第6話 田中の水風呂初体験記

水風呂やる奴はバカ。


そう思っていた僕が、なぜ試してみたくなったのか。


常連組に限らず、サウナ利用者は全員と言っていいほど水風呂に浸かる。その光景を繰り返し見ているうちに、興味をそそられてしまったようである。


今やどの銭湯に行っても、必ず目にするととのう、、、、の4文字。テレビを見ても雑誌を見ても出てくるこの文言に、僕はすっかり洗脳されてしまった。


心臓に悪いかどうかはさておき、明らかに僕の倍以上の年齢の人たちが平気で水風呂に入っているのを見て、認識が和らいだというのもある。


一度くらいなら。


一度くらいなら試してみるか。


問題は、水風呂初体験感、、、、、、、を、どう隠すかだ。


僕がこの銭湯で一番のマナー保持者であることには違いないが、その僕が、素人感丸出しで水風呂に入る無様なところを見せるわけにはいかない。


人がいないときを狙いたい。


そのため、今日はいつもより早めに来た。


かけ湯で身体を流すとき、隣にある水風呂に、軽く手を入れてみる。


のちに入る水風呂の温度を確かめておくためだ。


サウナ後にこの確認をおこなうと、あまりの冷たさで入らないという選択をした場合、「あいつ、冷たさにビビりやがった」と冷笑される可能性がある。


そのため、今日の水風呂のご機嫌はいかかがなと、まるでいつもそうしてるかのような手付きで、僕は水風呂に手を入れた。


改めてその冷たさを痛感する。


思ってた以上だ。


この中に入るのか。本当に大丈夫なのか。


こういうときばかりは、誰かに聞きたい。誰かに付き添ってほしい。コミュ障の孤独サウナーは、常に一人で切り開いて行かねばならない。


一人は、コミュニティに加わる煩わしさこそないが、常に初体験との戦いになる。だから僕は見知った銭湯にしか行かない。というより、行けない。


サウナには最低8分、長くて10分入る僕だが、今日は12分にする。限界まで身体を温めれば、あるいはーーー


今ならまだ常連の顔が少ない。ボス猿もいない。奴ならきっと、水風呂の前でまごつく者を見つけようものなら「どうした? 初めてか?」と話しかけてくるに違いない。


試すなら、奴らがいない今だ。


いつもより2分延ばしのサウナはきつかった。


8分で出てしまおうかとも思ったが、耐えた。今日しかないんだ。やるなら今日しかない。


12分耐えた後にすべきは、サウナ室から出そうな人がいないかの確認だ。出るタイミングが誰かと被ると、水風呂も一緒になってしまう。とにかく、誰もいないときを狙う。


今だ。


サウナ室から出ると、僕は素早く水風呂前に移動し、手を入れた。


めちゃくちゃ冷たい。


いくら身体が熱くなってるといっても、この中に入るのはやはり無理だ。


これに浸かる方がおかしい。僕の方が正しい。


そのとき、ボス猿が銭湯に入ってきた。最悪のタイミング。


今は僕には目もくれず、馴染みの常連を探すように全体の様子を伺っているが、このままここでまごついていると、話しかけられそうだ。


僕は風呂桶で水をすくい、左足にそっとかけてみた。


ひいいいいいいやああ


絶叫したくなるような衝動を抑え、無表情を保つ。そして、右足にもかける。


かはあああああああああっ…!


無理だ。もう逃げ出したい。


しかし、みんなこちらを見ている。気がする。


いずれにせよ、マナーを考えれば、このまま全身にかける他ない。


ここで残された選択肢は2つ。


もう一度水をすくって全身にかけるか、隣のお湯をすくってかけるか。


しかし、足には水をかけたのに、全身にお湯をかける流れは、どう見ても不自然。足に水をかけてはみたが、あまりの冷たさでお湯に逃げたと見られる。あいつ初めてだなとバレる。


ここまで来たら後戻りはできない。水風呂なんか試すんじゃなかった。なにがととのうだ。心は乱れまくりだ。もうどうにでもなれ。


僕は水風呂に桶をつっこみ、頭からかけた。


きゃあああああああああああ


肩から胸にかけて、水が突き刺すように全身に流れていく。


スッ


と僕はその場を立ち去り、銭湯内の椅子へ向かった。


僕は、“水風呂に浸かる派”ではなく、“水浴び派”だ。


水浴び派なる派閥があるかどうかは知らないが、あれだけ冷たければ、水風呂には入らないが、水浴びだけするという人がいる。はず。きっとある。水浴び派。僕は変ではない。


冷たさに恐れをなし、敵前逃亡したとは、気づかれていない。あくまで、僕は気まぐれ水浴び派の一員とみなされているだろう。


パニック寸前の自分を隠すように、ベンチから浴場全体を見回すぬし然としていると、水を浴びた冷たさが、体内のなにかと、わずかに中和していることに気づく。


さっきまで、確実に冷たさを感じていた身体が温かい。


これが、ととのうの源泉か。


水風呂に入れたら、この先の景色が見えるのかもしれない。


しかし、とてもじゃないが、あれに慣れた様子、、、、、で入る自信がない。冷たすぎて大騒ぎしてしまいそうだ。もっと人が少ないときに試したい。しかしボス猿をはじめ、常連組が増え始めてきている。


どうすべきかと思考を巡らせていると、サウナ室から出てきた一人のおじさんが目に入った。


おじさんは、水を身体にかけて汗を流すと、水風呂にゆっくりゆっくりと、身体を沈めるように入っていった。


常連組は、いつもぬるま湯に入るかのように勢いよく水風呂に浸かるが、ああいう入り方もあるのか。ザブーンと飛び込むように入るのではなく、ゆっくり腰から浸かっていく。マナー的見地から見ても、きっとあれは正しい。あれぞサウナマナー随一の僕が求める理想的スタンス。


ゆっくりとなら、あるいはーーー


二回目のサウナ。


出て再び左足に水をかける。冷たい。


がしかし、僕はこの上限を知っている。


続いて右足にかける。


少し慣れてきた勢いに任せて再び水をすくい、並々と入った桶の水を頭からかけた。


心臓周りを襲う水だけは、何度やっても恐ろしい。


しかし、この上限も僕は知っている。


今だ。


この勢いで行くしかない。


左足を水風呂に入れる。


ひやあああああああああああ


ダメだ。


水浴びの冷たさとは次元が違う。


水浴びは所詮かかった瞬間だけで、身体は温かい銭湯の外気に触れている。しかし、水の中は体温の逃げ場がない。


とはいっても左足を入れてしまった以上、ここで引き返すのはおかしい。おかしいが、右足が前に出ない。ここで右足を前に出したら、いよいよ引き返せない。


僕はついに右足を入れ、ゆっくりと膝を曲げていった。


もう表情に出そうだ。平静を装わなければならない二重苦が辛い。


心臓付近にまで水が近づくと、心拍数が上がっていくのが分かる。


ドキドキドキドキドキドキ


はあはあはあはあ


息がなんか。


呼吸がなんか。


怖い怖い怖い


怖い怖い怖い怖い怖い怖い


僕は時間をかけながら、ついに全身を水風呂に入れることに成功した。今日こそととのうの正体を捕まえてやる。


頭で10秒カウントすると、「よし」と小さく呟いて僕は水風呂を出た。


「あれ、もう出るの」と思われるかもしれないが、これでいい。


僕は水風呂10秒派だ。そんな派閥があるかどうかは知らないが、あれだけ冷たければ10秒で出る者がいても、おかしくはない。僕は変ではない。


再び椅子に向かう。腰を下ろす。


涼しい。いや、清々しい。身も心も引き締まった気がする。なにより、一つ大人になれた気がする。


全身が、寒い膜で覆われているようだ。


表皮は冷たいが、中は温かいままで、外側の冷たさを内側から温め返しているような感じがする。今この身体は寒いのか温かいのか、脳が判断を迷っているようでもある。


確かに心地よさは感じられたが、それ以上のことはなかった。思っていたような愉悦感は訪れない。サウナーたちが言うととのうは、きっとこれじゃない。


水風呂の時間が短かったか。


倍の20秒にしてもう一度試してみたが、結局ととのうの正体を捕らえることはできなかった。もっとサウナに入り、もっと水風呂に入らないとダメなのだろうか。


しかし、ととのうの影は踏めた気がした。


ひとりがいつもこの椅子でリラックスしてる意味が、少しだけわかった気がした。おそらくひとりは、僕が味わった感覚のもっと先にいるのだろう。


今日はこれくらいにしておこう。なにより、水風呂に20秒浸かれたことが大きい。


急ぐ必要はない。一日で知った気になってはいけない。成長という名の階段は、ゆっくり登るが正解。どんなものでも、時間をかけて作られたものこそ、一流にふさわしい。


ゆっくり行こう。


サウナは決して、逃げないのだから。


逃げるのはいつも、自分なのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る