6.花に帰す⑥

みなおもてを上げよ」

 カルミアのその一声で、白昼夢は途絶えた。


 人々が押し殺していた息を吐いて動き出すと同時に、リファも現実に引き戻される。ようやく我に返った様子に、ヤナギが安堵のため息を漏らした。


 リファはいつの間にか呼吸を忘れていたこと思い出し、暴れる心音を鎮めるように深呼吸する。それでも、姿なき手で引っぱたかれたような衝撃と動揺はなかなか消えてくれなかった。霞の晴れない頭を押さえる。


 女王カルミアは、真っ直ぐに正面を向いて立っている。その目線は、聴衆を見渡しているのか、虚空の果てを見据みすえているのか分からない。少なくとも、リファの方へは向けられていなかった。


 あのわずかな逢瀬おうせは、錯覚だったのだろうか。

 リファは再び、地面に膝をついた状態からカルミアを見上げた。


 繊細かつ優美な花の刺繍の中にちりばめられた宝石が、日の光にきらめく。透ける薄さのしゃ幾重いくえにも重ねられた衣裳いしょうと相まって、彼女自身が光り輝いているように見えた。

 彼女の周りだけ柔らかな風が吹いているのか、はたまた布の軽さゆえか、純白の衣裳はふわりと空気をはらんで揺れる。まるで白孔雀しろくじゃくの羽をまとっているかのようだ。

 深緑しんりょくがごとき色彩の、つややかでまっすぐな長い髪が無造作むぞうさに垂らされている。所々にあしらわれた金の髪飾りがきらきらと光った。


 あまりにも神々しい出で立ちと佇まいに、人々はまたもや言葉を失った。


 数年に一度、不定期に行われる謁見えっけんの儀――俗に〈顔見せ〉と呼ばれるこの機会においてのみ、民は国長くにおさたるカルミアの姿を拝謁はいえつできる。

 このとき以外、王宮の門は固く閉ざされており、基本的に宮仕みやづかえしている者しか足を踏み入れることは許されない。

 その物珍しさゆえに、王都に住む国民のほぼ全員が集う。今回のように、たとえ強制ではないとしても、立ち入りが許される区域ぎりぎりまで埋まる勢いとなるのだ。


「五年ぶりにお姿を拝見はいけんしたが、相も変わらずお美しい……」

「いやはや、女神と評されるのも納得というものだ」

「本当に。やはり特別なお方だわ」

 放心状態から解かれた人々は、口々にカルミアをたたえるささやきを交わし合う。

 会場が喧噪けんそうに包まれ始めた、そのとき。


「――静粛に!」

 低く峻厳しゅんげん司宰しさいの一声が飛んだ。水を打ったように場が静まりかえる。


 司宰が一歩退しりぞき、反対にカルミアが進み出る。そして、恐ろしく整った形のくちびるを開いた。


「今日から五日ののち、満ちた月が最も輝く頃――〈神託しんたく〉をり行う」


 カルミアの、大きくはないが不思議とよく通る声で告げられる。

 ざわめきが再び湧き上がった。


 女王カルミアには、国を治める長というだけではなく、もう一つの面がある。それは、ハシェルの王たる人間が持つ宿命であり、最も重要な役割だった。


「〈奏者そうじゃ〉カルミア、花の女神・アルハオーネの御言葉みことばさずかりし者。かの〈守神もりがみ〉に我が身をささげ、仕えし者。儀において、己が使命を果たすことをここに誓う」


 高らかに、蕩々とうとうと、すべての民に向かい宣誓せんせいする。

 両の腕を広げ、輝くヴェールを翼のようにひるがえす姿は、人々の目には地上に舞い降りた女神そのものに映っただろう。


 一拍置いて、押し寄せる波のごとき勢いで歓声かんせいが上がった。

 民は興奮とよろこびをあらわにし、「カルミア陛下、万歳ばんざい!」「どうか守神様の御加護ごかごを!」と叫んでいる。


 空気を震わす人々の声と拍手喝采はくしゅっかさいを一身に受けながら、カルミアはそれらをそよ風くらいにしか感じないのか、その細い体躯たいく微動びどうだにせず君臨くんりんしていた。


 思わず身をすくませてしまった自分とは正反対の威風漂う姿に、リファの胸中で複雑な思いが渦巻く。こぼれそうになった息を、唇をきつく結んでこらえた。


「相変わらず、儀と聞くとこれだ。すごい盛り上がりようだね」

 感心しているようで、どこか呆れが入り交じったヤナギの言葉に、リファは首をかしげた。

「〈神託の儀〉がある度にこうなるの?」

「リファちゃんは〈顔見せ〉に参加してこなかったから知らないか。五年前もこんな感じだったよ。お祭り騒ぎになるんだ」

「……儀が大事なのは知ってるけど、国の人たちにとっても、本当に特別なことなんだね」

 未だ冷めない熱を感じながらリファは呟いた。


「特別……か。確かにそうだろうね」

 ヤナギはカルミアの方へ視線を投げる。

「女王は、神の世界と人の世界を繋ぐ、数少ない人間だ。神は人に運命を告げ、奏者はその声を聴く。そして、神託の内容は必ず果たされる。守神の加護がこの国に、人々に与えてきた恩恵は絶大だからね」

 小さく笑って言う彼は、この騒がしさと熱気の中では不自然に浮いているように見えた。



 〈顔見せ〉が終わり、浮かれた様子の人々の波が門の外へと流れていく。これから祭りの準備にでも取りかかろうとしているのだろう。嬉々ききとした表情の民衆がかもし出す幸福の空気は、見ていて微笑ましい。

 人の群れが遠ざかるにつれ凪いでいく喧噪けんそうを、リファは少し名残惜なごりおしく思った。


「それじゃ、私たちも帰ろっか」

 あの長い道のりを再び歩くのだと思うと気が滅入めいるが、日が沈む前には家に着きたかった。腹を空かせて食事を要求してくるであろう食いしん坊が待っているかもしれない。


「市場でなにか美味しいものでも買ってく? ヤナギくん」

 街に出ること自体、次はいつになるか分からない。この機会に、森では手に入らないようなものを見てみたかった。

 しかし、ヤナギはどこか硬い表情を浮かべている。「どうしたの?」とリファが顔をのぞき込むと、ややあってヤナギは小さく息を吐いた。

 そして、申し訳なさそうに口を開く。


「……ごめん。今は帰れないと思う」

「もしかしてこの後、仕事入ってる?」

「いや、うん……仕事といえば仕事なんだけど」

 めずらしく歯切れの悪い物言いだった。


 そのとき、こちらへ近づいてくる足音があることに気づいた。同時に、シャラン、という聞き覚えのある音も。リファははじかれるように振り返った。


 思わず見上げてしまうような体躯たいくと、そのいわおのごとき風格にふさわしい大きな錫杖しゃくじょうを持つ人物――司宰。

 背後には、白と金の式典衣裳を着たままの騎士たちが控えている。つい先刻、王宮の大扉の向こう側に消えていったはずの者たちが、そこにいた。


 突然、目の前に現われた司宰と近衛騎士たちに、リファは驚きのあまり言葉を失う。

 呆然とするリファをよそに、騎士たちが一斉に敬礼の姿勢をとる。そして、先頭に立つ司宰が身を屈め、恭しく頭を下げた。


「お待ちしておりました。ここまでご足労いただき、誠に恐縮でございます」


 己に向けられた敬語におののき、リファは思わず一歩、後退る。

 すると、ヤナギの手がリファの背中を軽く押すように支えた。隣を見ると、ヤナギは神妙な表情でうなずいた。

 ――どうか、覚悟を決めてほしい。

 彼の言いたいことを察すると同時に、当初ここへ来ることを勧めなかった理由を理解した。こうなることを分かっていたから、ためらっていたのだ。

 いや、たとえヤナギがリファを止めたとしても、司宰からの伝令を受け取った時点で、道行きはとうに決まっていたのかもしれない。


 リファは戸惑いを拭いきれぬまま、幼馴染を見つめ返す。ヤナギの金色の瞳は静かに、それでいて明確に、この場でリファがとるべき行動を促していた。

 そうだった、とリファは昨夜の自分の言葉を思い出す。「逃げずにちゃんと向き合う」と、そう言ったのだ。


 リファはヤナギに小さくうなずき返し、司宰たちのほうへと向き直った。


「……司宰様。いえ、サガント・クラーガ司宰。出迎え、大儀たいぎでした」


 語尾が震えるも、はっきりとリファの口から告げられた言葉に、司宰は少し驚いたようにリファを見た。目を逸らしたくなるのをぐっとこらえ、リファはその視線と対峙する。


 ここで揺らいではいけない。そう自分に言い聞かせた。


 いくばくかの沈黙が流れる。重くて固い静寂だった。それを、司宰のおごそかな、しかしどこか安堵を含んだ声音が破る。

「ご立派になられましたな。姫様ひめさま


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