第8話 執念のロッカー被り戦争(vs筋トレさん編)

混雑した電車では誰が次の駅で降りるか、どの座席が空くかを推理しながら位置取りをするのが大事だが、銭湯のロッカーにも同じようなことが言える。


受付で使用ロッカーを指定されるところは別だが、自由に選べる場合には、どのロッカーを狙うのが最適か。


ベストは角上で、さらに、その横と下が使用中だと理想的だ。


銭湯のロッカーで多いのが3段タイプだが、一番人気は3段タイプの角上になる。


最上段である3段目は、着替えながらロッカーの上にものを置くことができるし、角を取れば隣を一つ潰せるため、ロッカー横被りの可能性を一つ減らせることができるからだ。


さらに隣が使用中なら、帰りロッカー被り、、、、、、、、の可能性を低くできる。


使用中ということは、このロッカー主は今、中にいることになる。こうしてる今誰かが横に来ることもないし、僕より先に出る可能性が高いめ、帰りロッカー被りを避けやすい。


行きロッカー被りは、服を脱いでロッカーに押し込むだけなので、万が一発生しても短時間の我慢で済むが、帰りロッカー被りは、どちらも汗を拭いながらゆっくりと着替えるため、アマチュア同士だと難しい。


また、横被りなら少し位置をずらせば着替えることができるが、縦被りは地獄だ。互いに配慮しあわなければ着替えが進まない。アマチュアだと小競り合いが起きる。


つまり、ロッカーの位置取りは、帰りロッカー縦被り、、、、、、、、、を避けることが命題となる。


どれだけいい位置を取れても結局は確率の問題なので、帰りロッカー縦被りが起きてしまうことはある。しかし僕のようなプロは、そんなときでも冷静に対処できる。


まず僕は、縦被りが発覚した瞬間その場を離れる。


風呂から出て、自分のロッカー付近に人がいることを確認したら、腕に巻いた自分のロッカー番号を隠しながら、いったん後ろを通り過ぎる。縦被りを確認できたら、脱衣所内にあるベンチに腰を掛けたり、体重計に乗ったりしながら、のんびり時間を費やす。


僕がその辺のプロと違うのは、自分の存在を被り相手に見せない高等技術を持ち合わせていることだ。被り相手が着替え終わり、脱衣所をあとにするそのときまで。


被り相手に「お前が着替え終わるのを俺は待っているぞ」感を出さないことが大事なのだ。縦被りが起きていることを相手に認識させぬまま着替えさせてやるのが、日本トップランカーのやり口である。


ただ、被り相手が大学生グループだったりすると、彼らはダベリながらノロノロ着替えるので、もう一度風呂に入るという選択肢も、心に携帯しておかなければならない。


しかし、この日の縦被り相手は強豪だった。


筋トレさんだ。


50代半ばのスキンヘッドおじさん。


筋骨隆々というほどではないが、年齢のわりには締まった身体のその人を、僕は勝手に筋トレさんと呼んでいたが、筋トレさんは、露天風呂がある広い屋外スペースでいつも腕立て伏せをする。


かと思えば壁に手を押し当ててみたり、スクワットしたり、ジム利用者である筋トレさんは、隙あらば身体を動かしている。


そんな筋トレさんと、帰りロッカー縦被りが発生した。


被りを確認した僕は、筋トレさんに気づかれぬようそっと戻り、水を飲んだり血圧を測ったりしながら、筋トレさんが着替え終わるのを待った。


そろそろいいだろうとロッカー付近に戻ると、脱衣所内の広いスペースで全裸で腕立て伏せをしている筋トレさんを見つけた。まだ着替えてないのかこの筋トレバカ。


筋トレさんは、ロッカーから大きなタオルを取り出し全身を拭き、また筋トレを始めていた。せめてパンツくらい履いてやればいいのに。伏せたときに毎回あそこが床にタッチしている。どっちも嫌に違いない。そして、そっちは被っていないようだ。


筋トレさんのサウナマナーが高いのを僕は知っている。


誰かに迷惑になりそうなスペースでは決して筋トレをしないし、脱衣所には今、筋トレさんと僕以外誰もいない。誰にも迷惑をかけていない。


ただ、僕には迷惑だ。


この腕立て伏せがいつ終わるのか。


このあと、どれくらいのメニューを想定しているのか。


腕立て伏せ中は視界が限られるため、この隙を狙って先に着替えてしまうべきかもしれない。ただ、その瞬間筋トレさんの筋トレが終わると、縦被り相手である僕の存在に気づいてしまうかもしれない。そうすると、筋トレさんに恥をかかせてしまうことになる。


大学生のダベり着替えは遅いが、進む。進捗具合も伺える。しかし、筋トレさんの筋トレは、終わりが読めなさすぎて難しい。


また、筋トレさんに縦被りが起きていることを気付かれると、僕が着替え終わるまで彼は筋トレを続けるだろう。つまり、相手もプロ。


アマチュア同士の縦被りもやっかいだが、プロ同士の縦被りもやっかいなのだ。お互いの気遣い戦争に果てがない。


僕はひとまず、筋トレさんの腕立て伏せの回数を、遠くからカウントし始めた。


11、12、13、14…。


起き上がって、スクワット。


また腕立て伏せ。


13、14、15…。


起き上がって、スクワット。


また腕立て伏せ。


13、14、15…。


僕は思った。


なぜこいつは風呂上がりにそこまでやるのか。


その体力は、銭湯に来る前にそこのトレーニングジムで全部使い果たしてくればいいのではないか。


そのときだった。


筋トレさんが動いた。


ようやくロッカーに向かい、服を着替え始めた。


やっと終わった。


と思ったが、パンツとTシャツだけを着て再び元の位置に戻り、筋トレを始めた。


100歩譲って、せめてその状態から始めるべきだ。床にもあそこにも失礼だろう。


これは長期戦になる。


まさかの着替えながら筋トレ。


これではこちらの身体が冷えてしまう。


もう一度風呂に戻ることも考えたが、今日はこのあとリアルタイムで見たいテレビ番組がある。


そうなると、これに立ち向かう方法は一つしかない。


フルムーブ。


フルムーブとは、ロッカーにある荷物を全て取り出し、着替えることなく別のロッカーないしは場所に全移動する、高等テクニックだ。これは、相手に気付かれると強い不快感を与える、非常にリスクが高い大技である。


ただ、腕立て伏せ中なら筋トレさんに気付かれずに、フルムーブを完遂できるかもしれない。


僕は気づいていた。


筋トレさんは、15回の腕立てとスクワットが、ワンセットになっている。


ならば、スクワットから腕立てに入る直前あたりで作戦を開始すれば、成功する可能性がある。


僕は、筋トレさんに気付かれない、ロッカー近くのギリギリの位置に身を潜めた。そして、筋トレさんが腕立て伏せの体勢に入った瞬間、作戦を開始した。


戦いの火蓋は切って落とされた。


僕は全裸で素早く自分のロッカーへ飛び込み、鍵を開ける。


3、4、5、と、頭に叩き込んだ筋トレさんの腕立てリズムをカウントしながら、荷物を掻き集める。


8、9、10…


全ての荷物を両手で抱えた僕は、腕立て伏せを続ける筋トレさんの横を足早に通過した。


勝った。


そのときーーー


あっ…


なんか落ちた。


パンツだ。


筋トレさんの近くに、僕のパンツが落ちた。


いったん全荷物を近くのロッカー上に置いてパンツを拾うか、このまま屈んでなんとか片手でパンツを拾うか。しかし、筋トレさんの腕立て終了が近い。


僕はそのどちらでもない選択肢を取った。


落としたパンツを素早く足の親指でつまんで、近くのドライヤーゾーンへ飛び込むように荷物を置いた。


大技、フルムーヴ・トゥーキャッチ。


僕は鏡越しで、筋トレさんがなにもなかったかのように起き上がって、スクワットを始めるのを見た。


勝った。


これが、日本トップランカーの技術だ。


出来ればフルムーブは使いたくなかった。脱衣所での小走りは他の人に迷惑をかけるし、筋トレさんに気付かれるリスクも高い。


今日は幸い人が少なかったからできたが、今後は控えよう。トゥーキャッチは、失敗するとどこかへ蹴飛ばしてしまい、最悪筋トレさんの頭にかかってしまう可能性だってあった。そしたら本当に事件が起きる。


危険な大技を出してしまった反省をしながら帰り支度を済ませ、一階で会計をしていると、着替え終えた筋トレさんが、僕の隣で会計を始めた。そして立ち去る筋トレさんに何気なく目をやると、彼は瓶の自動販売機コーナーへ向かった。


珍しい。健康志向の筋トレさんが炭酸飲料か。


今日は激しめに運動もしたから、普段なら飲まないコーラでも飲むのかなと共感を覚えながら僕は財布をしまい帰ろうとしたそのとき、ちょうど筋トレさんが自販機についた栓に、瓶をかけるのが横目に入った。


思わず目をやると、栓を開けた瞬間炭酸が暴発し、パニックになる筋トレさんが視界に入った。


見てはいけないものを見てしまった。


今日の敵は明日の友。


救出に行くべきだろうか。


いや、僕はあのとき、誰かに見られることをもっとも恐れた。


…見なかったことにして、僕はその場を離れた。


こうして、フルムーブ作戦は完遂した。

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