第9話 やまびこやっほー(1)

 

 目が覚めると、天井の木目が眼前いっぱいに広がっていた。視線を横にずらすと、心配そうな顔をしているお母さんと視線がぶつかる。


「ミコト……?あぁ、よかった、目が覚めたのね」


「え、……あぁ、うん。お母さん、えっと、俺……」


「アンタ、神社でいきなり倒れたのよ。それでマモルさんに抱きかかえられて帰ってきたの。覚えてない?」


「……よく覚えてない」


「お医者さんは、おそらく疲れが溜まったんだろうって。この暑さだものね。それに、持っていった水筒、全然飲んでなかったでしょ?こんな真夏に水分摂らないなんてなんて自殺行為なんだからね。これからはちゃんとこまめに水分補給すること。わかった?」


「……うん。わかった」


「今日の夜ご飯、居間にあるから、お腹が空いたら居間に来るのよ」


「え、今、何時なの?」


「夜の九時よ。お父さんも、おじいちゃんとおばあちゃんも心配してたから、食欲なくても少し元気になったら居間に顔出してあげてね。あと、スポーツドリンクは枕元に置いてあるから、ちゃんと水分補給もするのよ」


「……うん」


「それじゃあ、お母さんはお風呂入ってくるけど、ミコトは一人で平気?」


「平気だよ」


「そう。なにかあったらすぐ居間に来るのよ」


 お母さんはスッと立ち上がり、カタカタと音の鳴る引き戸を開け、部屋から出て行った。


 突然、静寂に包まれる。いつもはうざったい母親のお節介だけど、今日は妙に心地が良かった。どうして弱っている時って人の優しさが心に沁み入るのだろう。


 布団に包まれたまま、目を瞑る。


 疲れが溜まってる?確かにそうかもしれない。ここ二日でいろんなことがあった。

 絶世の美女のヨウコに出会い、神を名乗る変なうさぎに妖怪を捕まえて欲しいと頼まれたり、天狗に見つめられたり……。


「まったく、軟弱者で困るよ」


 突然、耳元で声がした。目を開けて慌てて飛び起きると、先ほどお母さんが座っていた場所に、ちょこんと何食わぬ顔でうさぎが座っている。


「うさぎ……!」


「まったく、天狗なんかの気迫にやられるなんて……、ほんと情けないよ」


「そんなこと言っても仕方ないだろ!いきなり、あんな……あんな怖い奴、出てきたら誰でもビビるよ!」


「はぁ……。いい?ミコトくんはこれから、ああいう見た目の怖い妖怪たちの相手をしないといけないわけ。だから、仕方ない、で済まされないんだよ。もし、ミコトくんが無理なら、天狗みたいな怖い奴らが日本を支配しちゃうんだ。だから、しっかりしてくれないと」


「そんなこと言われても……」


 語尾が小さくなる。あんな恐ろしい妖怪たちとやり合えるだろうか。


 以前、青森かどこかの田舎町でロケをしている芸能人をナマハゲが脅かす、というドッキリ番組を見た。あんな作り物に怯えるなんてバカだなぁ、と思いながら見たものだけれど、実際にあんな禍々しいものを見たら、作り物ですら想像の数十倍は怖いのかもしれない。


 ……しかも、今回対峙しなければいけない妖怪は偽物じゃない。本物だ。


 今日、天狗と対面した時、怖くて震えて、叫ぶことすらできなかった。こんなに臆病なのに出し抜くことなんて本当にできるのだろうか。


「……ミコトくん、大切なのは、覚悟だよ。やると決めたら、人間、割となんでもできるものさ。それに、怖い妖怪たちのせいで、ミコトくんの大切な人が怖い目に遭うことを想像してみて?他の誰でもない、君が勇気を出さなかったせいで、大切な人が妖怪たちにいじめられるんだ。……キミはそれに耐えられる?妖怪と、大切な人が傷つくの、どっちが怖い?」


 この時、思い浮かんだのは、ヨウコだった。母親でも父親でも、大親友のケントでもなく、ヨウコだった。ヨウコの可憐な顔が、透き通った素肌が、妖怪によって傷つけられる。彼女の顔が恐怖に歪み、悲痛な叫びを上げる。


 あぁ、それは嫌だな。


「……できる限り、頑張ってみるよ」


「よく言った!まぁ、妖怪を地獄へ戻す作業は、ミコトくんだけじゃなくて、ボクを含め、神様たちもやってるからね。だから、ミコトくんはミコトくんのできる範囲で頑張って。今は小学生のキミに頼るほど、人手が欲しいんだ。人手は多いにこしたことはないからね」


「……うん、わかった」


「ところで、ミコトくんは、明日、ひいおじいちゃんのお墓参りに行くんだってね」


「え?そんなの知らないけど」


「キミのお父さんとお母さんが夕飯時に話していたから、間違いないよ。明日は、墓参りの予定がある。明日は、絶対絶対、墓参りに行くこと。この家に残って行かない、なんて事しないようにね」

「病み上がりなのに?」


「病み上がりって、ただ天狗に怖気ついただけでしょ。そんなの『病み』とは言わないよ。いい?明日は絶対、お墓参りに行くこと。ああいう墓地や墓地のあるお寺さんには、妖怪が集まりやすいんだ」


「えっ、でも、明日も神社に行きたい。神社にもあんなに妖怪たちがいたじゃないか。その妖怪たちを地獄に戻す手伝いをするよ」


 それは、建前だった。ミコトは、ヨウコのことを思い出す。ヨウコに会いたいから、神社に行きたいのだ。


 だって、ヨウコに「また神社に行く」って約束したんだから。


「神社にいた妖怪は、今日、地獄会議に参加していた神様たちであらかた地獄に戻したんだ。もちろん、何人か取り逃がしてしまったけどね。そういうわけで、神社にはほとんど妖怪はいないよ。だから、ミコトくんには明日から、できるだけいろんな場所に行って、いろんな妖怪を捕獲して欲しいんだ」


 このうさぎはなんて自分勝手な神様なのだろう。


「……はぁ、わかったよ。日本の危機だもんね。墓参りなんて退屈だし、行きたくないけど、行ってあげるよ」


 ため息混じりに頷きながら、答えた。


 どっちにしろ、妖怪を地獄に戻すには、神社に行かないといけない。妖怪をチャチャっと捕まえて、チャチャっと神社に連れて行けばいいのだ。そうすれば、ヨウコに会える。何も問題ない。


「ありがとう。ミコトくん。そういうわけだから、捕獲、頑張ってね」


 うさぎは、自分の言いたいことだけ言い終わると、淡いキラキラとした光をまとい、蒸発するように消えていってしまった。

 ミコトは布団が三枚引かれているこじんまりとした和室に一人取り残されたのだった。




 次の日、ミコトは車で揺られていた。うさぎの思惑通り、ご先祖様の墓参りに行くことになってしまったのだ。


「今日も本当に暑そうね……。嫌になっちゃう」


「ほんとだなぁ……。なぁ、ミコト、体調は大丈夫なのか?墓参りなんて、明日でもできるんだから、明日に移してもよかったんだぞ?」


「本当に本当に大丈夫。むしろ元気。だから、もう心配しなくて平気だよ」


「ならいいんだけど……。少しでも具合悪くなったらちゃんと言いなさいね?」


「もう、わかったって」

 今日の朝から、お父さんとお母さんはずっとこの調子だ。


 朝、墓参りに行くと言った時から、ずっとミコトの体のことを心配してくれている。


「でも、ミコトがお墓参りに行くって言った時はびっくりしちゃった。ミコト、外に出かけるの嫌いでしょ?」


「まぁ、そうなんだけど……」


 窓から外をぼんやりと眺める。妖怪たちがまばらにいるのが見える。田んぼで遊んでるモノ、木に登って周りを見ているモノ、宙を舞い、優雅に泳いでいるモノ……。様々な妖怪たちが、人間に興味を示さず、楽しそうに過ごしている。


 それはあまりにも奇妙な光景で、やはり夢なのではないかと疑いたくなる。だけど、夢と考えるにはあまりに長すぎて、この奇妙な状況を信じざるを得ない。


 それに少し、いや、実際のところ、ミコトはすごく気分が良かった。他の人には見えない妖怪。それを見ることのできる唯一の人間が自分。それってつまり、ミコトが特別ってことだ。なんて気分がいいんだろう。俺は特別な人間だと誰かに自慢してやりたくなる。


 寺に着くと、太陽の光が容赦なくミコトを照り焦がす。真夏の午後一時の日差しは、容赦がなかった。


「どうも。いつもお世話になっております。前原です。今年も、お参りさせていただきますね」


「あぁ、前原さん。毎年どうも」


「つまらないものですが……、これを……」


 両親が菓子折りを持って住職に挨拶をしているのを横目に、ミコトはぐっと体を伸ばす。


 辺りを見渡すと、うさぎが言っていた通り、妖怪たちがそれなりに徘徊している。寺という場所なこともあり、少しおどろおどろしい。だけど、お父さんもお母さんも、住職でさえ、妖怪を気にしていない。妖怪たちも誰も人間を気にしていなかった。


 ガサガサ。


 突然、寺の入り口にある、とてつもなく大きな松の木が揺れた。


 風も吹いていないのに、何?


 ミコトは目を細め、松の木をじっと見つめる。その太い枝の上に、猿のような狸のような、茶色い毛むくじゃらの動物がいた。見たこともない、初めて見る動物だ。


 まじまじとその動物を見つめていると、目が合った。動物は、ささっと木の陰に隠れると、見えるか見えないかというところで、ミコトをじっと見つめている。


 ミコトは、松の木に近寄って、見上げながら、松の木を覗き込んだ。


 向こうも陰から覗き込む。再び目が合った。


 膠着状態。互いに一歩も引かず見つめ合う。


 目がくりくりっととしていて、柴犬のように、にっこりとしているような『ω』という口が愛らしい。サイズも猫くらいの大きさで、遠くからでも、可愛らしい動物であることがわかる。


 こんな動物、見たことがないから、もしかしたら妖怪なのかもしれない。


「ねぇ」


 声をかけてみた。目の前にいる動物の体がビクッ跳ねる。


「……ねぇ?」


 幼稚園児のような、高く幼なげな声だった。見た目通りの可愛らしい声が、返事をする。


「君も、妖怪……?」


「……僕も、妖怪」


 やはり、妖怪だった。こんなにかわいい動物がいたら、テレビやネットの人たちが黙っているわけがない。そこかしこで、飼育され、写真や動画が出回っているはずだろう。


 可愛い妖怪は警戒しているのか降りてくる気配はない。


「ねぇ、名前は?」


「ねぇ、名前は、……山彦」


「やまびこ?」


「やまびこ」


「山に向かって、ヤッホーって叫んだら、返ってくるアレ?」


「山に向かって、ヤッホーって叫んだら、返ってくるアレ」


「……真似しないでよ」


「……真似してないよ。やまびこだから、君の言葉を繰り返してるの」


「やまびこって妖怪の仕業だったの?」


「やまびこって妖怪の仕業だったの」


「ミコトー!何してるの?こっちきなさい!」


 後方から、お母さんの声がした。


「ちょっと待ってー!」


 ミコトは振り向きもせず答えた。すかさず、


「ちょっと待ってー!」


 と、山彦がミコトの真似をする。


「ごめん、お母さんに呼ばれちゃったから、行かないと」


「呼ばれちゃったから、行かないと」


「ねぇ、キミがやまびこなのはわかったから、もう真似しないで欲しいんだけど……」


「もう真似しないで欲しいんだけど……」


 山彦は真似をするたびに、首をくいっと傾げる。可愛い動作のはずなのに、だんだんとイライラしてくる。


「ほら、ミコト行くよー!」


 お母さんが再び、ミコトを呼ぶ。


「じゃあね」


「じゃあね」


 ミコトは山彦に挨拶をすると、松の木に背を向け、両親の元へ駆け寄った。振り返ると、山彦は、きょとんとした顔でコチラを見つめていた。


「あら?お墓が綺麗に手入れされてある」


『前原家』とデカデカと書かれた墓石に着くと、お母さんが驚いた声をあげた。周りには、雑草が一つも生えておらず、花立には、黄色、ピンク、白、赤と色とりどりの美しい花が、添えられている。


「ああ、正治がきたんだろう」


 正治は、お義父さんの弟、つまり、ミコトの叔父さんに当たる人だ。人付き合いがあまり得意ではないらしく、あまり親戚の集まりに参加しない人だった。数えられるほどしか会ったことがないが、ミコトが以前会った時にも、「どうも」、「はい」と言ったような、必要最低限の言葉しか発さないため、ミコトも苦手だった。それに、鼻の先まで伸びた手入れされていないボサボサの髪と、伸び切ったヨレヨレのシャツが浮浪者のようで近寄りがたい。


 お父さんよりも十歳ほど若く、まだ二十代だったはずだ。


「え、意外ね。正治さんって、こういうのあまり興味がない人だって思ってた」


「正治は、おばあちゃんっ子だったからな。おばあちゃんも正治のことを、母さんよりも理解してたしな」


「そうだったの……」


 墓石は太陽の光を一身に浴び、キラキラと光り輝いている。お父さんが墓石に水をかけると、キラキラがより一層増し、墓石が喜んでいるように見えた。

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