第二章

 終了時刻の十分前を報せるけたたましい音が車内に鳴り響いた。高杉隼平は仰向けのまま、スマートフォンを操作してアラームを解除した。眠い目を擦りながら運転席のシートを起こし、ペットボトルのミネラルウォーターを乾いた喉に一気に流し込んだ。時刻を確認した後、着信履歴から「カレン」を呼び出した。

「カレンちゃんお疲れさま。十分前です」

 耳にあてたスマートフォンから微かな咳払いが聞こえる。小さく、はぁい、と反応があった。

「忘れ物しないようにね。出口近くで待機しとくから」そう伝えると、返答なく電話は切られた。

 直後にスマートフォンにメッセージが届いた。カレンからだ。そこには『やられた』と一言のみ記されていた。

 高杉はチッと一つ舌打ちをしてスマートフォンを助手席に放り投げた。すぐに車をコンビニの駐車場から発進させた。

 カレンが身支度を済ませて、ホテルを出るまでに二十分程度の時間を要するだろう。それまでに部屋に直接乗り込もうか、それとも客がホテルを出たところで、声をかけるべきか。だが路上では取り逃がす可能性もある。

 部屋に乗り込んだ方が確実だが、なるべく事を大きくさせたくはなかった。騒ぎを聞きつけたホテルの従業員に咎められるかもしれないし、下手をすると警察沙汰にもなりかねない。彼のような商売をしている者にとっては、たとえ客側に非がある場合でも、警察の厄介になることはなるべく避けなければならないのだ。

 思案の末、今回もあいつに頼らざるを得ないという結論に至った。信号に引っかかるとすぐに、助手席のスマートフォンをつかんだ。

「お疲れさん。今大丈夫か?」少し遠慮がちに尋ねた。「今泉のホテルで本強があったんだけど、手が空いてたら来てくれないか」

 電話の向こうでガサゴソといった雑音が聞こえたあと「ああ、すぐ行けるぞ。どこのホテルだ」電話の相手はふっと鼻を鳴らして答えた。口元の端を吊り上げたようなにやけ面が脳裏に浮かんだ。

「ホテル・ルージュだ。今泉公園の脇道にある。今から二十分後に落ち合おう」青に変わった信号を通過しながら電話を切ろうとした。

 その前に彼はぬかりなく訊いてきた「今日も俺が五割もらっていいよな」

 中島悠雅——。なにごとも大雑把なやつだが、こと金銭が絡むと抜け目がない。小さく溜め息をつき、わかった、と答えた。

 

 今泉のラブホテル街に建つ「ホテル・ルージュ」の前に到着した。時刻を確認すると、カレンが出て来るまでに、まだ少し時間に余裕がありそうだ。

 ハンドルを右に切り、ホテル真向かいの4台ほど停められる小さいコインパーキングに入った。そこから様子をうかがうことにした。

 このあたりのホテル街は九州一の繁華街である天神に隣接している。今のような深夜近い時間帯でも駅に向かう人々の往来はそこそこある。休憩と宿泊の料金が書かれた蛍光看板が、雨上がりの水たまりを照らしている。人が行き交うたびにネオンを反射した水面が波を打つ。

 カレンは客と一緒に降りてくるだろうか。客の男は本番行為をやってしまった手前、後ろめたさからしばらく時間を空けて出てくるかもしれない。デリヘルの送迎スタッフと鉢合わせることを恐れるはずだ。

 カレンが先に姿をみせたら、助手席に座らせて客の男の面割りをさせる。確認でき次第、悠雅と二人で男を確保して後部座席に押し込む。今いるコインパーキングでは人目に付きやすい。「交渉」は事務所まで移動してからにするべきだろう。移動中は後部座席で悠雅一人が男を取り押さえる事になるが、二メートル近い長身で、しかも格闘技経験もある彼ならば、心配には及ばないだろう。

 助手席側の窓がノックされた。顔を上げると、悠雅が腰を屈めて車内を覗き込んでいた。高杉は後部座席を親指で差して悠雅を車に乗せた。

「ずいぶん早かったな。今日は真面目に出て来てたみたいだな」

「ああ、これでも最近は目ぼしい女の連絡先ゲットしまくってんだぜ。それより、今日はどの子が本強されたんだ?」

「カレンだ。十分前コールの後、メッセージで知らせてきた」

「またカレンちゃんか。今回で三度目だな」悠雅は、にやりと笑い、あごを撫でた。

「ああ、今日の客は割とうちを使ってくれてたんだけどな。まあ仕方ないか」高杉はフロントガラスの向こうに目を向けたまま渋面を作った。「あと数分で降りてくるはずだ。そいつを事務所まで拉致るつもりだから、ホテルから出てきたら後部座席に押し込んでくれ」

 それから間もなくして、ホテル出口にカレンが現れた。身体のラインがくっきりと浮き出るニットのワンピース姿で、仕事用の手提げ鞄を両手で前に持っている。足早に道路を横ぎり、こちらに近づいて来た。彼女は勝手知ったるといった様子で素早く助手席のドアを開けて乗り込むと、高杉たちが事情を訊ねるのに先んじて事の顛末を早口で語り始めた。

「アタシはいやだってちゃんと言ったんだけどね。あのお客さんがしつこくて。お店に電話しますよって言ってもやめてくれなかったの」

 高杉はまじまじと彼女の目を見つめて訊ねた。「今日の客って、カレンを何度か指名してるよな。これまでは本番行為は求められなかったのか?」

 カレンは一瞬、逡巡した様子を見せた。「今までもあったけど、今日はなんかしたくなかったの。ていうかデリヘルって本番禁止でしょ。お店の方から注意してよね」咎められたと思ったのか、ふてくされたように答えた。

 過去二回の成功体験に味を占めたのだろう、カレンは今回も臨時収入を期待しているようだ。彼女はかつて個人的に追加料金をとって客と本番行為をしていた。しかし最近ではもっと旨みのある方法を覚えたのだった。

 高杉は、悠雅が考案したこの手法はいい稼ぎになると思いつつも、万が一摘発された場合の事を恐れている。特に彼の度が過ぎるやり方には毎度肝を冷やす。

「あっ、あいつだよ」カレンがラブホテルの出口を指さした。彼女が示した方向に視線を向けると、スーツ姿の男が俯き加減に歩き去って行くところだった。

「駅と逆の方に行ったな。ちゃんと顔は見えたか?」

「間違いないよ」

「悠雅、さっき言ったとおりな。あんまり手荒にはするなよ」

「はいよ」悠雅は後部座席から素早く降りると、足早に男の後を追った。

「お前はここで待っててくれ。すぐ戻る」カレンに言い残すと、高杉は急ぎ悠雅の背中に続いた。

 

 男はホテル街の通りを突き抜け、せまい路地を右に折れた。辺りは薄暗い。彼は後方に特に注意を払ってはいないようだった。尾行に気づかれていない。高杉と悠雅は歩を速めて男に近づいた。

「こんばんは、ちょっといいですか」高杉が声をかけた。

 男はびくっと肩を上下させると同時に弾かれたように振り返った。

「な、なんですか?」

「少しお話を聞かせてもらいたいんですが」

「話って、何の話ですか……おたく達どちらさん?」

「ご主人、さっきそこのラブホテルから出て来ましたね?」

「……それがどうしたって言うんですか?あんたに何か関係あんの?」

「女性から被害にあったと相談されました。向こうに車をとめてるので一緒に来てください」

「警察の人ですか?」男の顔が歪んだ。

「馬鹿か、こんなロン毛の警官がいるかよ」悠雅が高杉の肩まで伸びた黒髪を顎でしゃくり、鼻で笑った。

「あんたが利用した風俗店の者ですよ。女の子から、被害に遭ったという話を訊いてます。お客さん、うちのキャストに本番行為を強要したでしょう」

 警察ではないと分かって、男はひとまず安堵したような表情を作った。

「ああ、なんだ店の人か。被害に遭ったって、あれは合意だよ」

 彼は余裕を取り戻したように口元に下卑た笑みを浮かべて、さらにこう続けた。「前に指名したときなんて料金にプラスでお小遣いくれたら挿れていいよって、向こうから誘って来たくらいだからね」

 男が言い終わるやいなや、悠雅が一歩近づき目を剥いて男の襟首を掴んだ。「じゃあてめえ、今日はそのお小遣いってやつは払ったのかよ。払ってねえよな?だったら合意じゃねえよ、強制だ。強制性行罪。ブタ箱ぶちこまれてえのか」

 男は悠雅の手首を掴み、身をよじって逃れようとするが適わなかった。「あ、あんたこそ人の胸ぐらつかんで、立派な犯罪じゃないか。警察に通報するぞ」

 男の目は、みるみるうちに怯えの色をおびていった。

「通報してみろよ強姦野郎。なめてんのかお前」未来は男の溝落ち辺りに拳を叩き込んだ。「女が証言したら、お前務所行きだよ?ホテルの部屋での音声も録音してあるからな。全部バレてんだよ」

 男は呻き声を漏らしながら、地面に膝を着いた。

「おい、あんまりやり過ぎるな。あとあと面倒だ」高杉が悠雅の腕をつかみ、たしなめるように言った。

「反省してないみたいだから、分からせてやらないと」言葉とは裏腹に、彼の口元は酷薄そうな笑みをたたえている。こういうときに垣間見える彼の表情に高杉は怖気をふるう。

「いいから、とにかく車に乗せるぞ」

「何かまどろっこしくないか?手っ取り早くここで済ませようぜ」

 男は下腹部を押さえ、全身をがたがたと小刻みに震わせている。

 悠雅は彼の髪を鷲づかみにし、ポケットのスマートフォンを取り出して、耳元で囁いた。「全部脱いで、土下座してくれ」


 高杉はコンビニエンスストアに駐車してカレンと二人で待機していた。しばらくすると、男が悠雅に引っ張られるようにして連れて来られた。下ろしたばかりの札束を握りしめて、怯えとも怒りともとれる表情で口元を戦慄かせている。

 悠雅はそれをひったくると、そのうちの半分を数えて懐に入れ、残りを高杉に渡した。改めると、一万円札が二十五枚。コンビニで出金できる限度額を払わせたわけだ。

「なあおっさん、こんなチンケな額で済んでよかったじゃねえか。示談にしなかったら逮捕やら裁判やらで職も家族も失うとこだったぞ」男の肩をぽんぽんと叩き、悠雅が笑った。

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