第2話 平均的
そんな父親が育った時代に、なぜか、平均的な発想をする人が多い。
やはり、当時であっても、スポーツ根性ものというのは異質だったということなのか、それとも、そういう生き様が、格好よくは写るが、実際に、リアルなこととなると、冷めてしか見えないということなのか、そのあたりの発想が難しいところであった。
しかし、父親は考え方が、
「平均的な人間が一番いい人生を歩むことができる」
という考え方のようであった。
そんな人生論などを、父親と交わしたことはない。
もし、そんなことをしようものなら、お互いに興奮して、一歩も譲らないことだろう。橋爪も自分の考え方を分かっているつもりだし、父親が、いまさら
「親の威厳」
というものを振りかざしてくることも分かっていたのだ。
だが、父親は、意外とまわりの人たちから人気がある。
同世代の人たちからはもちろんのこと、スナックなどの飲み屋などに行けば、そこの女の子たちからも人気があるというような話を聴いたことがあったくらいだ。
どこに人気があるのかというと、
「考え方が、とても新鮮で、聴いていて楽しい」
というのだ。
橋爪からすれば、
「はぁ? あの親父のどこに、そんな楽しさがあるというんだ?」
という思いに至るのだ。
そのあたりの話をしてみると、
「私たちって、結構その日暮らしの考え方が多いんだけど、あの年代の人って、私たちとは相いれないところもあって、どこかに結界のようなものを感じることもあるんだけど、だからと言って無視することもできないのよ。それが、きっと将来に渡っての一つのビジョンのようなものを持っているということではないのかしらね?」
というのだった。
つまり、
「自分たちのできないことを、昔の人ができていた」
という感覚なのかも知れない。
それだけ今の時代は、その日暮らしということに必死で、少し先のことであっても、まったく考えられない時代になってしまっているということなのではないだろうか。
それはそうであろう。
その一番の代表例と言えるものが、10数年ほど前にあった、
「消えた年金問題」
ではないだろうか。
それまでも、
「国家の借金が増えすぎて、少子高齢化ということもあって、年金を引き上げるという考えは実際にあった」
つまりは、
「昭和の終わり頃というと、まだまだ定年が55歳で、しかも、年金は55歳から普通にもらえたのだ」
しかし、今の時代は、
「定年が60歳。年金が65歳からということで、この間は、企業が、個人がはたらきたいと希望すれば、継続できるという体制を築く」
ということで、何とかなっていた時代だった。
しかし、
「消えた年金問題」
というのは、そんなものではなく、
「厚生労働省のずさんな管理が慢性化で続いていて、蓋を開けてみると、誰が誰の年金なのか、分からなくなり、数百万という人の年金記録が曖昧になったということだったのだ。
そんなずさんな管理にさすがの国民も愛想が尽きたのか。それまで、半世紀にわたって、ほぼ、
「一党独裁」
と言われた時代が続いていたのに、ついに、野党にとって代わられた。
しかし、その野党は、想像以上の腰抜けの集まりで、結果、混乱に拍車をかけて、数年で、また、年金を消したあの政党に政権が戻ることになったのだ。
「この時代に、徳川慶喜になれなかった」
ということだろう。
当時の野党は、
「明治政府」
になることもできず、今では、その情けなさがどんどん加速していき、
「野党第一党の立場さえも失っていた」
ということだ。
昔の野党は、そんなこともなかった。野党第一党として、ずっと、政権与党の対抗馬として存在していただけで、その政党は、
「野党としての仕事は、少なくとも今の野党に比べ、十分だった」
といってもいいだろう。
そんな時代が、今は懐かしいといってもいい。あの時代はあの時代でいいところもあったというべきであろう。
父親がいう、
「平均点的な人間って、どういうものなのだろう?」
ということを考えたことがあったが、そもそも、
「その時代において、人間の価値も変わってくるだろうから、平均点というものが、どういうものなのか?」
と考えてしまうだろう。
要するに、
「そもそもの、分母が違うのだから、どんなに結果としても分子が違えば、その変動は、致し方がないといえるだろう」
ということであった。
分母が、人口すべてなのか、それとも、自分の同世代の人ということなのか、成人男子すべてということなのか?
ということでも、大きく変わってくるというものだ。
さらに平均点という管変え方も、
「単純な数式による代入形式なのか?」
ということも問題である。
普通の平均という考え方であれば、問題になっているものの点数をすべて足して、そして、それを、点数がついているものの、件数で割ると出てくるというのが、
「通常の平均点」
という、ざっくりとした考えである。
だが、中には、その点数というものが、自分の中での性格であったり、本能であったり、まわりからの評価などによるものだったりして、
「一概に、一緒にできないもの」
というものまで一緒くたにして計算しようとすると、おかしくなってしまうというのも、間違いないことである。
そういう意味で、父親が考えている平均点と、自分が考える、
「嫌な平均点」
という意味でのすれ違いが起こっているのではないかと思えるのだった。
たとえば、父親の考える平均点が、
「一概にはいえない平均点」
というものであり、もちろん、父親の中でも、
「絶対的な平均など、ありえない」
と思っているかも知れないと思うと、
「息子の方こそ、父親のことを過小評価しているのかも知れない」
と言えるのではないだろうか?
しかし、子供としては、ちょうど自分たちの時代が、学歴社会であり、何でも、点数で評価され、テストテストでの、そのためのテスト勉強が詰込みになってしまっているとするならば、
「平均」
と言われて思い浮かべるものが、単純な数式での計算しか思い浮かばないのであれば、そもそもの発想に柔軟性のない、自分の方が発想としてはまずいのではないだろうか?
そんなことを考えると、
「平均的だという言葉に対して、必要以上に意識しているのは、子供の方ではないだろうか?」
ということになるのだった。
そうなると、父親に対してのイメージ、父親が子供に対してのイメージは、
「どこかでニアミスを起こし、すれ違ってしまっている」
と考えると、
「一度すれ違ってしまい、そのことにどちらかでも気づかなければ、それこそ、地球を一周しない限り、また出会うということはない」
ということになり、それが、
「親子である」
がゆえに、
「決して交わることのない平行線」
を描いているという感覚になってしまうのではないだろうか?
そのことに少しでも気づけば、父親とのわだかまりは、もう少し何とかなったかも知れない。
ただ、親子である場合は、さらに難しく、平行線のイメージをどちらかが抱けば何とかなるというものではなく、お互いにそのことに気づいて、気付いたことで、初めて歩み寄りができるのではないかと考えられるのではないだろうか?
今から思えば、まだ自分が思春期だった頃、父親に徹底的に反抗していたつもりだったが、その時に感じていたのは、
「あんただって、子供の頃があったんだろう? 同じように父親に反発したんじゃないか? その時のことを覚えていないのか、それとも、大人になったら、変わってしまうのだろうか?」
と考えるようになったのだ。
それなのに、どうして、自分が大人になると、大人の立場でしかものを言わないようになるのか?
「忘れてしまっているのか?」
それとも、
「大人になると考え方が変わって、子供の教育のためには、仕方がない」
と思うのかの、どちらかではないかと感じるのだった。
大人になると、もし、自分の意思に関係なく、変わらなければいけなくなるのであれば、
「俺は、子供なんか持ちたくない」
と思うのだった。
確かに子供に対しての親のしつけというのは、当然のことであり、
「叱らなければいけないところは、しっかりと叱る」
ということになるであろう。
だが、実際に親になってから、ちゃんと子供を叱れるであろうか?
子供を叱っている親を見ていると、そのほとんどがm母親で、それも、ヒステリックな叱り方にしか見えてこないのだ。
それを思うと、叱らなければいけない子供というのが、まるで自分の子供の頃のような気がして、自分がフラッシュバックしてくるのだ。
大人に叱られるということは、
「自分が、叱られるようなことをしたからだ」
ということも分かっている。
しかし、その叱り方が、母親の場合の言い方に、苛立ちを覚えるのだ。
「明らかに、子供を自分のストレス解消の道具に使っている」
という風に見えたり、
「自分の見栄のため、子供に邪魔をされたようで、叱ることで、その視線をそらそうと考えているのではないだろうか」
そんなことを考えると、
「叱りつけている親を見るのは、嫌悪以外の何物でもない」
と思えて仕方がないのだ。
子供というものが、いかに苛立ちがあるものかというのを、子供が分かるはずもない。そもそも分かっていれば、わざわざそんな態度を取るはずもないのだ。
きっと、大人になった時、
「自分は常識人になった」
という感覚から、
「子供は叱りつけるものだ」
と考えるのだろうが、たまに、子供を叱りつけている母親を見て、
「これは、ストレスからの怒りを子供にぶつけているだけではないか」
と感じると、
「子供というものを、しかりつけてはいけない」
という感覚になってしまうのではないだろうか。
そんなことを考えると、そこで、
「二重人格の自分が生まれた」
ということを、無意識の中で意識しているのではないだろうか?
二重人格というのは、
「子供の目から見た状況」
と、
「大人の目から見た状況」
というだけで、人格といってしまうのは間違いなのかも知れない。
子供の頃に見る大人というのは、威厳のあるもの以外の何者でもない。しかも、子供というのは、子供心に、意外とまわりの状況が分かっているものであり、世界を分かっていないことを恐れているのだろう。
子供の中で一番知りたいことは、たぶん、
「限界」
のようなものではないだろうか?
それだけ、何も分かっていないということであり、そのまわり全体が、無限に続いているものが、目標であったり、可能性であったりということが分かってくれば、目指すものが分かるだけに、怖くはないだろう。
しかし、子供であれば、そこまで分かるわけもなく、漠然と怖がっている状態なのである。
そうなると自分の限界や目標が何かということが分からないと、この恐怖や不安は消えることはない。
分かってきたとしても、消えないかも知れないと思うのは、
「そこで新たに、先が見えてくるからだ」
ということが分かってくるのは、若いうちではないということなのかも知れない。
大人になってくると、今度は、親子を見ると、親の方に少しずつ意識が向いているのが分かってくる。
大人になるにつれて、子供の頃に、
「どんなことを考えていたのか?」
ということが分からなくなってくる。
それも、
「本当に子供の頃に分かっていたのだろうか?」
ということを考えるくらいに、子供がまったくといっていいほど、分からなくなるのであった。
そんなことを考えると、
「子供が大人を見る方が、大人になって子供を見るよりも、理解しやすいのかも知れない」
と感じる、
しかし、いかんせん、
「子供というのは、まだ大人になったことがないので、大人というものが分からない」
ということから、逆に、大人のことを、自分の延長線上で見ることにより、見えてくるものがあるのではないだろうか。
「見えていないようで、実は見えている子供の目、逆に、見えているつもりでいるのに、まったく見えていない大人の目、一体いつから、その視線は重なることもなく、行き過ぎてしまったのだろう?」
と考えてしまうのだった。
だから、大人になると、
「自分が子供だった頃のことを思い出して、子供にあまり叱ったりしないようにしよう」
と思うのだが、気がついたら叱りつけていた。
しかも、叱りつけている時は。
「これが当たり前だ」
とおもうくせに、実際には叱りつけている自分の姿が、無意識なくせに、後になって冷静になると、頭の中に浮かんでくるのだった。
実際に自分が成人した頃、(当時は20歳で成人)子供を叱っている母親を見ると、
「自分のストレス解消のためと、まわりに迷惑を掛けてはいけないというポーズのために、子供を叱りつけているようにしか見えなかった」
のであるから、子供が泣きわめく姿をみて、
「こんなの見てられない」
と思わず、目をつぶりたくなったのも無理もないことだろう。
「皆が皆、そんなことはないはずなんだけどな」
とは思うのだが、どうしても、
「母親の都合」
ということでしかないようにしか見えないのであった。
その発想は、
「大人が子供に叱りつけているのを見て、どうして自分の子供の頃を思い出すことをしないんだ?」
という発想に似ているではないか。
「子供と大人というその距離は、果たしてどちらが近く感じるのだろう?」
あくまでも、
「目で見た錯覚」
という意味で考えると、上から下を見下ろすよりも、舌から上を見上げたようが、近くに感じるのではないだろうか?
例えば、3階くらいのところから、1階を見下ろすのと、1階から3階を見上げるのとでは、明らかに見上げる方が近くに見える。
ただ、それは、人間の中にある、
「高いところが怖い」
という、
「高所恐怖症」
なる感覚が、錯覚というものを見せるのかも知れない。
だから、一概には言えないのだが、
「高所恐怖症」
という概念のない、
「立場による高低」
であれば、
「子供が親を見る方が近くに感じられる」
ということになるだろう。
しかし、逆に、
「子供は親になったことはないが、親は子供だった時代を知っている」
という意味から考えると、バランスという意味で、
「この感覚も当たり前のことなのかも知れない」
ということであった。
そういう意味で考えると、
「親になった、かつての子供が、子供の頃のことを思い出せないかのように、子供を叱るというのも、無理もないことではないか?」
と言えるのではないだろうか。
バランスが取れているように思うのは、あくまでも錯覚であり、それは、
「冷静になって少し離れたところから見てみると、明らかに、大人が子供を叱っている姿を見ると、嫌な気分しかしない」
ということからであろう。
「なるほど、子供の頃に、親から叱られるという感覚が、恐ろしくて不安だったというのは、そういうことなのか?」
と、まるで、子供の頃に、大人になってからの感覚に気づくというのは、
「子供の頃、どこかで、上から見下ろす時の、気持ち悪さを感じたからなのかも知れない」
と感じるのであった。
たまに感じるのが、
「前世の記憶なのではないか?」
と感じるのだった。
前世というものを考えた時、昔は、
「前世の記憶があるとよく言われるけど、本当に自分の前世が人間だったのだろうか?」
ということを考えたからである。
「輪廻転生」
という言葉があり、
「生き物は、一度死んでも、またどこかのタイミングで別の生を受けて生まれ変わる」
というものであった。
果たして、人間が前世であれば、
「人間として生まれ変われるのだろうか?」
という考え方があるが、これは宗教によって考え方は違ってくる。
世の中には、数多くの宗教というものが存在するが、そのほとんどは、輪廻転生が信じられている。
ただ、その時、
「人間は人間に生まれ変わるか、何に生まれ変わるかということで、いろいろ分かれていたりする」
という考え方があるのだ。
ある宗教は、
「基本的に、何にでも生まれ変わる可能性があるが、人間に生まれ変わることができるのは、一部の人間であり、それ以外は、地獄に落ちて、生まれ変わる時は、人間ではない下等動物として生まれ変わる」
というものだった。
逆に、人間にしか生まれ変われないものとして、
「地獄と天国以外の世界に行った人間は、いずれ、人間として生まれ変わる。そして、地獄に行った人間は、そこでは、再生の機会はまったくなく、苦痛だけを味わうことになる」
というものであった。
つまり、
「天国に行った人間は、神になるので、生まれ変わるという概念がない」
というもので、
「地獄でも天国でもない世界に行くと、そこでは、人間に生まれ変わるという、その世界だけが、輪廻転生となる:
そして、地獄に行った人間の考え方が違っていて、ある宗教では、
「地獄に行くと、再生の機会はまったくなく、永遠の苦痛を味わうことになる」
という世界であり、もう一つの地獄では、
「相当の間、苦痛を味わわされた上で、再生の機会があったとしても、生まれ変われるのは、人間以外だ」
ということであった。
となると、
「もし、人間の世界で生まれ変われたとするならば、死んだ人間よりも、人間に生まれ変われる人は、かなり減っている」
といってもいい。
天国に行って、神になる人というのは、まずはいないだろうから、地獄に行って、そこで苦痛を味わうか、別の動物に生まれ変われるだけだということになると、最初に死んだ人間が100人だとすると、その中で人間に生まれ変われるのは、50人くらいなのかも知れない。
つまり、どこかで新たな命が作られなければ、人間の人数は減る一方である。
しかし実際にはそういうことはない。人口は増える一方なので、そんなことを考えると、「神となったものが、自分の分身のようなものを、この世に送っているのだろうか?」
とも考えてしまう。
そうなると、
「この世では、神の分身のような人がどんどん増えて行っているのだとすると、次第にいい世の中になっていっているはずなんだけどな」
と思えるのだった。
ということは、
「神の分身とは、別に人間のために存在しているわけではなく、神は神の立場で存在しているのだとすれば、その存在が、一般的な人間にその存在意義が分かるわけはないのではないか?」
と言える気がしてきたのだ。
逆に、
「神から仕わされた人間は、この世では何もしてはいけない。ただ存在しているだけでしかないといけない」
ということなのかも知れない。
「あくまでも、人間を見張る存在、つまり、人間社会に、影響を及ぼしてはいけない」
そんな人たちがいるのではないか?
ということである。
確かに、人間社会において、
「見えているはずなのに、見えていない人がいる。それは、まるで石ころのような存在の人間ではないか」
と思うのだ。
石ころというのは、目の前にあっても、それが当たり前のことすぎて、意識されることはない。
しかも、いくつも同じようなものが、集中しているため、その一つ一つを意識するなどということありえないだろう。
それを考えると、
「石ころを見ていて、こちらは意識しないが、石ころはこちらを見ていて、人間の存在というものに気づいているのだろうか?」
ということを考えてしまうのだった。
実際に、子供アニメの中の、
「友達のために、便利アイテムを出してくれる」
という設定のアイテムの中に、
「石ころ帽子」
というものがあった。
「それをかぶっていると、誰も、その人のことを気にしないというもので、目の前にいても、その存在を鬱陶しいとは思っても、まったく意識するということはない」
というものである。
それが、
「神が仕わせた人間」
ということであれば、まさに、それこそが、
「神だ」
と言えるのではないだろうか?
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