第5話 最高の未来、最悪の現実という名のコーラ
サウナとは、体内の水の入れ替えである。
そうイメージしながら、流れ落ちる自分の汗を、今日も見つめている。
幸い今日はヤクザもいない。
「今日はなんだかコーラが飲みてえなあ」
「いいっすねえ。コーラ」
サウナ室から出ていくボス猿とひとりの会話が、わずかに聞こえた。
常連組は、いつも入り口前にあるウォータークーラーに口をつける程度で、水を飲んでいるところをあまり見たことがない。
あなた方のような年代の方こそ、コーラなど飲んでいないで水分をしっかり摂らないといけないのに、まるで健康診断を控えた人のように、口を湿らす程度にしか水分を摂らない。部活中でも水を飲んではいけないという、昭和の名残りだろうか。
この銭湯は、飲食物の持ち込みは禁止されている。水くらいいいじゃないかとも思うが、ジュースやアルコールを持ち込む不届き者が出てくると、確かにややこしい。
なにせ入墨も注意できない銭湯だ。水とアルコールの違いなどいちいちチェックしていられない。ならばいっそ、全面禁止が分かりやすい。そのため、ウォータークーラーは置いておこう、ということか。
僕はいつも、自宅から常温水を入れたマイボトルを、入り口前に設置されている棚に置いておく。サウナから出ては棚に戻って、マメに水分補給する。そうして体内の水を入れ替えていく。
ロッカーとは違いこの棚は、鍵などはない簡素なものだが、ちょっとしたものを置いておくのに便利なのだ。
今日は出たら何を飲もうか。
人は、未来への希望だけで生きている。
眠れない夜は、明日なにを食べるかを想像すると寝付きやすい。「早く寝なければ」という焦りさえ払拭できれば、人は簡単に眠ることができる。
僕は、木曜日くらいからサウナのことを想像している。明日さえ終われば、サウナだと。
勉強や仕事と向き合いすぎると頭がいっぱいになり、なにをするにも覚束なくなる。だから適度に脳を振って、揺らす。尖ったものを平らにするように。
人間が未来への希望だけで生きているとすれば、未来への不安が人を苦しめる一番の要因ということになる。何が起こるかわからない、先の不安など考えるだけ無駄。目の前のサウナのことだけ考えて生きていけばいいのである。
サウナにいるときは、“出たあとの解放感”という、数分後の未来を期待しながら過ごす。そして、もう少しあとのなにかを飲む未来。そうやって、先にある希望を螺旋階段のように繋いでいく。
出た直後はひとまず水でいい。問題は、服を着替え、一息ついたところでなにを飲むか。サウナーにとっての、小さな未来予想図。
オロナミンCをポカリスエットで割った、
汗によって失われた水分と電解質、そして、レモン11個分とも言われるビタミンCとビタミンB2・B6を体内に補給できる代物というが、ポイントは、炭酸にある。
炭酸の引きつけ力はすごい。夏の暑い日などは、全欲望を刺激される。なぜかサウナ後は、身体が炭酸を欲する。カラカラに渇いた喉が、刺激を求めるからだろうか。
オロポ人気も、炭酸の要因が大きいはずだ。あれが単に、ポカリのレモン割りだったら、成分は同じでもここまで流行っていないはず。
だからこそ、オロポがもっとも染みるのはサウナ直後で、着替えて終わった一息モードで飲むなら、コーラだ。決して、ボス猿に影響されたわけではない。
身体にいいことをしたあとは、身体に悪いことをしたくなるのが人間の常。最近はかなり節制していたから、身体のコンディションも良い。普段はコーラなど飲まない僕だが、たまには羽目を外すとしよう。
僕は兼ねてから目をつけていた、“瓶のコーラ”に手を出してみることにした。どうせいくなら徹底的に外す。欲望という名の栓を。
この施設は、一階の受付付近の奥まったところに、自動販売機コーナーがある。
会計を済ませて、狭い自動販売機コーナーへ向かう。
瓶のラインナップは、コーラ、Hi-Cオレンジ、ジンジャエール。わずか200mlしか入っていないのに、120円。コスパはあり得ないほど悪い。
お金を投入してボタンを押すと、中のアームがコーラを目掛けて競り上がり、押し出されたコーラが受け皿に落ちて、元の位置に戻ってくるという仕組みだ。
ガタン
と音を立て、取り出し口にコーラが落ちてきた。
ペットボトルや缶と違って、瓶はこの音が重厚だ。なにかを買ったという、強い充足感が得られる。
取り出し口に手を入れ、コーラを握りしめる。
よく冷えている。レトロなデザインがまたいい。
瓶のコーラは、視覚、聴覚、触覚で楽しませてくれる。残すは、味覚と嗅覚。
自販機についている栓抜きに瓶を引っ掛ける。栓抜きがついている位置が目視できないから、分かりにくい。瓶の蓋が引っかかる位置を探す。
ようやく位置を探り当て、勢いよく栓を抜くと、
びしゃあああああああああああ
とコーラは暴発し、そこら中に飛び散った。
誰かに見られていないか慌てて周囲を確認し、瓶からまだ泡が溢れ出てきていることに気づくと急いで口をつけた。
右手、股間付近、床。そこら中にコーラは飛び散った。
このまま立ち去るわけにはいかない。かと言って、バスタオルでこの床を拭くのは嫌だ。
店員を呼ぶか? いや、トイレからトイレットペーパーを持ってくるか。
そうだ。
キャンペーンで無料でもらったフェイスタオルが一つあった。あれを犠牲にしよう。
お風呂用トートバッグからタオルを取り出し、僕は素早く床を拭いた。無料でもらったものとはいえ、新品を床拭きに使う罪悪感を押し殺す。
落ち着いたところでコーラを見ると、もうほとんど入っていない。
これ詐欺じゃないのか。
なんでお金を出して服を汚され、床まで拭かされ、二口しか飲めないんだ。風呂上がりだから、余計に腹が立った。
取り出し口から栓抜きまで、コーラを振るような動きは一切していない。それでここまで暴発するのは、どう考えてもおかしい。
運び込む段階で振られたのか。
業者か。
または、この受け皿から取り出し口に運ばれる過程で振られたか。
だとすると、ここで買ったものはどれも暴発するじゃないか。
そんな自動販売機があったら大量のクレームが寄せられて、消費生活センターが動くに違いない。
待てよ。
低い位置にあるものを選べば、振られなかったのかもしれない。クレーンゲームを楽しむように、目の位置の高さのコーラを選んだのは事実だ。しかし…。
わずか二口目で空となったコーラを空き瓶入れに戻すると、僕はトイレの洗面所でベタベタになった手を洗い流した。鏡に映る僕の股間付近には、飛び散った染みが情けなく点在していた。
嫌な未来は振っても、コーラだけは振ってはいけない。
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