女衒屋彷徨録

絢絢

第一章

 その男は公園脇のフェンスにもたれかかり、だらりと頭を垂れて座り込んでいた。彼の様子を気にかけ始めたときから既に十数分は経過しただろう。中洲の歓楽街にほど近いこの辺りでも、狭い路地に入ると街灯もまばらで夜は薄暗い。

 遠目から男の年齢などはよく判別できなかったが、髪型や体型から初老だろうと見当をつけた。傍らにビジネスバッグが置かれ、黒っぽいスーツを着用しているところを見ると、おおかた会社帰りに飲み過ぎた中年のサラリーマンが酔い潰れて寝入ってしまったのだろうと推測した。

 高杉隼平たかすぎしゅんぺいは飲み干した缶コーヒーを握り潰して足元に放り捨てた。三月の夜気やきは肌寒く、時折り皮膚を刺すような冷たい風が吹く。頭の後ろで両手を組み、まだ三分咲きほどの桜を見上げながら暇を持て余していた。古びた街灯の暗い光に照らされた花びらが小刻みに揺れている。

 スマートフォンの液晶に触れて時刻を確認した。予定時刻まではまだかなり余裕がある。さて、どうやって時間を潰すかなとぼんやり考えていると、手の甲に冷たい雨粒の感触がした。高杉は小さく舌打ちをしてベンチから腰を上げた。

 ふと視線を男に戻した。相変わらず男は先刻の態勢のまま座り込んだままだ。頭の位置も脚や腕の曲がる角度も、はじめに見たときから一切の変化がないようにみえる。

 放っておくつもりだったのだが、高杉はおそるおそる男のそばへ近づいてみた。

 目の前に立っても、彼が目を覚ましそうな様子はなかった。伸び放題の雑草が生い茂る中、寝息一つたてずに微動だにしない。突き出た腹に寄りかかったビジネスバッグのファスナーが僅かに開いている。中が少し見えた。

「おい、大丈夫か?」男に声をかけた。だが返事はない。肩を軽く揺すってみた。しかし、それでも眼を覚ます気配はなかった。

 高杉は周囲の様子を窺いながら、おそるおそるビジネスバッグに手をかけた。ゆっくりとファスナーを開けた。

 手を突っ込んで中身を物色した。冷たい革の感触がした。引っ張り出してみると、黒いレザーの長財布だった。注意深く男に視線を配りながら財布を開いた。中には紙幣がぎっしりと詰まっていて、カード類が数枚入っていた。握った手が少し震えた。

 札入れの横のポケットも開いてみた。写真が二枚収められている。引き抜いて、スマートフォンの明かりを当てた。高校生くらいの少女だった。茶色みがかった大きな瞳が印象的な美人だ。右の瞳が少し内斜視気味なことに気がついたが、一見欠点とも思えるその特徴が、彼女の魅力を一層際立たせているようにも感じられた。

 もう一枚には四人の人物が写っていた。少女は制服姿で、中年男性はスーツを着ていた。その隣に黒い半ズボンを履き蝶ネクタイをした仏頂面の少年とその母親らしき女性。写真館で撮影された家族写真のようだ。目の前で寝ている男と見比べると、写真の方が若く見えた。数年前に撮られたものだろう。

 高杉は写真を財布に戻し、札束を引き抜こうとした。多少の躊躇ちゅうちょと良心の呵責かしゃくを感じなくはなかったが、彼を思い止まらせるほどのものではなかった。知ったことか。大金を持ち歩いて一人酔い潰れる方に落ち度があるんだ。無理にもそう解釈する事にした。

 立ち去り際に高杉は男の顔を横目で見た。周囲の暗さにだいぶ目が慣れてきていたのか、あることに気がついた。思わず彼はその目を見開いた。

 男の後頭部づたいに、もたれかかったフェンスの下部にかけて赤黒い何かがべったりと付着していた。

 心臓が一つ、大きく跳ねた。まずいことになった。早く救急車を——。

 そう思うと同時に指に触れる紙幣の感触を思い出した。急いで金を戻そうと焦った。

 その時、茂みの向こうで何かが動いたのを視界の端にとらえた。とっさにその方向を凝視した。額にあぶら汗が滲んだ。黒い影がこちらをじっと覗っているように見える。

 誰かがそこにいる。いつからみられていたのだろう。その影が徐々にこちらに近づいてくる。「誰だ」と声を張り上げた。張り上げたつもりだったが辺りに響いたのは弱々しく掠れた声だった。高杉は目をしばたたかせ影の方を睨みつつゆっくり後ずさりした。

 そして瞬時に踵を返し、一気にその場を駆け出した。一度も振り返らずに走った。男の財布を握りしめたままであることには途中で気がついた。雨はいつのまにか本降りになっていた。

 夢中で走りながら、見慣れたはずの中洲の街並みが、まったく知らない街の風景に思えた。

 

 

 

 

 

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