることではない」
ということから、
「ロボット開発の邪魔になるのであれば、ロボット工学三原則も、フランケンシュタイン症候群も、ロボット開発から外してしまう」
ということも考えられる。
今の政治家などであれば、
「研究費にここまで使って、成果が出ないというのは非常に困る。何か一つでも成果が欲しいということを考え始め、これまでのバイブルを無視するようにでもなってくると、本当に人間のためになるのだろうか?」
ということになるのではないだろうか?
だから、ロボット工学というものが、
「そもそも、発展しなかった」
というのは、あくまでも、想像であるが、こういうところから来ているのかも知れない。
そこまで難しい問題ではないが、橋爪は、最近仕事で、
「地元愛」
というものに関係したことをするようになった。
大学卒業後に入った会社を辞めて、35歳の頃に再就職したのであるが、その会社が、地元のイベントを行うようなところだったのだ。
最初の頃は、地元企業ということで、あまり、気乗りはしなかった。地元企業が嫌というわけではなかったのだが、
「あまりにも、地元への入れ込みが大きいことで、子供の頃に育った田舎のイメージを思い出したのだ。
今は、あれほどの田舎ではないが、逆に、
「中途半端な都会」
だったのだ。
本当の田舎であれば、嫌気が差して、何があっても、都会に赴くという感覚なのだろうが、その思いは、高校生の頃に急に感じたことだったのだ。
父親が、仕事とはいえ、中途半端な都会を回っているので、ド田舎の街から比べれば、
「少々の田舎でも、都会なんだ」
と思っていたのだが、その頃になると、
「どうしても反発する」
という気持ちの強さから、
「父親のいる都会ではなく、大都会に出たい」
ということで、
「田舎者がいきなり行くのは怖い」
という思いもあったが、実際に行ってみると、
「本当に怖いところ」
なのであった。
「怖い」
という意識を自分の中で持ってしまうと、最初にあれだけ、
「親父よりももっと上でやりたい」
という気持ちからの東京だったのだが、実際に行ってみると、
「自分が一人で孤立している」
ということが分かってくる。
そう思うと、
「どうして、俺はこんなところに飛び込んだのだろう?」
と、まるで、怖いと分かっていて、飛び込みプールの飛び込み台の上に、最初からいたような気がするのだ。
「ここまで来て、逃げるわけにもいかない」
という思いがある。
だが、下を見ると、おそろしいし、後ろを振り向いて、元の位置に戻るのも恐ろしい。
「まるで、吊り橋の、ど真ん中にいるような感覚だ」
ということで、
「前に進むのも後ろに戻るのも、どっちも嫌だ」
ということになる、
すると、
「どっちが、何かあっても後悔しないか?」
と思うのだった。
しかし、何かあった時は、すでに、後悔もできないところまで来ているのが分かっているのに、それでも、こんなことを思うというのは、
「どちらにもいくことができない、そんな自分であっても、どちらかを選ばなければいけない」
という感覚は、破滅が分かっていて、その理由を考えなければいけないという、まるで、
「あの世への渡し賃である六連戦を、持っているか、持っていないか?」
ということになるのではないだろうか?
吊り橋の真ん中で、
「先に進むか、後戻りするか?」
どちらかを考えると、橋爪は、
「元に戻ると考えるだろう」
理屈づけての考えであった。
例えば、どこかに観光で行った場合、途中に吊り橋があったとして、そこの途中から急に風が吹いてきて。自分は、高所恐怖症だ」
という設定だということにしよう。
すると、どちらに進むのがいいかを考えた時、最初に見ると、
「前よりも、後ろの方が遠く感じる」
という錯覚に陥るのだと、自分で分かっていたとすると、後ろに下がる方がいいと考える。
確かに、後ろを振り返るのが、危険な場合はそうではないだろうが、普通に振り返ることができれば、必ず、
「後ろに戻る方が近い」
と感じるだろうと思うのだった。
実際に戻る方がいいのだろうが、その時の理屈として、
「前に進んだとして、帰り道がここしかない」
ということであれば、再度危険を犯さなければいけないということになる。
それを思うと、
「来たところを戻るだけでいいではないか?」
と、かなり早い段階で気づくはずだ。
そう思うと、急に安心感が出てくるのだ。
それは、自分が想像以上に、冷静であるということが、自分で分かっているということであろう。
そもそも、吊り橋という恐怖を煽る場所なので、どこまで冷静な判断力を持つことができるかということなのだろうが、実際に吊り橋の上にいるというシチュエーションができるかどうかでもある。
「想像するだけでも恐ろしい」
ということで、それこそ、
「想像を絶する」
ということである。
ただ、時系列でいくと、前に進むしかない。後ろに下がることは実質できないし、前に進むにしても、そのスピードは、基本変えることはできない。
下手に変えて、せっかくバランスを保っていたものを壊すようなことはできないし、壊してしまうと、
「自分がどこにいるのか分からなくなってしまう」
ということになってしまうだろう。
一度、父親が、愚痴だったのか、戒めだったのか、子供の橋爪にその時の心境を話してくれた気がした。
「俺は、いつも吊り橋の上で立ち止まったりしたら、一度後ろを振り返って、必死になって、来た場所に戻ろうとするんだろうな、それだけ、前に進んで戻ってこれなくなった時が怖いんだ」
というのだった。
「でも、後ろに戻って、ちゃんと戻れなかったら、後悔しちゃうでしょう?」
と聞くと
「そんなことはない。自分の考えに従って決めたことであれば、何があっても、受け入れるという気持ちだよな」
というのだった。
「そんな簡単に割り切れるんだったら、結論もすぐに出るんじゃない?」
と聞くと、
「ああ、それはそうだろうね、逆に時間を掛ければ掛けるほど自信がなくなってきて、どっちとも選べなくなる。だから、それが嫌で、即行で決めることにしているんだよ」
というのだった。
「それは、選ぶのが怖くなるから?」
と聞くと、
「いや、時間に余裕を持てば持つほど、自分の決定に自信がもてなくなって、どうしようもなくなるんだよな」
と言っていたのを思い出していた。
やはり、命にかかわるような選択は、ある意味、一度投げやりになる感覚の方がいいのかも知れないな。
というのだった。
「時間というものは、何に比例し、何に反比例するんだろう?」
というような、一種不思議な感覚に陥ったのだ。
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