第12話
温まりすぎた僕はさっさと湯船から出て、身体と頭を洗う。あー、髪の毛さすがに鬱陶しいくらいに伸びてきたなぁ。もともと目元が隠れるくらいに前髪は長いし、三ヶ月くらい散髪に行かないとか当たり前だから、性格と同じであんまりスッキリしてないんだよね、僕のルックスってさ。満照みたいな爽やか系ショートカットなんか似合いそうにないし、逆に首とか顔とかスースーしそうでやだ。風邪ひきそう。
だから僕の洗髪はショートカットの妹よりも随分時間が掛かるし、けどドライヤーで乾かすような手を掛けたりもしないので、タオルでゴシゴシ拭うだけだ。冬なんか、そのまま寝たらホントに風邪ひいちゃうから、お風呂は早い時間に済ませないとなかなか寝れない。だったらドライヤーの方がよっぽど楽なんだけどね。慣れないからうまくできないだけで。
さっき食べたアイスを風呂上がりまで取っておけばよかったというのは実に今更なんだけど、リビングで風呂上がりに髪が乾くまでの暇を持て余していたら、母親が「冷蔵庫にプリン入ってるわよ」と言ってくれた。わーい、別に甘いものが好きなわけじゃないけど、特別嫌いなわけでもないし、だからとりあえずわーいだ。
冷蔵庫を開けると四個一パックのスーパーのプリンが入っていて、妹はいないし、父親はプリンなんて食べないし、じゃあ母親と二個ずつかな? なんて欲張った気持ちを持ちながら、とりあえず一個食べた。
そう言えばお見舞いには手土産が常識のようだけど、満照は妹に何か持って行ったんだろうか? さすがにそこまで口うるさく訊けないし、もちろん確認するつもりもないけど、一応常識的な男子高校生としては、駅の辺りで何かを買ったんだろうと察する。妹は甘いものが好きで、コンビニやスーパーの安いショートケーキやプリンで満足する安上がりな奴だ。満照が持って来てくれるなら、キムチでも喜んで食べるだろうけど、満照も多分駅前のそこそこ人気のケーキ店でプリンでも買って行ったんだろうなぁ。
多分僕だったら何も考えずにひょっこり行っちゃって、部屋に飾られた花や果物なんかを見て、ようやく自分の気の利かなさに気付くんだろうな。そこで気付けるだけマシかなって、自分では思うんだけど。それは我ながら自分に甘いだけなんだろう。
プリン一個のおかげで髪が乾いたとは思えないけど、まだ眠気も来ないので濡れた髪のまま寝てしまうことはないだろうと思って、僕は自分の部屋に戻ることにした。別に家族と一緒は嫌だとか言うほど荒れた性格ではないんだけど、父親はこの時間はプロ野球を見ている。変に多くの登場人物が出て来るつまらないドラマよりはよっぽどいいんだけど、なるべく知ってる人(知らない人もだけど)の顔は見たくない僕なので、テレビも極力見ないようにしてるんだ。幸いなことに、プロ野球を見ていて死にそうな選手を発見したことはまだないけどね。スポーツマンは健康なのかなぁ? いや、そもそも不健康ならプロになんかならないか。うーん。
卵が先でも鶏が先でも僕は構わないので、あまり深く考えずに麦茶を入れたコップを持って二階に上がった。扉を開けると、机の上で僕のスマホが震えていた。ブーン、ブーンって、なんか虫みたいで嫌な振動だよねぇ。
そもそも自宅に両親がいる以上、こんな時間に僕に電話なんて来るはずがないから、メールに違いないと思ったし、すぐにバイブは止んだのでその通りだったんだろう。しばらく放置したけど、もしかすると満照かも、と思い直してそれを手に取った。満照だった。
多分妹の話かなぁって思ったけど、急ぎや込み入った用件ならさすがに電話してくるか、もう面会時間も過ぎたこの時間なら帰宅しているだろうし、それなら直接家に来るだろう。ならこのメールは、きっと他愛のない報告だ。
なんて自分を落ち着かせてから内容を見なければならないほど、僕は臆病な人間でね。理由がないとスマホも使えないチキンだから、本当になんでこんなもの買っちゃったんだろうなぁ? ちょっと妹より先に持って、年上ぶってみたかっただけなのに。今や妹のほうがよっぽど使いこなしてるし、スマホの本来の使い方をしてるみたいだ。要するに、コミュニケーションツールってやつだね。うん? だから僕の機種とは違うんだってば。
画面を眺めているとすぐにブラックアウトしてしまうので、仕方なく僕は最低限覚えている操作方法でメールを読む。まぁ、特に案じることのない内容だった。まとめるなら、「妹ちゃんはちゃんと元気だから安心して見に来いよ」っていうことだ。まぁ満照からのメールなので、まとめるまでなくもともと簡素なんだけどね。
うん、妹が元気なのは、今日の両親の様子を見てわかってるんだけどさ。病院って、不特定多数の他人がいっぱいいるじゃない? しかも入院病棟を持ってるような大きい病院だと、病状の重い軽いを問わず、いろんな人がいるわけで。僕がかつて見た中で結構衝撃的だったのは、病気で入院してる人よりも、お見舞いに来てる人の方が先に死んじゃうことがわかっちゃった時だったかなぁ。見知らぬ他人だったけど、さすがにあれは堪えたよ。まだ中学生の頃だったっていうのもあったのかもだけど。
夫婦だかただの知り合いなのかわからなかったけど、まぁわからないままでいいんだよ、そういう個人的な事情は。だって結局お見舞いに来てた元気そうな女性の方が、病衣を着て車椅子に座りながらも頑張って気丈に振る舞ってた人よりも先に逝っちゃったわけだしね。
それを僕が知っているのは、死ぬ人の期間を検証中だったからだ。病院という場所は、案外部外者でも気軽に入れるもののようで、外来で当時の僕のような中学生がウロウロしていても、誰かを見舞いに来たか、自分が診察に来て、次に行く検査室に困っているようにしか見えなかっただろう。
そこで見つけたその男女は、そんなに若くもなかったんだけど、ここが病院でなければ、新婚さんのように輝かしく幸せそうに見えた。もしかしたら、結構年齢のいった新婚さんだったのかも知れないし、婚姻関係のないままのカップルだったのかも知れない。だからそういう個人的な情報はいらないんだってば。
まぁそういう幸せオーラを出している人には敏感だった僕なので、その幸せがいつ終わってしまうのか、確認したいという好奇心に駆られた。
もう今ならそんな赤の他人の不幸とか死に別れなんて見飽きちゃってるし、見ているのも疲れるから、なるべく視界には入れないんだけど。その時は検証中ということもあって、僕は毎日学校が終わると一人で病院に通った。
珍しく満照は同伴ではくて、でもだいたい僕の行動は把握していたんだと思う。やめろとも教えろとも言わなかったけれど、その後僕が病死する人の大まかな期間がわかったと言っても、「そうなんだ?」と言っただけだったから。
その女性は僕が発見する前にどれくらい病院に通っていたのかは知らないけれど、少なくとも僕が姿を見てから、一週間くらいでお見舞いに来なくなった。いや、病院にはいたんだよ。要するに、彼女も入院することになったみたいで。
他の人のことはそっちのけで、僕は毎日同じ時間に病院を訪れ、その女性も仕事の関係なのか、僕より少し遅れてお見舞いにやってくるので、観察対象としてのタイミングは良かったと言える。でも突然、お見舞いに来てもらっていた男性を車椅子から立たせようとしたのか、男性が立ち上がろうとしたのを制したのかはわからないけれど、何かの拍子に女性が倒れてしまった。
僕は影からこっそりと覗き見をしなくても、もともと存在感も薄いので、結構堂々と隣のベンチに座っていたものだ。それで、突然の出来事に初々しい中学生の僕は驚いて、思わず駆け寄ってしまった。何ができるわけでもないのに。
「大丈夫ですか?」
死んでる表情筋をなんとか心配顔になるように寄せ集めて、声にもいつもより力を込めて言った。むしろ、表情筋がまったく動かなかったせいで、本気で蒼白しているように見えたのかも知れない。車椅子の男性に、誰か看護師さんを呼んできてくれと言われて、僕は走ってそこらへんにいた白衣の男性に声を掛けて事情を説明した。その人はポケットの中に突っ込んだ医療用PHSで誰かに連絡をしながら、素早く僕の後ろを走って付いてきた。
このままこの女性は死んでしまうのだろうか? 僕が彼女を見てから最初に見てから一週間。それが寿命なんだろうか?
後で休憩中の医師だとわかったその白衣の男性の適切な処置のおかげで、その日はなんとか彼女は命を取り留めたようだった。彼女の命を救ってくれた少年、ということで、僕は何やら車椅子の男性に非常に感謝された。自分一人ではどうにもできなかっただろうし、このまま彼女を失っていたかも知れないと。そんな彼に、「もうすぐ本当に失いますよ」とも言えず、僕は単純に居心地が悪くて病院を後にしたけれど、意図せずして堂々と面会に行ける免罪符を手に入れてしまった。
どうせ毎日通っていた病院だし、最期まで付き合おうという気になっていた僕は、車椅子の男性と何故か相部屋にならなかった女性の部屋と、両方を見舞った。男性は交通事故で下半身を大きく損傷しているらしく、僕には難しくてわからなかったけど、車椅子生活からは逃れられない様子だった。それでも、彼女がいるから辛いリハビリにも耐えてこられたのだと言う。
一方で女性の方は、何故別の部屋なのかはすぐにわかった。外科病棟にいる男性よりも、ずっと症状が重いのだ。僕が初めて部屋を見舞いに訪れようとした時、中から「自覚症状は前からあったんでしょう?!」というヒステリックな声が聞こえてきて、僕は思わず身を潜めた。どうやら年齢的に彼女の母親っぽくて、自分で病気らしいとわかっていながら診察を受けなかったことを責められているようだった。
他にも「入院するにもお金がかかるんだから」とか、「あなたは死ねば済むから楽でいいわよね」などと、この人は本当に母親なんだろうかと思うような叫び声が漏れてきていた。彼女は黙って聞いているだけだったのか、小さな声で何かを返していたのかは聞こえなかったけど、「もう勝手にしなさい!」と言い残して荒々しく扉を開けて出てきたイメージ通りのクソババァからは、残念ながらまだ死にそうなものを感じなかった。僕はそれをとても残念に感じた。
やっぱり、死ななくていいような人が死んで、死ねばいいような奴が生き延びる。病死の人がわかる僕が何よりも見たくないのは、そういう理不尽な部分だった。もう少し時間をずらしてくれば、こんな会話も聞かずに済んだのに……なんて思いながらも、僕はそのクソババァが、こういう身勝手なタイプにありがちな、周囲も見ずに自分のことだけを考えてまっすぐに立ち去っていく姿を普通に廊下に立って眺めていた。何度目を凝らしても、すぐ目の前を通っても、死にそうには思えなかった。
さっきの会話を聞いていたと思われるのも嫌だったし、もちろん向こうも聞かれたくはない話だっただろうから、しばらく時間を置いてから僕は、彼女の部屋をきちんとノックして「こんにちは」と声を掛けて入室した。それでも彼女の目はまだ赤くて、泣いた痕跡を消しきれていなかった。あんな酷いことを言われちゃったら、さすがに僕だって哀しい。たとえ見ず知らずの他人のことだってさ。多感な中学生だったんだよ、僕だってね。
「こんにちは」
その人は柔らかく微笑んでくれて、さっきのクソババァとは似ても似つかない優しげな女性だったと、その時に初めて気付いた。それまでは、車椅子の男性のお見舞いの人で、残念ながらその人よりもずっと早くに、もっと言うならもうすぐ近いうちに死んでしまう人、というだけの観察対象でしかなかったのに、その個室に入った瞬間、僕とその女性、という個人的なつながりが芽生えてしまったことを確信してしまった。
ああ、こんなはずじゃなかったんだ。親しくなんて、なるつもりはないんだよ。ただ、この女性がいつ死んでしまうのか、それが知りたかっただけなのに。だからって、自分で動けない車椅子の男性の目の前で倒れてしまった女性を見てしまった少年の僕が、その場から逃げ出すわけにはいかないじゃないか。だから看護師さん(結果的に医師だったけど)を呼びに行くという、極めて常識的な判断をし、一応気になるから一命を取り留めるのを見届けただけなんだよ。
僕の心の中には「人助け」なんていう神聖な心構えはないし、可能なら僕のこの命と交換してあげてもいいのに、くらいの気持ちしかなかった。むしろその人がいつ死ぬのかを知りたくて毎日病院に通っていたという、後ろ暗い部分しかないのに、何故か感謝される側に回ってしまうなんて、本当に迂闊だったと思う。まだまだ子供だったな。中学生と言っても、まだ小学生気分が抜けない頃だったしね。
毎日病院を散策していると言えども、他人に言えるようなさしたる理由もないのに毎日その男女を見舞うのもおかしいと思って、僕は訪問回数を減らした。そして彼女が倒れてからちょうど十日後に、僕は三度目のお見舞いに向かったんだけど、いつもの部屋のプレートに、最初から覚えてもいない女性の名前はなかった。ああ、と僕は察した。
それから車椅子の男性の部屋をこっそり覗いたけれど彼はいなくて、以前よくいた中庭に行ってみると、やっぱりそこにその人はいた。彼女の思い出に浸っているのだろう。つまり、彼女は死んだのだろう。掛ける言葉もない。まさか「いつ亡くなったんですか?」なんて訊けないし、何も知らない顔で「こんにちは」と隣に座る勇気もなかった。
存在感のない僕は、案外近くから彼の後ろ姿を眺めてたんだけど、やっぱりその人はまだ死にそうになくて、まぁ死ぬとしたら後追い自殺なんだろうな、と思った。それは僕の預かり知るところじゃないので考えない。どうせ考えても答えは出ないんだし。
彼がようやくその場を去ろうとしたのか、車椅子の向きを変えようとしたので、僕はわざと偶然通りかかったような顔をして、「あっ」と言った。彼も「ああ」と返してくれた。それから手短に「一昨日、彼女が死んだよ」と言った。僕は当時の自分の持ち得る範囲の言葉を慎重に選んで、「残念です」と言った。「ご愁傷様」と中学生に言われるなんて、きっと嫌だろうと思ったし。
「今まで、ありがとうね」
「いえ、こちらこそ」
何がこちらこそなのかわからないが、まぁそんな感じで会話が終わった。僕は何も言えなかった。元気を出してくださいなんて無責任な言葉は吐けないし、詳しい病名や状態など訊けるわけもない。
ただ、僕がここで得たのは、やっぱり病死すると僕が感じた人は、一見どんなに健康そうでも、実際に元気に振る舞っていても、自覚症状があろうとなかろうと、死ぬ、という事実だけだった。
だからもう、病院には行かない。クソみたいな奴が生きていて、あんなに幸せそうな、きっとこれから幸せになれたであろう人でも、否応なく死ぬのがわかってしまう場所になんて、二度と行きたくなんかない。
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