第3話 自分のことを好きになる
そんな世界において、
「平均的な人間」
というものを考えるということが、どれほど狭い了見かということになるのではないかと思うのは、元々の考えが、壮大だからであろうか?
親子の間での発想からという、そもそも、叱咤なものであるにも関わらず、何を考えるのかということであった。
人間にしても、他の動物にしても寿命というものがあり、それぞれに違う。今回は、そのうちの、
「地獄に落ちれば、人間以外のものに生まれ変わる」
という発想を先に考えることにするが、
「人間が地獄に落ちて、そこから生まれ変われるものは人間以外の生物だ」
ということになるとすれば、
「じゃあ、その生物が今度生まれ変わる時、どういう生まれ変わりをするのだろう?」
と考えたとしよう。
人間が死んだ場合、
「神に召される天国、人間として生まれ変わるための、霊界、そして、神にも人間にもなれない地獄」
という、3つのうちのどれかだということになるだろう。
そのうち、神に召された場合は、死ぬということはないので、天界を離れることはない。だから、
「死ぬという概念」
がないということであろう。
しかし、霊界にいけば、また人間に生まれ変わり、寿命。病気、事故などで、命を失ったとすれば、また今度は、そのうちのどれかということになるのである。
では、
「地獄に落ちて、他の動物に生まれ変わる」
ということになるのであれば、生まれ変わった動物にも、寿命があるわけで、結局どこかで死を迎えるとなると、どうなるのだろう?
「人間の世界であるから、天国、霊界、地獄などという考えが生まれてくるのだが、他の動物が死んだ時、同じような世界があるということだろうか?」
ということである。
天国は、
「いい行いをしたから、神に召させる」
地獄の場合は、
「救いようのない罪を犯したことで、地獄に行くことになる」
と考えると、どうしても、
「人間以外の動物は、すべてが、人間よりも下等であり、その差は、人間が意識できないものである」
と言えるのではないだろうか?
それとも、
「創造主である神であれば、その差別化をしてもいいのだろうが、人間ごときには、そんな大それたことはできない」
ということであれば、
「人間から見て、他の動物は、皆同じにしか見えない」
あるいは、
「見てはいけないもの」
ということになるのであろう。
さらに、別の考え方をするなら、
「人間は、自分たち以外の動物を、すべて下等なものであり、人間とそれ以外という発想で括る」
というのが、宿命のようなものだと考えられる。
だから、地獄という大きな括りにしてしまったのではないだろうか?
だが、他の動物として生き返った時、その命が尽きる時、もし、また転生するのだとすれば、今度は何に生まれ変わるというのか、
もし、セミに生まれ変わってしまったのだとすると、次はセミの世界でしかないのだろうか?
何かを考えたり、思考によって行動することができるのが人間だけだとするならば、人間以外の動物は、種族の中で、上下をつけることができるのかということでもあった。
他の種族は、思考能力を持たないと考えると、彼らが、もし、人間社会でいうところの、
「悪事」
を働いたのだとすれば、それは
「本能からによるものだ」
ということになり、
たとえば、肉食動物が、食料になる動物を殺して食べたとしても、それは、
「自然界の摂理」
ということで、致し方のないものである。
しかも、人間以外の動物は、私利私欲のために、何物も殺さない(と言われている)のだから、少なくとも、人間界においての、
「地獄に落ちる」
ということはないだろう。
そうなると、天界か、霊界しかないわけで、生まれ変わりは、霊界しかないとすれば、
「同じ種族に生まれ変わる」
ということになるであろう。
そうなると、
「生まれ変わるものは、同じ種族でしかありえない」
ということになるのだ。
そういう意味で、人間だけが、他の動物に生まれ変わる可能性があり、ということになると、
「一度地獄に行ってしまうと、ずっと、生まれ変わった動物のまま、自分たちが生きるために必要な動物の餌食になる」
という運命を背負って生きることになるのだ。
人間が、動物を殺すと、悪事を働いたということになるのだろうか?
人間も、食べなければ生きていけない動物であることに変わりはない。
だから、生きるために、他の動物を殺すことは、本能であるだろう。
しかし、中には、昆虫採集であったり、趣味のために殺生をすることもある、その時はちゃんと、神様が分かっていて、そんなことをした人間は、
「地獄に落とし、そして、生まれ変わりを、その動物にする」
ということなのかも知れない。
それであれば、分からなくもないが、中には、人間が人間を殺すということも結構ある。
それこそ、しょうがないと言われるものもあるだろうが、それ以外というと、
「私利私欲のために、人を殺す」
ということになる。
「地獄というのが、どういうところなのか?」
誰も知らない。
一度地獄を見ると、決して元には戻れない」
というのは、まさしくそういうことなのだろう。
「人間が、地獄に行って、どんな動物に生まれ変わるのかということは、決まっているのだろうか?」
そもそも、人間から見て、他の動物に差別的な感覚があるというのか、
「下等動物という理念がどこから来るのかは、生物学の中で、進化の度合いなどによって分かるのだろうが、基本的には、弱肉強食の世界で、強い動物が、より下等という感覚なのではないだろうか?」
それは人間が見た感覚で。
「食われて可哀そうだ」
という感覚があるからで、そもそも、食われてしまうような動物は弱い動物ということで、普通なら、
「下等動物だ」
と言われそうである。
しかし、実際には、下等動物の定義というのはあるわけではない。
結局人間の中で、
「いかに自分という人間という種族が、いかに都合よく生きていけるか?」
ということが、下等動物という順序をつける意味で、大きな意味を形成しているのかも知れない」
のだった。
要するに、人間が都合で、その位置を考えるというのは、最初から、つまりは、学問が発達するもっと以前から分かっていたことなのかも知れない。それが、人間においての、
「神の力だ」
ということであれば、勝手な発想も浮かんでくるというものだ。
「人間と、他の動物」
という考え方をすると、おかしな発想が思い浮かんでくる。
たとえば、
「宇宙人と、地球人」
という関係も、
「他の動物と人間」
という考え方と似ているのではないだろうか?
「宇宙人とはいうが、考えてみれば、地球人だって宇宙人ではないか?」
ということになるのである。
これは、昔の特撮ヒーローものに出てきたセリフだったが、
「我々地球人」
という言葉に、相手の宇宙人が反応し、
「お前たち地球人だって、同じ宇宙人じゃないか。その発想はおこがましい」
というような言葉を言っていたのを思い出した。
なるほど、確かに地球人も、
「宇宙人というものを一括りにしたのであれば、宇宙人の一種だ」
ということになる。
だとすると、地球人を別の括りにするのであれば、それぞれの星の連中を別の括りにすべきである。
いや、もっと考えれば、
「地球上にだって、いろいろな国家があり、種族も違う。それによって、世界中のどこかで必ず戦争をしているような星ではないか」
ということになる。
そうなると、それぞれの星の中でも、細かく分ける必要がある。
などと考えていくと、まるで、マトリョシカ人形のように、
「キリがなくなってしまう」
ということになるであろう。
地球人が、自分たちだけを細分化し、他の星の連中は、
「十把一絡げ」
にしてしまおうというのは、それだけ、
「宇宙には、人間以上の生物はいない」
という発想から来ているのかも知れない。
地球上で、
「人間と、それ以外の動物」
ということで意識している時点で、
「人間が一番偉い種族であり、他は皆、人間から劣る、下等動物でしかないんだ」
ということを言っているのと同じである。
ドラマの中で宇宙人が、
「地球人はおこがましい」
と言ったのは、そういうところである。
そういう意味でいくと、
「神様」
という発想も、
「人間が作りだしたもの」
というところに行き着くのかも知れない。
死んだ人間の中で、
「選ばれた人」
というのが、
「天界に行って神になる」
というではないか。結局、神というのを想像しても、それはあくまでも、人間にとって都合のいい存在であり、それだって、結局は、
「人間が死んでから徳を積んでいく場所」
とでもいうことで、
「人間が作った」
と、どこまで行っても、人間が関与していることを、否定できなくなってしまうのであった。
それだけ人間というのは、おこがましい存在であり、理屈をつけてでも、一番高等に存在しなければいけないところにいるのだろう。
そんな人間が、他の動物と宇宙人という発想を持った時、宇宙人に対しては、
「侵略」
という発想を抱くのだが、地球にいる他の動物から、逆に、
「支配される」
という発想が浮かんでこないのだろう。
というのは、宇宙人の存在を考えるのであれば、同じ地球において、
「人類よりも、文明の発達した動物」
たとえば、地底人というような発想である。
ただ、特撮SFものの話であれば、30分番組だったとすれば、その話が、
「一話完結」
であったとすれば、テーマを地底人とすれば、そこで終わってしまう。
しかし、相手が宇宙であれば、それこそ、
「星の数ほど」
と言われるほど、本当に星の数があるわけであるし、誰も宇宙を知らないわけなので、いくらでも、発想ができるというものだ。
だが、地球に侵略に来ている宇宙人を一つの星に絞って、そこから、怪獣を、
「他の星から連れてきた」
などという発想にすれば、侵略してくる宇宙人が一つの星だけでも、成立するのである。
ただ、そうなると、かなり難しいことになる。
なぜなら、一話完結であれば、一回の侵略を妨げれば、その話がそこで終わっても違和感がないが、同じ星から何度も侵略を受けていると、普通の考え方としては、
「敵が攻めてくるのであれば、先制攻撃で、相手の前線基地を片っ端からやっつけていく」
という考えが頭に浮かぶだろう。
その証拠に昔の、等身大ロボット、いわゆる人間型アンドロイドが、敵ロボットによる世界征服計画を練っているところで、
「相手の秘密基地を探し出して、片っ端から破壊していく」
という使命を帯びた、正義のヒーローアンドロイドだったのだ。
だが、その特撮番組は特殊だったといってもいい。そういう先制攻撃をするという番組が少なかったからだ。
それはなぜかというと、たぶんであるが、
「日本国憲法における、第九条」
というものが引っかかっているのではないだろうか?
日本の自衛隊は、
「相手が攻めてきた時に、防衛するだけのことしか、憲法で認められていない」
ということであった。
もちろん、こちらから、相手を攻撃することはできないのは、日本以外であっても同じことなのだが、相手の国が日本に攻めてくるということが分かっていて、相手の前線基地の位置も分かっているのに、攻めてくるまでは、こちらから、先制攻撃はできないのだ。
「専守防衛」
つまり、
「防衛のためとはいえ、相手が先に打つまでは、こっちが打ってはいけない」
ということであった。
どんなに、力が勝っていても、相手に先制攻撃をさせれば、ひるんでしまうのは当たり前で、最初から不利な状態での戦闘になる。
今の憲法は、それでも、先制攻撃をしてはいけないのだった。
ただ、この問題は難しい問題を孕んでいて、憲法改正というものが、いかに難しいか。今まで70年以上もの歴史のある憲法を改正しようというのだから、いろいろ問題がある。この問題だけではなく、他の問題も、
「簡単に憲法を改正できるのであれば」
ということで、政府が自分たちの都合のいいように、国民を騙す形で、強引に憲法を変えてしまうとも限らないからだ。
そんなことを考えていると、
「地球に攻めてくる相手を、こちらが先制攻撃できない」
という発想であれば、
「一話完結」
という形でないと、ひょっとすると、視聴者から、
「何で、相手の秘密基地を攻撃しない」
というクレームが上がってくるかも知れない。
そうなってしまうと、どう言い訳していいか分からない。
視聴者が子供なのに、クレームを真に受けて、
「憲法問題が絡んでいるから」
といって分かるはずもないだろう。
そういうことを考えると、
「子供向けの特撮番組やアニメ」
などというのは、
「自分たちのまわりの集団が、一番偉く、それ以外の集団は、十把一絡げではないか」
という考えに、知らず知らずんのうちにさせられていて、それが一種の、
「マインドコントロール」
なのではないだろうか。
それが、自分たち以降の時代と、父親以前との時代の差なのかも知れない。
もちろん、自分たちの世代と、子供の世代、あるいは、父親の世代と、爺さんとの世代との間にも、これと似た、あるいは、さらに大きなものがあったかも知れない。
もっといえば、同じ感覚が親味と爺さんの時代にもあったかも知れない。
それだけ、子供番組における、
「伝説的な発想」
というものは、そうは変わっていないということなのかも知れない。
そんなことを考えていると、
「俺と親父って、本当は性格的なあところでは同じなのかも知れないな」
と感じていた。
「では、一体、どこが似ているのだというのだろうか?」
と考え、一つ言えることは、
「お互いに、自分のことが好きだ」
と思っているのではないだろうか?
というのが、どういうことなのかということであるが、一つ考えられることとして、特に自分のことであるが、
「自己満足」
という言葉がある。
この言葉を聴いて、橋爪は、
「自己満足の何が悪いのだろう?」
と思うのだ。
きっと、まわりの人にそれをいうと、
「自分だけが満足したんじゃ、ダメで、まわりの人を満足させられるように考えないといけないだろう」
と言われるのではないだろうか?
しかし、考え方の違いなのかも知れないが、
「俺はそうは思わない」
と、橋爪は反論するに違いない。
「何を言っているんだ」
と、相手は、そのうちに、怒り出すカモ知れないとも思えるが、それでも、頑なにその考えを拒否する。
「どういうことなんだ?」
と聞かれると、
「自分で満足もできないようなものを、人が満足してくれるわけないじゃないですか。だから、まず自分で満足のいくものを作って、それで、人に勧めたり、買ってもらったりするのさ」
といえば、相手はしばし考え、複雑な心境になり、
「ああ、確かにその通りだな」
と、承服することだろう。
これは、それこそ、
「自分たちのまわりの集団が、一番偉く、それ以外の集団は、十把一絡げではないか」
という考えが、無意識に自分の中にあるということを、意識していることだろう。
言われて初めて、その意識を思い出すのだろうが、
「この考えは、決して表に出してはいけない」
という考えもあることから、橋爪の言葉に、
「そういわれればもっともだ」
と思いながらも、安易に認めることもできず、同意することも憚っていると感じているのかも知れない。
そう思うから、
「人間というのは、基本的に自分のことが好きなんだ。ただ、それは、人間という美学に反するという意味でも認めたくないのだ」
人間には、
「基本的に、美しいものを愛でる」
というところが備わっている。
いわゆる、
「耽美主義」
というもので、
何も、耽美主義者でなければ、
「美しいものを愛でる」
という考え方を持ってはいけないというわけではない。
皆無意識に持っているもので、
「無意識に持っていて、それを表に出していいものなのか、悪いものなのかというのは、ほとんどの人に共通しているものではないだろうか」
つまりは、
「人間の中には、決して表に出してはいけない感情、羞恥というものがあるから、逆に羞恥心というものが、自分の感情を支配することもある」
というのであろう。
だが、このあたりは、誰に教えられたものでもない。
子供の頃には、そこまでの羞恥心というものはなく、ある日突然、誰にでも、個人差はあるが、ほぼ同じくらいの時期に訪れる、
「思春期」
というものが、その役目を果たし、次第に、大人の感情を作り上げていく。
それは、羞恥に対しての気持ちもそうであろうし、耽美的な気持ちもそうであろう。
さらに、大人として、
「他人のために」
という、一種の自己犠牲を美学と考えるという意味で、元々あった耽美的な考えが、次第に膨れ上がってくるというものでもあった。
だからと言って、気持ちはまだまだ、子供のままである。
もっといえば、
「子供の心を持ったまま、大人に近づいていく」
それが、本当に大人となり、子供と接する時、自分が子供の頃に感じた感情を忘れてしまうというのは、自分に子供ができた時であろう。
そういう意味では、今の時代のように、
「子供を作らない夫婦」
それどころか、
「結婚すらしない」
という人がこれだけ増えているのだから、いい悪いは別にして、
「親の教育によって、子供は育ち、親も、本来の親になっていく」
という、今までの
「人間の習性」
に変化が表れてくるのだった。
しかも、最近の親は、昔のように子供を叱りつけたりはしない。子供が騒いでいても、別に怒りもしない。
「子供は自由に育てればいい」
と口では言っているが、自分が面倒臭いだけなのだ。
その証拠に、自分の立場が悪くなる時であれば、ヒステリックに叱りつける親がいる。
子供としては、無意識にであろうが、
「親がどういう時に怒る」
というのを分かっているのに、そのタイミングと違う時に、いきなり怒りだされれば、それは、子供としても、溜まったものではない。
それを思うと、
「子供を怒らなくなった親というのは、子供のために怒らないのではなく、あくまでも、自分のためなんだ」
と考えると、
「今の親は、親としての本能ですら、なくしてしまったのではないか?」
と思えるのだった。
そんな大人に育てられた子供が大人になり、さらに、その大人が子供を育てる。
そんな繰り返しに、
「負のスパイラル」
しか、見えないのは、橋爪だけであろうか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます