第三章

 スマートフォンの液晶画面いっぱいに、アスファルトに正座した男が映し出されている。その男は右の頬を手で抑えていた。下着まで全て取り払った姿で、深く俯いていた。

「こっちは出るとこ出てもいいんだぞ。被害者が示談にしてやるって言ってんだから感謝しろよ。五十で手を打ってやる」スピーカーから悠雅の声が聞こえる。

「強姦の示談金の相場は二百万くらいだから、あんたにとっちゃ、お値打ちだろうが」画面に悠雅の筋骨隆々とした二の腕が映り込んだ。その手は男の髪を鷲づかみにした。「何年も塀の中で暮らしたくないよな?土下座して謝罪の言葉でも述べてみろよ」悠雅は鼻がくっつきそうなほどに顔を近づけて客の男を睨めつけた。

「申し訳ありませんでした!どうか、警察沙汰は勘弁してください……」男は俯き肩を震わせている。両膝に手を当て、濡れたアスファルトに付いてしまいそうなほどに深々と頭を下げた。

「おいおっさん、土下座ってのは、アタマ地面に付けるんだよ」悠雅が男の後頭部を踏みつけた。

 男はギャっと声をあげ、踏みつけられた衝撃で額を割った。裂けた傷口から鮮血が流れた。血は頬をつたい顎にしたたり、一滴ずつぽつりぽつりとアスファルトの水たまりに滲んだ。

 

 悠雅から送られてきた動画をそこまで視聴すると、スマートフォンをテーブルの上に投げ置いた。短く溜め息をつき、目を閉じて眉間を指先で押さえた。

 高杉は自宅マンションのソファで仰向けになっていた。テーブルの上のスマートフォンの傍らには封筒が置かれている。中には万札が十枚入っている。あの日、客の男から脅し取った金を三人で分け合ったうちの高杉の取り分である。

 風俗店での本番行為はルール違反なわけだから、違反した客を多少痛い目に合わせて金を巻き上げようと別に構わないと高杉は考える。数年に及ぶ夜の業界での生活で、彼の規範意識は一般社会のそれとは一線を画す程度には鈍麻していた。

 だが、あくまで店の存続に影響しない方法を採るべきだ。人目につかぬように違反した不届き者を事務所まで連行し、慰謝料という形で正式に念書を書かせて取り立てるべきなのだ。

 なぜか悠雅はそういった手続きを好まない。本番行為の揉め事が起こるたびに路上で相手を待ち伏せ、その場で激しい折檻を加えて金品を強奪するというのが彼の常套的な手法だ。

 とにかく、悠雅のこのやり方を続けさせると、いずれこの店は警察に目をつけられるだろう。そう考えると高杉は焦りを感じ、眉間の奥が鈍く痛むのだった。

 

 高杉と中島悠雅の出会いは博多行き最終電車に揺られているときだった。大学を卒業して以来三年ぶりに学生時代の友人達と会い、酒を飲んだ。その帰りだった。

 平日とはいえ、終電はやや混み合っている。吊り革を掴み、暗い窓に反射して映る車内の様子をぼんやりと眺めていた。

 目的の駅まであと二駅というところ、彼は視界の右端に違和感を感じた。奥の座席にデニムのミニスカートを履いた学生風の女が一人で座っている。そのすぐ隣に座っている男が、女の太腿に手を乗せていた。よく見ると、耳元で何やらしきりに話しかけているようだった。彼女は顔を背け、太腿に乗せられた手を肘で突き返そうとしていた。

 高杉はその一部始終を目撃していたのだが、助けに入ろうとは考えなかった。周りの乗客も、事態に気付いていないはずはないのだが、制止する者は誰一人としていなかった。

 その男は座席に腰かけた状態でも明らかな程にかなりの長身だった。さらにTシャツの肩口から手首まで刺青が施された二の腕は、高杉の腕回りの倍はあろうかという屈強さだ。

 男は拒絶されると、なおも行為をエスカレートさせ、ミニスカートの中に手を入れ始めた。そのとき、女の耳元で、また何かを囁いた。彼女は表情をこわばらせ、抵抗することをやめた。車内にピンと緊張が張りつめた。

 卑劣な犯罪の餌食になっている被害者を目の前にして、何一つ手を差し伸べようとしない自分を内心恥じた。しかし、この手合いの男を相手に無謀に立ち向かう事がどういう結果を生むか、彼はこれまでの経験で痛いほど身に染みていた。

 他の乗客と同様に、無関係を決め込むことにした。そこから目を逸らし、再び地下鉄車両の暗い窓に視線を戻した。その時、窓に映る一人の男が視界に入った。それが、高杉が中島悠雅を初めて目にした瞬間だった。

 悠雅は刺青の男の斜向かいの席に座っていた。その位置からは、男の痴漢行為がはっきりと見通せるはずだ。悠雅の屈強な体躯は刺青の男とほぼ互角のようにみえた。

 しかし、彼もまた見て見ぬふりで、助けに入る様子はなかった。他の乗客と同様にスマートフォンの画面を眺めていて、時折り顔を上げて男の犯行に視線を注ぐだけだった。

 それから数分が過ぎ、電車が博多駅のホームに到着した。その間も痴漢行為が継続されていたのかどうか、そこから目を逸らし続けていた高杉は知らない。ドアが開くと、乗客が一気にホームへと流れ出た。

 乗客の流れにしたがい、改札へと歩を進めた。その途中で、「おい姉ちゃん、ちょっと待て」と叫ぶ声がした。声の聞こえた方に視線を向けると、どうやら悠雅が発したもののようだ。彼の左手は刺青の男の腰あたりに回されていた。よく見ると、男の腰のベルトをがっちりと掴んでいる。

 高杉は人混みに紛れて彼らのいる場所に近づいて行った。スマートフォンの画面を男に示しながら悠雅が何かを言っている。女は一刻も早くその場を立ち去りたい様子を見せていたが、立ち止められ、居心地が悪そうにその場に佇んでいた。

 突如、刺青の男は、掴んでいる悠雅の手首を何か黒い棒状のもので叩いた。悠雅は、ぐあっ、と声を上げて手を離した。その隙に男は、素早く悠雅のスマートフォンをもぎ取って走り出し、ホームの階段を駆け上がった。悠雅は苦悶の表情を浮かべて強く舌打ちをした。そして、左手首を抑えながら男が逃げた方向へ走り出した。

 高杉も反射的に二人の後を追った。地上へ出るとすぐに、悠雅の広い背中が目に入った。走りながら、なぜ彼らを追っているのか自分でもわからなかった。

 夜道を疾走する二人の大男に、通行人が驚き振り返る。その後を追いながら、彼らの後方で息を切らしている自分が滑稽に思えた。

 刺青の男が大博通り沿いのオフィスビルから左の脇道へ駆け込んだのが見えた。二人の姿が視界から消えると同時に、何かがぶつかる音と怒号が聞こえた。

 高杉は足を止め、建物の影から様子を窺った。オフィスビルのゴミ集積所の前で悠雅が馬乗りになり、男の顔面を両拳で乱打していた。その横顔は激昂している様子でもなく、少し笑っているようにも見えた。

 遠くでカップルらしき二人組が立ち止まってこちらに顔を向けていた。男は既に失神してしまっているようで、両脚がピンと伸び、殴られるがままになっている。

 高杉は、おそるおそる彼に近づいた。「なあ、もういいだろ。そいつ死んじまうぞ」声をかけつつも、いつでも後ろへ駆け出す心づもりでいた。

 悠雅は男に覆い被さったまま、こちらにゆっくりと目を向けた。「なんだてめぇ、なんか文句でもあんのかよ」怒気を含んだ声でそう言うと、殴る手を止めて立ち上がった。

 高杉は、はっと身構えた。固く拳を握り締めて相手を見据えた。好奇心でトラブルに首を突っ込んでしまった事を今さらながら後悔した。握り締めた手に汗が滲んだ。

 こちらに殴りかかって来るかと思いきや、悠雅は乱雑に男の腕を引いてうつ伏せにさせ、尻ポケットの当たりに手を伸ばした。そこから財布を抜き取ると、紙幣を数枚引き抜いて街灯の下に照らした。

「なんだよ、こんだけかよ。シケてんなこのオッサン」独り言のように呟いた後、彼は高杉の方へ振り返った。「お前、さっき駅のホームにいたよな。こいつの仲間か?」三白眼でこちらを睨んできた。

「ち、違う」

「じゃあ何でわざわざ追ってきた」

「さっき電車の中でそいつが痴漢しているところを偶然見たんだ。そしたらあんたがホームでそいつを問い詰めてたから、それで何となく気になって追いかけてきた」

 我ながら支離滅裂な説明だなと思った。だがなぜか先程よりも悠雅の表情はいくぶん和らいだように見えた。

「こいつが痴漢してるとこスマホで撮ってたんだよ。警察チラつかせて金脅し取ってやるつもりだったんだけど、ついやり過ぎちまった」男の脇腹あたりをつま先で小突きながら彼は苦笑した。

 直感的に、この男を味方に引き入れたいと思った。「そんな危ない稼ぎ方より、もっとあんたに向いてる商売があるぜ」そう言って名刺を出した。彼はそれをつまみ取り、高杉の顔と交互に見比べた。何か言いたげな表情に見えたが、結局なにも言葉を発さぬまま、彼はその場を去っていった。

 一週間も経たぬうちに悠雅から連絡があった。事務所近くの喫茶店で落ち合った。直接事務所に招かなかったのは、まだ得体の知れない人物に正確な場所を知られるわけには行かないからだ。

 悠雅は当時無職だった。繁華街で見かけた喧嘩の仲裁に無理矢理入って示談屋まがいに金を撒きあげたり、特定の住居もなく女のヒモのような生活をしていた。

 彼は二十歳のときに起こした傷害事件で服役し、出所後は保護司の斡旋で一時は解体業の会社に勤めていたそうだが、同僚への暴力沙汰で馘首されたという。

 仮釈放中の暴行事件が警察沙汰にならず内々に処理された理由を問うと「上司の、ある弱みを握ってたからな」と片頬を吊り上げて笑った。

 高杉は悠雅のそういう鮮やかなまでの残忍性に魅かれた。それは痴漢の犯人を路上で叩きのめす姿を見たときにも感じたことだった。その特異な感情は憧れにも近いものだったかもしれない。

 その日から悠雅は、高杉の経営する派遣型風俗店「ロイヤルエックス」の一員となった。


 

 




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る