第8話 化け出る者ども(2)


「……ミコト、くん?」


 突然、後ろから声をかけられる。ミコトの体が、びくりと跳ねた。


 振り向かなくても、わかる。ミコトは、この声を知っている。甘く、今にも消えそうなか細い声。


 ゆっくりと、後ろを振り向く。やはり、ヨウコだった。昨日と同じ白いワンピースを着ている。


「あっ、あ、ヨウコちゃん」


「なに、してるの?」


「え、いや、えーっと、はは。こんなところに井戸があるんだなぁって思って、びっくりしてたとこ」


 ヨウコを前にすると、しどろもどろになってしまう自分が情けない。

 ヨウコはさらっとして涼しげなのに、自分だけが汗だくで恥ずかしい。ミコトはシャツの袖で額の汗を拭った。


「ふーん、そうなの……」


「ヨウコちゃんは?なにしてるの?」


「……なんとなく、こっちに、誰かいる気がして」


「そっか。……そういえば、昨日どうして突然いなくなったの?俺、びっくりしちゃったよ」


「……ごめんなさい。人が、あまり、得意じゃなくて……」


 ヨウコは切なげに目を伏せた。黒く長いまつ毛がわずかに揺れる。


「あ、いいんだ、いいんだ!気にしないで!びっくりしちゃったって、だけだから!」


「……うん、ごめんね。ありがとう」


 小さな白い梅の花がふわっと咲くように、柔らかい笑みをヨウコは浮かべた。彼女が笑うたびに、そこに花が咲く。胸の奥が疼いた。


「えーっと、ヨウコちゃんって、この辺の子なんだよね?昨日も今日も、一人だけど、友達とかと遊ばないの?」


「お友達、いないの」


「え?」


「最近、こっちにきたの。だから、お友達は、ミコトくんが初めて」


 初めて、という響きに胸の奥がざわつき始める。落ち着かない。


「そう、なんだ……」


「うん。だから、ミコトくんに、友達って言ってもらえて、嬉しかった」


 また、ヨウコは柔らかく微笑む。ミコトは、思わず、視線を外した。頬に左手を当てる。顔が熱い。この熱は、夏の熱気だけのせいじゃないのだろう。ヨウコの視線が、言葉が、仕草が、服から覗く雪のように白い素肌が、ミコトの体を熱くさせる。


「ミコトー!どこにいんのー!」


「ミコトくーん、どこにいるんだーい?」


 突然、二つの声が聞こえた。奈緒と、知らないおじさんの声だ。振り返り、神社の方を睨みつける。毎回毎回、どうしてヨウコとの時間を邪魔されるのだろう。


「ミコトくん、行っちゃうの?」


「そう……だね。行かないと……。あっ、あのさ、ヨウコちゃんはいつもこの辺りにいるの?」


「うん」


「また来たら、会える?」


「うん」


「今度は、一緒に遊んでくれる?楽しいゲームとか、たくさん持ってきたんだ!今度、神社に来る時に持ってくるから、だから、一緒に遊ぼうよ」


「……うん」


 控えめな花が、またまた咲いた。ヨウコが笑うたびに、ミコトの心臓の鼓動が速くなる。


「……じゃあ、俺、呼ばれてるから行かないと。……ヨウコちゃんは、どうするの?」


「わたしは、もう少し、ここにいる。人が、苦手だから……」


「……そっか」


 昨日のように、奈緒を紹介する、と言えなかった。一緒に行こう、とも言えなかった。ヨウコの「初めての友達」、「唯一の友達」、その響きを手放したくなかったのだ。


「……また、来てね」


「も、もちろん!約束するよ」


「ありがとう……。またね、ミコトくん」


 ヨウコはそう言うと、おずおずと、右手を差し出した。


「えっ?」


「ミコトくんと、わたしは、お友達。だから、握手」


「あ、あぁ、そうだね。……でもね、こういう時は指切りをするんだよ」


 そっと、ヨウコの手に触れ、小指と小指を優しく絡ませる。ヨウコの小指は冷たかった。


「約束する時は、小指同士を合わせて、指切りをするの。二人とも、約束を絶対破らないよっていう誓いだよ」


「誓い……」


「そう。『指切りげんまん、嘘ついたら、針千本飲ーます!指切った!』……っと、これで誓い終了だ」


「嘘ついたら、針飲まないといけないの?」


「たとえだよ、たとえ。もし、嘘をついたら、針を千本飲むくらい、この約束は本気だってことを表してるってわけ。……だから、絶対また来るから。まってて」


「……うん、ありがとう」


 離された小指を優しい眼差しで見つめるヨウコの頬が、ほのかに朱色に染まった気がした。ただの自分の願望かもしれないけど。


「じゃ、またね」


「うん、また」


 ミコトはヨウコを背に歩き出した。時折、振り返りながら、高らかに右手を挙げて、手を振る。ヨウコも微笑みながら、遠慮がちに振り返してくれた。ふと、駅の改札口で見かける名残惜しそうに別れるカップルが思い起こされた。その瞬間、体が、再び熱を覚える。ミコトは急に、気恥ずかしくなって、途中から振り返らずに、右手だけを大きく振って、神社の境内へと戻っていった。


 神社の広場に出ると、夢見心地な気分から、いきなり、現実に連れ戻された。相変わらず、境内を妖怪たちがウジャウジャと出歩いているのだ。妖怪だらけのこの状況が現実だなんて、変な話だ。


「ミコト、どこにいるのー!あ、いたーっ!」


 奈緒はミコトを見た瞬間、大股でズカズカと鬼の形相で近づいてきた。あまりの剣幕に、ミコトは一歩後ろに引き下がる。


「ちょっと、ミコト!何、勝手にいなくなってんの!みんな心配したんだからね!」


 両側のほっぺに圧を感じた。奈緒の両手で挟まれたのだ。


「ほへんなはい(ごめんなさい)」


 ほっぺを押さえつけられているせいで、うまく舌が回らない。きっと、唇がタコのようにトンガリ、間抜けな顔をしているのだろう。


 奈緒は、ほっぺに圧をかけたまま、ミコトを境内の方へ向かせ、その圧を緩めたかと思うと、大声で、


「みなさーん!ご心配かけましたー!ミコトいましたー!」


 と叫び、今度はミコトの後頭部を掴み、深々とお辞儀をさせた。


「いやぁ、見つかってよかったよかった」


「まぁ、男の子なんて、そんなもんだよな。元気があってよろしい」


 なんて、声が下げている頭の方から聞こえる。


 奈緒の手を押し除けて、顔を上げると、祭りの準備をしていたであろうおじさんたちがニコニコと笑いながら、こちらに視線を向けていた。


「みんな、ミコトのこと心配して探してくれてたんだよ」


「あ……」


 ミコトは息を詰めた。おじさんたちの視線に混ざって、何人かの妖怪がミコトに視線を送っていたのだ。


 怖い。人ではない、気味の悪い連中が、こちらをじっと見つめている。


 ミコトが見つかったことに安心したのか、おじさんたちの視線は散り散りになっていくのに、妖怪たちはミコトから視線を外さない。


 こいつらを手懐けて、地獄に送る……?無理だ。そんなことできるわけない。


 ミコトは大きくかぶりを振った。そのタイミングで、


「ミコトくん見つかってよかったー!」


 と朗らかな声を出しながら、鳥居の前で奈緒と話していた美波が、広場前の階段を駆け上がってくる。


「美波、心配してくれてありがとう。いつもは一人でどっか行く子じゃないんだけど……」


「ミコトくんも成長してるってことだよ」


「どんどん生意気になってるだけだけどね」


 ミコトは奈緒と美波のやりとりをぼんやりと聞き流していると、後ろに人の気配を感じた。振り返るとそこには、赤があった。


 険しい表情が浮かぶ真っ赤な顔に、長い鼻、変な白いもじゃもじゃの服に、大きな葉っぱの扇子。


 天狗だ。


 天狗がミコトをじっと見つめている。


「あ……っ」


 半歩だけ、後ろに下がる。天狗の視線は、ミコトを捉えて離さない。


 周囲の声が、音が朧になる。奈緒の声も、美波の声も、蝉の大合唱も、くぐもって、遠くに聞こえる。


「……お主、我が見えるのか?」


 低くどすの効いた声だった。釣り上がった目と眉、への字に曲げた口、顔中に刻まれた黒い皺。見れば見るほど、恐ろしい。そんな天狗が不機嫌そうな顔でミコトを睨みつけている。


 圧倒的な存在感と威圧感に、全身の血の気が引いていく。


 勝てない。やられる。逃げなくちゃ。


「ミコトってば、ほんとどこに行ってたの?……って、ミコト?大丈夫?顔真っ青だよ!」


「ホントだ!大変!もしかして、この暑さで熱中症になっちゃったのかな?……わたし、お父さん呼んでくる!」


「ありがとう、美波、お願い!」


 遠くで奈緒と美波の声が聞こえる気がする。だけど、なにを言っているのか理解ができなかった。

 頭がくらくらする。


「……なぜ、お主には我らが見える?」


 答えなければならないのに、乾いた唇からはわずかに吐息が漏れるだけで、言葉を発することができなかった。


「おい、ミコトくん!大丈夫かい?」


「マモルおじさん……!ミコト、おかしいんです。さっきから、一点を見つめてて……、呼吸も荒らいし……。ど、どうしよう」


「奈緒ちゃん、落ち着いて。大丈夫だから。とりあえず、おじさんの車で、家まで送って行こう。……ミコトくん、聞こえる?歩けるかい?」


「……お主、ミコトというのだな。」


 天狗の低い声だけが、深く耳に届く。体が動かない。ミコトの胸の中に恐怖だけが沁み、広がる。


「お主も、我が怖いか。お主も、我の気迫にやられるのか」


 天狗の声や顔からは、感情が読み取れない。ただ、じっと、品定めをするようにミコトを見つめる。


 不意に、足が宙に浮いた。とても太くたくましい胸がミコトの体を圧迫する。抱きかかえられたのだ。


 ……誰?


 ミコトの目は、天狗しか映さない。焦点がだんだんとぼやけ始める。意識が遠のいてきた。


 ミコトが意識を保てる最後まで、天狗はじっと、ミコトのことを見つめていたのだった。


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