竹箒
増田朋美
竹箒
寒い時期真っ盛りなのに、何故か暖かくて、このままでは20度まで上がってしまうのではないかと思われるような日だった。暖かい日ではあるけれど、まだ洋服売り場などでは、冬物がたくさん売っていて、なんだかその風景がミスマッチに思われてしまうような、そんな日であった。
「さあ、お昼食ができましたよ。食べてください。」
ちょっと、不正確なところがある日本語で、都筑マリーさんは、水穂さんに言った。そういえば、マリーさんが、女中さんというかメイドさんとして働いてくれるようになって、もう何日経つんだろう。そんなに長続きしているわけではないのに、マリーさんがずっと長くいるように感じられている。強引に、メイドさんとして雇われた彼女であるが、その仕事の成果はちゃんと出ているかというと、それはまた別問題だった。
「はい、ありがとうございます。」
水穂さんは、布団の上に起きた。マリーさんはサイドテーブルに、お食事をおいてくれたのであるが、見るからに唐辛子の匂いが充満していて、水穂さんは思わず咳をしてしまうくらいだった。何でも、彼女の話だと、中東でよく食べられている、辛いのを売りにした焼きそばであるというが、これをちょっと、体の悪い人に食べさせるというのは、無理な話のような気がする。
「今日は、水穂さんに配慮して、小麦粉の麺を使いませんでした。だから、あたしたちが食べているのとは、少し違ったものになりますが、それでもよく食べているものですから、どうぞ。」
マリーさんから渡された箸を受け取って、水穂さんは、中東の唐辛子焼きそばを口に入れたのであるが、えらく咳き込んで吐き出してしまった。吐き出すときは朱肉のような色をした内容物も一緒に飛び出す。急いでマリーさんはそれを手ぬぐいで拭き取った。でも、なんだか、マリーさんの作ったもので、そうなってしまったというのがはっきりわかっているというのは、切ないところだった。
「だ、大丈夫ですか?」
そう聞かれても、返事ができないのである。
「あーあ、またやったんかな。これで何度おんなじ失敗したら気が済むの?もう、何度も言ってるんだけどなあ、激辛の唐辛子は、日本人はさほど慣れてないって。」
用事から帰ってきた杉ちゃんが、マリーさんに言った。
「ご、ごめんなさい、これでも結構唐辛子は減らしたつもりなんですけど。」
「そうだけど。」
いくら杉ちゃんに言われても、マリーさんの頭には唐辛子を抜いて調理しようという考えは思いつかないようなのだった。中東では、当たり前のように使用されている唐辛子を、食べられない民族も居るんだと言うことは、なかなか思いつかないのかもしれない。
「これから気をつけるわ。ごめんなさい、水穂さん。」
「謝って済む問題じゃないわ。私が雇う立場だったら、あなたを解雇するわ。だって、これ以上唐辛子を使われたのでは困るのよ。」
風呂を掃除していて戻ってきた今西由紀子は、ちょっと強い気持ちでマリーさんに言った。
「それも、どうかと思うけど?そこまでしなくても大丈夫だよ。きっとそのうち、マリーさんも、わかってくれると思うよ。しょうがないじゃないか。中東では唐辛子そのものを生でガリガリ食べることもあるそうだから、平気なんだよ。」
杉ちゃんがそう言うが、由紀子はこれ以上我慢できなかったらしい。
「そんな事言っているから、水穂さんがいつまで経ってもご飯を食べられないのよ!この前もそうだったじゃない。竹箒の使い方も知らないんだからこの人!」
「まあまあ落ち着け。たしかに、竹箒はつかえなかったね。でも、それは、あくまでも中東に竹箒を使う習慣がなかったということを考慮すれば、しょうがないことでもあるんじゃないの。」
杉ちゃんはそう言うが、由紀子はそのときの出来事を、はっきり覚えていた。それは確か、二三日くらい前だったような。杉ちゃんに、中庭を掃除してくれと、頼まれたマリーさんは、杉ちゃんから渡された竹箒を見て、変に戸惑った顔をした。一体どうしたんだよと杉ちゃんに言われて、マリーさんは使い方がわからないといった。それがあまりにも素直な答え方だったので、杉ちゃんたちはあきれるというより呆然としてしまった。すると、布団に寝ていた水穂さんが、いつの間にか起きてきて、
「こうやって使うんです。」
と、竹箒の使い方を実演して見せてくれたので、マリーさんは見様見真似で中庭の掃除を始めてくれたのであった。
でも、竹箒になれてないから、中庭はかえって汚くなってしまった。
杉ちゃんたちは、まだ竹箒になれていないからしょうがないかと、笑って許してくれたのであるが、由紀子は、この掃除用具を使いこなすことができない種族も居るのかと、大きな衝撃を受けたのであった。それに、体の弱っている水穂さんに、わざわざ実演させてもらうというのもずる賢い女性だと思っていた。
「それならしょうがないじゃないか。だって、箒もちりとりも、見たこと無いってちゃんと話してくれたでしょ。そういう貧しい国家だってあるんだよ。だから、許してあげなくちゃ。きっとそのうち、竹箒も使いこなせるようになれるさ。」
杉ちゃんはそうのんびりと言っているが、由紀子にしてみれば大事であった。由紀子は、なんでマリーさんをこの製鉄所で雇ったのかなと思う。たしかに、長年メイドさんを募集してきて、一度も応募が来たことはなかったし、あったとしても、水穂さんに音を上げて、一日か2日でやめてしまうのが常だった。こういう長らく働いてくれるメイドさんはなかなかいない。だけど、あまりに仕事ができないことに由紀子は苛立っていた。だってまず初めに、裁縫とか、そういうことも何もできないし、料理を作らせれば、中東流の唐辛子で辛く味付けした料理ばかりだし、中庭を掃いてくれと頼んでも竹箒やちりとりの使い方を知らない。本人は、一生懸命やるから、ここで働かせてくれと何度もせがむのであるが、それにしても、仕事ができなすぎる。杉ちゃんたちは、シリアという、ほぼ戦闘状態で、家事どころではなかったところから来ているから仕方ないとのんきに言っているが、水穂さんにしてみれば、迷惑なメイドでしか無いと、由紀子は思うのである。本当なら、自分が水穂さんの世話をしたいけれど、自分は吉原駅で駅員のしごとをしなければならないから、誰かにやってもらうしか無いことも知っていた。だからそれは本当にもどかしいというかなんというか、難しい瞬間だった。
「まあいいや。とにかくな。日本では、唐辛子で味付けした料理は食べないので、そこをもうちょっと考え直してくれや。まあ、少しずつなれていこうね。」
「ハイ、わかりました。本当に気をつけます。杉ちゃんごめんなさいね。」
そう言い合っている、杉ちゃんとマリーさんを、由紀子は、ちょっと憎たらしいというか、そんな目つきで見た。それと同時に水穂さんが、また咳き込み始めてしまったので、すぐに水穂さんに薬を飲ませてやって、横にならせてあげた。そして由紀子は、そのままマリーさんを睨みつけたが、それは通じなかったようだ。目で見るだけでは、要件を推量することができない人も居るのである。器の中に盛られていた焼きそばは、少し手をつけてくれてあった。水穂さんは、それをなんとか口にしようとしてくれたのだろう。それもなんだか由紀子にしてみたら、辛いところだった。せめて水穂さんに食べてくれてありがとうとか、そういうことを言ってもいいと思うのだが、、、。
その次の日。由紀子は、駅員のしごとで、いつも通り吉原駅にいた。吉原駅と言えば、東海道線と、岳南鉄道線が入っている駅である。由紀子が努めているのは岳南鉄道の方で、富士市の中だけを走っているローカル線であった。それを利用する人は、身延線と同じで、非常に少ないことが現状であった。いくら、夜景電車とか、パーティー電車とか、そういうものを作っても、自動車が普及しているこの世の中では、電車の利用者なんて増えることも無いだろう。中には学生が通学に使う例もあるが、それでも過疎の電車の一つであることに代わりはない。そんな電車の駅で働くのも、また寂しいなと由紀子はたまに思う時があった。
「まもなく、一番ホームに、岳南江尾行きが到着致します。危ないですから、黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい。」
由紀子は、そうアナウンスした。大体のお客さんには、そうアナウンスすれば、通じるものでもあるのだが、由紀子のアナウンスに従ってくれない女性がいた。多分、日本語のちゃんとわかっていない外国人とかそういう人たちだろう。鉄道会社によっては、注意喚起を英語でするように呼びかけている会社もあるようであるが、由紀子たちの岳南鉄道では、そのようなことは知らせれていなかった。
「黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい。」
そう言うが、女性は動こうとしない。それどころか、富士山の撮影に夢中になっているようである。
「あの、そこの青い服を着たかた、黄色い線の内側までお下がりください。」
と、由紀子はその女性に話しかけてみたけれど、女性は、それを無視して写真をとり続ける。
「あの、すみません!」
由紀子がそう言うと、女性はなにかわからない言葉でなにか言って、由紀子をやっと見てくれたのであった。その顔を見て、由紀子は、あることに気がついた。
「あの時と同じ!」
思わず言ってしまう。あのとき、竹箒の使い方がわからなくて、ぽかんとしていたマリーさんとこの女性も同じ顔をしているのだ。由紀子は二度も同じ顔をされたということはなにか意味があるのだろうなと思った。それと同時に、黄色い線の内側まで下がってもらわないと行けないことを伝えなければ行けないと由紀子は、使命感を感じた。
また女性が、分からない言葉でなにか言った。由紀子は、多分、一体何の事とかそういうことを言っているんだろうと、直感でわかった。改めてもう一度、
「黄色い線の内側へお下がりください。」
と言ってみるけど、繋がらないし、それを代替する言語も無いんだと言うことを、由紀子は思い出した。なので由紀子は女性の手を取って、
「黄色い線の内側までお下がりください。」
同じことをもう一回言って、女性を、黄色い点字ブロックの内側へ下がらせた。それと同時に、岳南鉄道の赤い電車が、由紀子たちの前に到着する。由紀子は、指定位置には戻らずに、
「吉原、よしわらです。お降りの方は、お忘れ物、落とし物はなさらないようにお降りください。この電車は折り返し、岳南江尾行となります。ご注意ください。」
と言った。一方で、由紀子が無理やり点字ブロックから下がらせた女性は、自分が何をされたのか分からないという感じだったのだろう。また分からない言語で、由紀子になにか聞いてきたのであるが、由紀子もその言語では、何を言っているのか理解できなかったから、取り合えず自分の言いたいことを一番に伝えようと思って、
「電車が、到着するときは、衝突の危険がありますので、こちらにあります黄色い点字ブロックの内側まで下がってもらいたかったのです!」
とだけ女性に言った。女性は、由紀子が何を言っているのか、理解できない様子であったが、由紀子は何度も黄色い点字ブロックと、電車が、眼の前に止まっているのを指さして、危ないんだと言うことを示した。その態度と顔の表情で女性はやっとわかってくれたらしい。由紀子に頭を下げて、すぐに目の前に止まっている岳南鉄道の電車に乗り込んで行った。特に忘れ物も、落とし物もしていなかった。岳南鉄道は、折り返し運転が多いので、長時間吉原駅のホームに止まっていることが多いのであるが、由紀子は、それが好都合だと思った。
「一番ホームから、各駅停車、岳南江尾行きが発車致します。ご利用のお客様は、ご乗車のままお待ち下さい。」
由紀子はそうお決まりの挨拶をして、発車ベルの音を聞いた。由紀子にしてみれば、先程の女性から、お礼の一言くらいいただきたかったが、それはできなそうだった。女性は、そのような行為は全くしないで、電車の座席に座っていたままだった。そして、発車時刻になり、電車は、由紀子をおいて、また岳南江尾に向かって走り去って行った。ホームから人が消えてしまったあとというのは、なんだかちょっと悲しいというか寂しくなるものである。由紀子もなんだかそんな気持ちにさせられてしまった。
そういうことが由紀子のしごとであった。もう当たり前のようにしている駅員のしごと。それが終わると、由紀子は、ポンコツの車を走らせて自宅へ帰った。どうせ自宅へ帰っても、ただいまという相手もいないし、ペットも居るわけではないから、自分ひとりだけの世界だった。とりあえず、コンビニで買ってきた弁当を食べて、今日あったことをぼんやりと思い出してみる。あのときの、黄色い線の内側まで下がってお待ち下さいが通じなかったおばさんは、どうしているだろうか。ちゃんと目的の駅にはついたのか。もしかしたら車内アナウンスもちゃんと聞けなくて、変なところへ行ってしまったかもしれない。あるいは、目的の駅だけ、単語を覚えるみたいに、覚えていたのかもしれない。それか、他の乗客や、電車の車掌さんに聞いたかもしれない。いずれにしても、相当な苦労があったと思われる。だって、それさえ通じなかったんだから。岳南鉄道は無人駅が多いが、分かる人は問題なく利用できるけれど、そうではない人であれば全く利用できないのが、現状なのかもしれなかった。
そんな岳南鉄道の駅員として、由紀子は仕事をしているが、なんだかあのおばさんに対して、自分はちゃんとやれたのだろうかとおもった。あのおばさんだって、ちゃんと目的の駅があったはずだ。ちゃんと、駅に行きたいということで目的があって電車に乗ったに違いない。そういうことなら、由紀子がもう少ししっかり説明しても良かったかもしれない。
「それではあの人、乗れなかったのかな?私がちゃんと説明していれば。」
由紀子は思わず言ってしまった。
「そうなんだよね。あたし、なんか感情的になりすぎてしまったかな。」
思わずそういうことも言ってしまう。変な勘違いをしてしまう人が多いが、教えるのに感情的になってはいけない。教えるというのと感情をぶつけるというのはまた桁が違いすぎる。
由紀子は、そのおばさんのことをもう一度考えてみた。おばさんは、何がなんだかわからない言語を喋っていた。だからこそ由紀子は苛立ってしまったのだけど、それでも電車に乗りたいと言う意志はあった。もちろん、人間だから完璧に何でもできるわけじゃないけど、由紀子が教えてあげさえすれば、あのおばさんも、黄色い線の内側まで下がることもできただろうし、目的地まで電車でいくこともできたはずだ。だから、それを手伝ってやることも自分の大事な仕事ではないか。
「それでは私、大変な事をしてしまったわ。」
由紀子は、申し訳ない気持ちになって、大きなため息をついた。今更やり直せることでも無いけど、でも、そういう切ないことって、世の中には結構あるのかもしれない。
不意に、あの女性のことを思い出した。由紀子は、毛嫌いしていたけれど、都筑マリーさんという、あの女性だ。あの女性は決して、日本文化をバカにしているわけでも無いし、日本を嫌っているというわけでもない。だけど、唐辛子で辛く味付けしてしまったり、竹箒やちりとりの使い方を知らないというのも事実である。それは、たしかに有害かもしれないけれど、彼女は一生懸命やろうとしてくれたのだから、それは忘れないで、評価してやるべきところだった。それなのに自分と来たら、マリーさんに感情をぶつけて怒鳴ってしまった。そんなんでは、日本人は怖いという意識を彼女に植え付けてしまうかもしれない。彼女は、竹箒の使い方は知らない。これは事実であるのだし、事実は、杉ちゃん流に考えれば、ただあるだけで、有害でも無害でもない。それをどうするか考えるのに、個人の意志が入るからややこしくるけど、それを、抜いて考えることができれば、またとない幸せな世界が築けるのかもしれない。
「そうね。伝えていかなくちゃね。」
由紀子は、改めてそう思った。
そして、駅員の仕事が次の休みの日。由紀子はまた製鉄所に行った。相変わらず、水穂さんは寝たり起きたりしているようであるが、なかなか食事もしてくれず、改善されないという。一方でマリーさんの方は、一生懸命竹箒で中庭を掃除していた。もちろんまだ、竹箒になれてないから、その動かし方はぎこちなかった。だけど由紀子は、それを今度は、責めないであげようと思った。
「マリーさん。」
由紀子は、彼女に声をかけた。マリーさんは竹箒を動かす手を止めて、
「ああ、由紀子さん。アッサラーム・アライクムじゃなくて、こんにちはでしたよね。」
と、外国人特有の挨拶をした。ちなみにアッサラーム・アライクムという言葉は、あなたに平和がありますように、という意味だそうである。戦闘ばかりの外国では、それが挨拶になるのかと思うけど、それが同時に竹箒を使いこなせない理由でもあるのかなと由紀子は思った。マリーさんが竹箒を使いこなせるようになってくれると言うのが、もしかしたら、彼女に平和が訪れるという意味のことになるのかもしれないと思った。
「マリーさん、ケーキ買ってきた。終わったら、一緒に食べようね。」
とりあえずそれだけ言っておく。
「ありがとうございます。」
マリーさんは、軽く頭を下げて、また庭掃除を始めた。確かに、つかえないメイドさんではあるのかもしれないが、それでも、機械と違ってつかえないままでいることが無いことも、由紀子は知っていた。だから、彼女が、竹箒を使いこなせるようになるまで、もう少し待ってあげようと言う気持ちに始めてなれたのだった。
外は穏やかに晴れていた。もうだいぶ暖かくなって、春が近いことを予見される気候であった。
竹箒 増田朋美 @masubuchi4996
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