1分50秒小説『なみだはなみだ』

 波が青年に恋をした。

 肌をサーフボードで撫でられた瞬間、心が感じた――この人は、波を愛している。それは無言の告白だった。波は青年の気持ちに応えようと、大きなうねりを起こした。青年はそのうねりに乗り、歓声を上げた。波は幸せだった。

 秋が訪れ、青年は去って行った。でも波は寂しくなかった。青年が砂浜に詩を残していったから。


   涙は波だ

   この頬に寄せて返す

   いつまでも想い漂わせ


 波は詩を呑み込んだ。砂浜の微かな凹凸、青年の指筆の圧を口づけのように感じた。

 冬に想いが募った。波にはどうしようもなかった。逢えない時間が、食べ物を腐らせていくように、波の心を変色させていった。

 そして春が来て、夏が来た。


 青年が来た。波は喜んだ。もう二度と放したくない。青年の肉体も心も自分だけのものにしたい。そう思った。しかし青年は恋人を連れていた。とても美しい女性だった。浅瀬で体を寄せ、青年が手ほどきしていた。二人で波に乗るつもりだ。それはとてつもない侮辱だ。波はそう感じた。


 女性を浅瀬に残し、青年が沖にやって来た。サーフボードの懐かしい感触、波は青年の詩を思い出し、本当に自分は大きな涙なのではないかと思った。

 青年が滑り出した。波はうねる。大きくうねる。激しく、とても激しく、うねる。そして青年を呑み込んだ。波は青年を抱き締め、このまま恋人から遠く遠く、沖合の海底まで青年を連れて行こうと思った。しかし止めた。青年が笑ったのだ。死を覚悟して、笑ったのだ。青年は、波を愛している。普遍的で、恋などという一形態に留まらない感情、波はそう感じた。

 青年を浅瀬に返した。悲しみはなかったが、自分は、やはり涙なのだと思った。


   貴方の頬の浜に消ゆ

   返らぬ想い

   置きざりに


 青年の指が恋人の頬を拭う。指先を滑る透明な雫、数センチの波涛に落ち、消える。

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