第2話
思えばこの十年という歳月は、長くて短いものだった。
記念すべき十年前の今日、ランク外を詰め込んだ輸送クラフトに揺られ、私はこの忌まわしきドームへと連れてこられた。
その時私の心を満たしていたものは、絶望と恐怖、そして怠慢な諦め。それこそ、処刑場へと向かう死刑囚の気分に近かったかもしれない。
もしソフィーという一人の女性に会わなければ、私は一体ここでどんな一生を終えていただろう。
けれど私は、運命に導かれて彼女と会った。私にとって彼女は、変革をもたらす存在であり、新しい自己へと到達する為の案内者でもあったのだ。
故に私達の出会いは、魂に刻まれた誓いであったのかもしれない。
私が初めて彼女に会った場所は、サクヤエリアの塀の外だった。シティーと呼ばれる都市部どころか、塀の中にさえ入れない人間。そうしたIDを持たぬ貧民達が集団で生活している区域を、塀の中の人間はエリアのごみ捨て場ごと、「ダスト」と呼んでいた。
つまり、貧民ごと、エリアのゴミという訳だ。
何故私達が塀の外の人間になったのか、多分そこに住む者達の殆どは知らないだろう。私も、まったくといっていいほど知っていなかった。
知っていたのは、貧困と死への恐怖。醜いまでもの生に対する執着と、その為のあくどい手段だけであった。
奪い合いは果てしなく続き、自分達より弱い者からは、奪えるだけ奪おうとする。自分より強い相手には卑屈になり、鼠のように逃げ回るか呆れるほどの要領の良さで取り入ろうとする。
それがダストの人間達であり、私の生き方でもあった。
あんな事があるまで、私は自分の人生に一片の疑問さえ持っていなかった。
何故なら、ダストでは今を生きる事だけで精一杯だったから。余計な事を考えていられるほど、私達には余裕がなかったのだ。
ランク制度なんて関係ない。私達にとって塀の中の人間は、みんな汚いくそ野郎共だった。そのくそ野郎共から奪えるだけ奪う事が、私達の一番の望みであったのだ。
ダストの連中がクラフトを襲うなんて事もよくある話しだ。だから何時もならその日のことも、ごく些細な日常的な出来事の一つで終わっていたかもしれなかった。
ソフィーにさえ、会わなければ…………。
その日私は、先日仲間と襲った輸送クラフトの品物がよかったおかげで、多少懐があったかくなっていた。それで、コレクションである鉄ボルトを探しに、スラムの外れにある市場へと出かけてみる事にしたのだ。
市場と言っても、品物があふれている訳ではない。汚いぼろぎれを纏った男達が、あちこちにござを広げ、なんだか分からないような部品や缶詰を僅かに並べているだけの代物だ。
そこでは、塀の中で使われているキャッシュカードはほとんど使われておらず、専ら物々交換と言う原始的な方法で取引きされていた。
しかし、残念ながら私が探していた三センチのボルトは見つからなかった。諦めて帰ろうかと思った時、私のすぐ側を男達の集団が慌ただしく駆け抜けていった。
喧嘩だな。彼らの興奮した様子から、すぐにピンと来た。
ダストでは、喧嘩も多い。時には、殺し合いの喧嘩に発展する場合も合った。
だが、ダストにはダストのルールがある。自分勝手に喧嘩をやられては、ちょっとばかり困るのだ。
喧嘩は、ダストで一番の娯楽だ。だから、このダストのボスであるギイチは、誰も賭けないような詰まらない喧嘩を認めてはいなかった。
喧嘩がどの程度のものか確認する為、私は男達が流れる方向へ向かおうとした。が、足を踏み出した瞬間、後ろから野太い声に呼び止められる。
「よう、アサヒじゃねぇか」
私は足を止め、振り返って声の主を探した。
きょろきょろと市場を見回すと、男がにやにや笑いながら手を振っている。どうやらそれは、市場で店を出していた者の一人、ゲンジのようだった。
ぼろぼろの古着を纏う、顔中髭もじゃの男だ。普段なら、市場なんかで店を出すような男ではない。
器用な彼は、偽造IDなどを作ってそれを商品にしているのだ。それさえあれば、数時間だけ塀の中に入る事が出来る。危険も大きいが、それでもダストでは手に入らないものが盗めるので、持ち物全部と引き換えにIDを手に入れようとする輩も多いようだった。
ゲンジの場合、造るだけではなく、たまに若い連中と混じってクラフトを襲撃したりもする。その後は決まって、市場に店を出すのだ。ゲンジにとってそれは、楽しい娯楽でありストレス発散の方法でもあるようだった。
「よう、ゲンジ。それ、このあいだの仕事で仕入て来た品かい?」
私はゲンジの方に向かいながら、ござに並べられた品物を見てふんと鼻で笑った。
ランクを持っている人間ならば、思わず顔を顰めてしまうようなしゃべり方だ。当時の私は、汚いダスト言葉しか知らなかった。読み書きすら出来ない、ばかな少女だったのだ。
どうにかして生きていく、ただそれだけしか考えていなかった。
「こんな骨董品、誰も買いやしないよ。どうせなら、ボルトくらいかっぱらってくりゃ良かったのに………」
ござの前にしゃがみ、並べてあった鉄屑の中から一際錆だらけの一物を摘み上げて、大袈裟なくらいに顔を顰めてみせる。するとゲンジは、髭面の顔をむっとさせ、私の手から曲がった釘を乱暴に毟り取った。
「仕方ねぇだろ、ヘイタの奴がとっ捕まっちまったんだからよ。あいつがいねぇと、データがとれねぇんだ。だから仕方なく、クラフトを襲撃した訳よ。そりゃしけてるかもしれねぇが、それでも飯が食えるくらいの稼ぎにゃなる」
ゲンジは、大事そうに釘を元の場所へ戻しながら言った。
私はその言葉にふんと鼻を鳴らし、「よっ」と下品な掛け声をかけて立ち上がった。
トビ虫にでもかまれたのか、やたらと背中が痒い。服の中に手を突っ込んで、ぼりぼりとその場所を描いた後、爪に溜まった垢をふっと息で吹き飛ばした。
「輸送クラフトとゴミ回収クラフトを間違えるようじゃ、あんたも先が見えてるな。じじいはさっさと引退して、ダストの為にとっととくたばんな」
「このくそガキ!俺様に向かってそんな偉そうな口を叩いてやがると、犯しちまうぞ!」
卑下た笑みを浮かべ、厭らしい呻き声をあげるゲンジ。私は、げらげらと大口を開けて笑ってから、彼に向かって言った。
「何言ってんだい。ゲンジは女を悦ばす事が出来ないって、専らの噂じゃないか。それともあんた、嘘だって証明してくれるのかい?ただし、その萎びたもんがお立ったなけりゃ、スラム中に言いふらしてやるよ」
「ちっ、さっさと消えな!」
ゲンジは鼻に皺を寄せて怒鳴り、節くれ立った太い指を追い払うように外へ向かって振った。
こんなふうに、言葉やしぐさこそは乱暴だが、それとは裏腹に彼のしらみがかった黒瞳には、決して相手の存在を否定してはいない優しさが伺える。
だから私も、憎まれ口をたたきながらも、このゲンジとは一歩近い距離で話をする事が出来たんだろう。
ダストの人間は、決して誰も信じない。何故なら、裏切られる事は当然の場所だから。生きる為なら仲間どころか家族までも売ってしまう。私も幼い頃からそういう場面を何度も見てきたし、自分自身経験した事もある。
ここは、そういう場所なのだ。
「怒鳴んなくたって、すぐに消えてやらぁ。あんたのむさい顔を拝んでいるより、あっちの喧嘩のほうが面白そうだもんな」
私もやはり本心からではなく、半ばこのやり取りを楽しみながら、ごく軽い調子で行った。
こうやってゲンジと言い合う事は、家族の居ない私にとって、僅かだが心の温まる時間だったのだ。
今思えば不思議な事だが、その日はいやにゲンジと一緒に居たい気分だったのを覚えている。もしかしたら、予感がしていたのかもしれない。
「おうおう、早くいっちまえ」
ゲンジのほうは、別段何時もと変わらない様子で言って、あしらうように手を振ってみせただけだった。
私はにやっと笑い、スラムの奥へ向かって歩き出す。
「おい、本当に喧嘩を見に行くつもりか?そんなら、俺はシロウに錆びていない鉄釘十本賭けるぜ」
背後から、ゲンジの声が追って来た。振り返らずに肩を竦め、そのまま私は真っ直ぐ騒ぎの起こっている方を目指した。
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