第Ⅰ部:始動

Ⅰ:黎明

Prologue

 空は広く、ただ深いものだった。

 吸い込まれそうになるような無限の深さを持ち、手をどれだけ伸ばしても届かない場所。

 少年にとって空は未知の世界だった。

 元老院議員の養子として、少年は帝都カイゼルブルクで育った。リヒャルト・エルヴィン・フォン・アイゼンシュタインと言う重たい名前をぶら下げて、少年は閉ざされた幼少期を過ごした。

 彼が物心ついたときには既に伯爵子だった。自分の本当の父母が誰なのかも知らず、ただ孤児院から拾われてきた事だけを聞いて育った。

 父は家にいない時の方が多く、少年の世話は使用人たちに委ねていた。使用人たちはどこかよそよそしくて、少年を愛しはしなかった。母はおらず、少年が愛情を感じる事は無かった。

 少年は家庭に居場所を感じる事はできなかった。幼稚園でも彼は浮いた存在だった。それが彼自身の持つ性質のためか、周囲との相性のためかを少年は知る事がなかった。

 政治の世界には幼い時から時々足を踏み入れていた。雲を見下ろす帝都の超高層ビルの中にある父の家では頻繁にパーティーが行われ、その度に少年は見世物のように人前に出された。

 「将来はお父さんと同じく元老院議員になるのかい」

 「養子なのに利発だと聞く。優れた政治家になれるな」

 周りの人たちは常に少年を養父と言うレンズを通して観ていた。誰も彼を彼として見てくれなかった。

 パーティーの場にも、彼の居場所はなかった。

 「新たな課税法案を陛下が議会に提出される」

 「ローゼンベルクの来期の決算は悪いそうだ。市場に影響が出るぞ」

 「惑星ノルディアの戦局が思わしくないらしい。補給線が寸断されたと聞く」

 周りの大人たちの言葉の意味は十歳を超えれば粗方理解できても、それが少年にとって何ら建設的な意義を持つものではない。妙に明るい照明も、アルコールの芳香も、終わりなく弾け続ける非健康的な会話の泡も、全て少年にとっては息苦しいものだった。

 吐き気がするような空気から逃げ出すように飛び出したバルコニーの景色は、唯一彼が好きな世界だった。どこまでも広がる巨大都市の光。都市のいたるところから突き出た天まで届くような高い建物、その間を行き交うエアバイクやスカイボート。無数の宇宙船が重力を蹴って遥かな空へと消えていく。遠方には全長が数キロに達するような巨大な軍艦の姿を見ることもできた。

 空の向こうは少年が見た事のない景色だった。昼間は青く、夜は暗い世界。少年にとっては恒星の光と隣接する第四惑星ミズガルズの青々とした姿だけがその向こうにあるものだった。

 その向こうの景色を見たい。閉塞したこの地平から無限の世界に旅立ちたい。やがてこの金髪の少年はこの場所から空を見上げてそう思うようになった。

 周りの人たちに熱はない。政治問題とか経済について色々喋ってはいても、その言葉の一つ一つは決して“意志”や“使命感”が入ったものではない。利益誘導がどうとか、配当がどれくらいとか、利権を漁る人面を付けたハイエナが蠢いているばかりである。

 胸が詰まる。吐き気がする。十歳になる頃には少年はそう強く意識するようになった。

 彼が天性のものとして生まれ持った強い翼は人間社会の鎖に雁字搦めにされ、この帝都の高層階以上の高さへ自分の翼で飛び立つ日はいつまで経っても来ない。家を空けてばかりの父と、自分の向こう側にある高額な給与ばかりを見ている使用人たちに囲まれた家の中で、少年は日を追うごとに想いを強めていった。

 帝室への忠義だとか、愛国心だとかが少年に特段強かったわけではない。彼はただ籠の中で飼われる己の姿を望んでいなかった。自分は自由な世界に行きたい。誰にも縛られない地位に上り詰めたい。

 彼にとってその道はたった一つしか無いように思われた。

 帝国軍幼年士官学校。小学校の卒業から入学でき、卒業後は少尉として軍に任官できる軍学校である。

 軍隊、特に帝国海軍Kaiserliche Marineに入隊すれば艦隊勤務として宇宙に出る機会が得られる。艦長となり、提督となれば今は見上げることしかできない空の向こう側を自由に征くことだってできる。こんな息の詰まるような世界から自由になれる。

 決断した後の少年の動きは速かった。養父が家に戻った時、書斎を訪ねて切り出した。

 「お父様、僕に海軍の幼年士官学校を受験させてください」

 言いだすまで彼は恐れていた。もし駄目だと言われたらどうなるか。当然戦死の可能性を秘めた軍人は茨の道そのものである。もし父が怒ったら……

 しかしそれでも、彼はこの世界を出て行きたかった。

 言われた時、アイゼンシュタイン伯爵の表情には怒りや驚愕と言ったものはなく、むしろ納得の面持ちすら浮かんでいた。少年の年相応に限定された受容力で父の心情を慮る事は不可能だったが、父が怒らなかった事には内心安堵した。

 「軍に入りたいのか」

 「はい。軍人として身を立てたいです」

 この時少年は十一歳。来年には幼年士官学校の受験資格を得る歳だった。

 少年の言葉を反芻するように伯爵は指で机を数度叩いた。その時間の長さは少年には体感した事が無い程のものだった。無論それは、少年の意識においての話である。

 「良いだろう。やってみなさい」

 父の言葉を聞いた時、実際は十秒程の時間が少年には一分の長さに感じられた。彼にとっては意外だった父の言葉が彼の脳によって咀嚼消化された時、謝意よりも疑問が湧いて出てきた。

 「い、良いのですか?」

 養父は何も言わず受験願書にサインと蝋印を入れてくれた。

 書類を手に取って父のサインを見た時、少年は自分が自由な世界に向けて解放された事を知った。

 かくして少年は自分の人生の道を定めたのである。


 帝国海軍幼年士官学校は小学校卒業から十年間帝国海軍軍人としての専門教育を施す機関であり、卒業生は少尉として任官する事となる。ギムナジウムに相当する一般教育の上に軍事教練が重なるためその厳しさは筆舌に尽くしがたいものであり、毎年入校者の内二、三割は卒業までに退学すると言う恐るべきものだった。

 さらに銀河連邦との三十年に渡る戦争が続く現状では通常十年の教育課程を一部省略しつつ六年で修了する道も用意されており、ここでは文字通りのスパルタ式と言える教育がまかり通っていた。

 伯爵子リヒャルト・フォン・アイゼンシュタインは帝国元老院議員を父に持つ。普通なら彼自身もギムナジウムから大学へと進み、父の座を譲り受ける立場だったが彼は反発した。そして自ら茨の道へと足を踏み入れた。

 彼は全ての科目が得意な生徒と言う訳ではなかった。特に数理科目は頑張って中の上と言う成績であった。だが一方で人文学や社会科学、外国語においては抜群の記憶力と応用力を発揮し、さらに戦術理論や作戦学と言った軍事部門においては天賦の才とでも言うべき才能を発揮し続けた。

 彼は戦術演習として行われるシミュレーションで一度として敗退した事はない。“天才”の名をやがて彼は受けるようになっていった。

 その徹底して攻撃的な戦術と積極果敢な機動攻撃は“重騎兵Kürassierリヒャルト”と称されるようになり、彼が指揮を執った演習は一度として負けた事がなく、ついには帝国海軍参謀本部第一作戦課の参謀将校との対決の機会を設けられる事となる。だがそれを艦隊の斜向配置と陽動によって敵の攻撃を誘い、その戦列側面から機動部隊で痛烈な殴打を与える作戦によって見事に敗退させた。参謀本部作戦課と言えば帝国海軍でもエリート中のエリートが集う部署であり、この事態は帝国軍上層部内でも大きな反響を呼ぶ。

 苦手な科目が足を引っ張り首席卒業の座は別人に譲ったものの、六年で修了し次席にて幼年士官学校を卒業したリヒャルトは、少尉にもかかわらず“大海軍”に属する第九師団に作戦参謀として配属された。彼の勤務態度は誰と比べても優良で、比肩しようの無い精勤ぶりと能力によって同僚からは嫉視を、上官からは信頼を、部下からは敬意を勝ち得た。

 リヒャルトの属する師団はその年に行われた帝国軍の大規模攻勢作戦に参陣した。数度の小規模戦闘を経ながら戦略目標であったヴェスプッチ星系に到達した帝国軍は、後に“第二次ヴェスプッチ海戦”と名高い戦いを連邦宇宙軍第五艦隊と繰り広げる事となる。

 数度の戦闘で損耗し、さらには補給部隊の到着の遅れで弾薬や燃料の不足をきたしていた帝国軍は積極的な攻勢に出られず、二日間に渡り連邦軍に対し劣勢の立場にあった。損害も拡大し、撤退論に司令部が傾く中で一個の師団が突如突進に移ると積極攻勢に浮足立っていた連邦軍艦隊の攻勢を正面から粉砕したのである。

 無秩序な戦線の拡大と強行的な突撃で攻勢限界点にあった連邦軍の状況を見抜いた師団参謀のリヒャルトが逆撃を提案し、実行した結果だった。これを見た諸部隊も続々と後に続き、陣形が乱れてエネルギーや物資が不足していた連邦軍に猛攻撃をかける。司令部もこれを追認して総攻撃となった。敗北の崖淵へと帝国軍を追い詰めながら剣を振り上げ無防備となった胸を小突かれる形となった連邦軍は体勢を崩して総崩れとなり、これまでの二日間の苦戦を利子付きで返済した帝国軍の逆転勝利となる。

 この勝利の立役者となったリヒャルトはその慧眼を讃えられて大鷲鉄十字勲章を授与されると同時に中尉へと昇進し、同期の出世頭となった。ここから彼の活躍は続き、連邦軍との戦いの中で前線で戦果を重ね続けると、戦争で人材が払底した帝国軍の中にあって二十代前半でありながら尉官から佐官へ、佐官から将官へと出世を重ねる。

 統一銀河暦七五一年、銀河帝国軍は連邦に占領された宙域奪還に向けた攻勢作戦を開始。二五歳の若さにして少将の位を得たリヒャルトも作戦部隊の一員として戦陣に加わっていた……

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