記憶ガチャ

羽と針(はねとしん)

第1話







「はい、あ〜ん」




 口の中で頬張ったりんごの果汁が弾ける。ゆっくり噛んで飲み込むのを見守りながら彼女は次の一つに爪楊枝を刺し、また口元に差し出す。フルーツナイフで皮を丁寧に剥かれたりんごは、久しぶりに与えられた栄養だからなのかすごく美味い。


 ただのバカップルの日常に見えるだろうが、俺は数時間前に昏睡から目覚めたばかりだった。



「もう大丈夫、です。そんなに食欲も湧かないし」

「だって、私心配なんだもん……。はやとが3日も寝てたのに、点滴だけじゃ栄養も足りないよ」


 清楚なロングの黒髪を揺らしてそう答えるのはどうやら俺とお付き合いしている人、らしい。事故で打った頭は未だガンガン体調の異変を訴え、失った記憶を思い出す気にもならない。


「でも無理して食べるのも良くない、と思いますし、気遣ってくれてありがとうございます」


「……わかった。けど、敬語はやめて?寂しいから……」




 病室の温度まで下げるような項垂れ方に居心地が悪くなり、久しぶりに活発になった唾液腺辺りをさすりながら提案した。


「あなたも3日間付きっきりで病室にいてくれたん、だよね?少し外の空気を吸った方がいいんじゃないかな?」


 今度はすがる様な目で見つめてくる彼女にジュースが飲みたい、とわがままを言ってやるとはりきってバタバタ派手な足音を立て部屋を出て行った。


 ベッドの上で息を吐く。ようやく一人になれた。起きてから嵐の様な覚えてる?覚えてない!のやりとりで余計疲れてしまった。しかし、自分が記憶喪失とは信じられない限りだ。医者は一過性のものだと言っていたが、不安だ。俺の周りの人間もまだ何も思い出せない俺に不安感を抱くだろうがその数千倍、心許ない。真っ白の蛍光灯に薬品の独特の匂いが充満する部屋の窓から見える空はもう暗い。白黒の世界に一人取り残されたような気分だった。


 それと同時にヘンに冷静になって、今大いに感じていたことがあった。




 彼女めっっっっちゃ可愛い。もろタイプ。


 やはり自分が選んだ相手なだけあって、超超好き。過去の自分が目の前にいるなら愛犬のように全身を撫でてやりたいくらいだ。

 艶やかな黒髪ロングに白のタートルニット、小動物みたいな可愛らしい顔も俺のハートのど真ん中を貫いてる。あんな可愛い子からりんご食べさせてもらってたんかい!とかなんとかあの子を反芻していたら顔が下品に緩んできた。


 ゆあちゃんって言ってたっけな、とルンルン気分、なんならルンルンと口に出していたかもしれない。


 健気で、可愛くて、俺が好きで、俺に寄り添ってくれる彼女、ゆあちゃんのことを思い出してあげなきゃいけないんじゃないか?

 ……けどそんな都合よく思い出せるわけがない。



 静かな空間に、右側にある心電図が波形を描いて信号を伝える。

 黒い画面に映る俺の顔。……中々イケてるじゃねえか。俳優……とまではいかないが、SNSで少し火がつきそうな甘いマスクに見える。少々やつれてはいるが、軽く整えられた茶髪は清潔感をまとっており、やはりゆあちゃんの隣にいるに相応しい男。そうキメ顔をしていた時だった。



 突如心電図の画面は切り替わり、テ〜テレ〜と陳腐かつ軽快な音楽が耳に入る。





『記憶ガチャ』





「は?」


 先程俺の心臓をグラフとして記録していたものは、ドットで描かれた数世代前のゲーム画面のようになっている。本当に頭がやられたのか?まだ夢を見ているのか?誰かの悪戯かと病室をぐるり、一周見回すもほくそ笑んでこちらの反応を伺う者などいない。

 不思議の境地だ。包帯の巻かれた両腕でモニターを掴んだ拍子にまた画面が切り替わった。



『記憶ガチャ!あなたは大事な記憶だけがすっぽり抜けてしまっています!記憶を取り戻したいですか?』




「なんだコレ……」



 記憶が戻る?本当に?こんなの本気にするのは馬鹿げていると、頭の中では認めている。


 だが、俺には記憶を取り戻す義務があるだろう。ゆあちゃんの顔を思い浮かべ、気づけば画面へと手を伸ばした。


 ▼はい


『初回10連ガチャ無料!回しますか?』


 初回、無料。ってことは10回以降は金を払うのか?どうやって口座と紐づけるんだこの状態で。クレジットカードか?俺はこんな訳の分からないゲームもどきにクレカの番号を入れるのは嫌だぞ。

 でも物は試し。無料なら問題ない。それで何か少しでも思い出せるなら──


 ▼はい


 モニターはまた別の楽しそうな音楽で、カラフルなカプセルが丸いケースの中でグルグル回って下に落ちるアニメーションを再生、光と共に開く。

 瞬きしてる間に次々とカプセルが回って出てきてを繰り返す。



 R:名前

 R:好きな食べ物 6

 SSR:彼女2

 R:生年月日

 R:あだ名

 R:好きな食べ物8

 SR:彼女

 GR:思い出16

 UR:思い出 27

 UR:事故



 さっそく中身を確認すべく操作する。

 名前:西田颯斗。

 見慣れた、聞き馴染みのある言葉、色んな人に呼びかけられる声が続々と脳内で再生される。ゆあちゃんも呼んでいた、これが俺の名前だ。間違った情報ではないようだ。


 好きな食べ物6:酢豚。6番目に好きなのか?好きになった順か?実家の近所の中華屋さんでよく頼んでいた。好きだった事実だけじゃなく関連した記憶も蘇ることがわかった。

 彼女2!これで俺とゆあちゃんのステキライフを思い出せる!




「誰だよ、この人」


 ところがモニターに映るのは、俺より少し明るい茶髪のセミロングボブで凛とした雰囲気の、まったく別人の女性だった。


「痛たっ──」



 混乱し痛みに侵食された頭で考える。彼女……と確かに書いてある。まさか、さっきのゆあちゃんは……彼女じゃない?とまで考え、自重して笑う。

 彼女じゃないなら、なんなんだ。



 ストーカー、それが脳内によぎった瞬間、全身に汗が浮き上がる。



 いやいやいや、信じたくない。でも彼女と言い張るのに実際違うとなると、一番しっくりきてしまう言葉だ。

 ……確かに、俺が記憶を無くしていると知った時、悲観した様子がなかった。普通ならもっと悲しむ、なんなら絶望するはず。なのに本人は笑顔で……。



 考えすぎて疲弊した脳が針を刺されたように覚醒した。


 俺はどんな事故をした?一体何故病院にいる?

 あの子からまったく説明されなかったじゃないか。

 


 ゆあちゃんは俺のストーカー、殺し損ねて俺は病院で目を覚ました?

 最悪なシナリオに息が詰まる。いや過剰だ、余計な心配だ。そう思うのに心電図なんかなくても鼓動が早まっていくのが胸の痛みでわかる。


 りんごを食べさせてくれていたあの優しい手つきも、俺を真っ直ぐ見つめる潤んだ瞳も、全て嘘なのか?


 ……俺は信じたい。ゆあちゃんを、俺の彼女を信じたい!こんないきなりガチャとか言って、頭を打った代償でおかしくなってるんだ、きっとそうに違いない!


「どうしたの颯斗?」


「うわあぁ!!」


 見事に尻から床に落ち、左側にあった点滴もベッドの方へ倒れ込む。

 

「ビックリさせちゃった?ごめんね」


「い、いや、大丈夫」


 心電図は元の画面に戻って正常に不規則な乱れた波を記していた。



「颯斗、飲み物どれがいいかわかんなかったから全部買ってきたよ〜」

 遅くなってごめんね?と水からおしるこまでベッドに備え付けられたテーブルに急いで並べた後、俺を支えベッドへゆっくり体を寝かせてくれた。

 ほらこんなに優しいじゃないかこの子は。きっと聞いたら事故のことだって丁寧に教えてくれるはずだ。



「ところでさ、まだ事故のこと聞いてなかったよね?」

「事故?」

 少しゆあちゃんを纏う空気が変わった様な気がしたが続ける。

「俺が、何でこんなことになったのかさ」


「あぁ、それはね、颯斗が大きい車に跳ね飛ばされちゃたんだよ。私たちが住む家からすごく遠いところで事故したんだもん、ビックリしたよー」


 俺の問いに一瞬でケロッと表情を変えたゆあちゃんは眉毛を下げ笑顔のまま言う。


「何でそんなとこいたのかな〜ってさ、それも思い出せないよね、仕方ないけど」


「そ、そう、ですね」


「敬語、やめてって言ったよね」


「あ!ご、ごめん!」


 ビビってたら変に怪しまれる。落ち着いて行動だ。己とゆあちゃんを信じれば何もかもうまくいく。そう思考したが、買って貰った飲み物はとりあえず、確実に開けていないのがわかる缶のものを選んだ。






「ゆあちゃん、寝ちゃったの?」

 椅子に座りながら上半身はベッドの足元に預けてぐっすりと眠る。俺の目が覚めて、ホッとしたのかもしれない。


 俺達はゆっくりコーヒーを飲みながらたわいもない会話をした。大部分は俺とゆあちゃんの出会ったという大学時代の話。

 ゼミ内で西田が二人いたことから俺のあだ名がにしはやになったとか、俺が風邪の時に作ってくれたゆあちゃんの味噌汁が一番の大好物だとか。

 本当に幸せそうに話すキラキラした顔が愛おしく、やっぱり俺はゆあちゃんの彼氏であるのは宿命だと感じた。


 冷め残ったコーヒーを一気に流し込む途中で、また右側で例のチープな画面が現れた。


「もういいって!何だよ、また変なのだ。ゆあちゃん起きたらどうするんだよ」


 静かだった心臓が跳ね上がった。

 俺の頭がダメなんだ。これは幻覚だ。そういやまだ起きてから一度も医者を呼んでなかったと気づく。早く見てもらわなければ。


 ナースコールを枕横から探し出し、押した。

 その行動とは裏腹に、画面に何が流れてくるかを確認しなければいけない衝動に駆られた。画面は先ほどの結果の続きを映していく。


 生年月日:1998年4月18日。

 次、あだ名:にしはや。


 これは幻覚、俺の脳の奥深くにある記憶が作り出したものだから、情報も合ってるんだ。きっとそうなんだと、画面を震える指でタップする。



 好きな食べ物8:味噌汁

 具はしじみと花の形をした人参が入っている。目を閉じる。これは凄く好きだった。喉を通り腹に染み渡って、体全体まで行き届き手先まで温かくなる感覚さえ蘇ってきた。

 ほんの少し安堵感を取り戻し、次の情報を開く。


 彼女:木島結愛

 そうだ、この字だ。思い出した。思い出せた。幾度となく見た愛しい名前を懐かしみ、画面越しに字をなぞる。


 思い出16:大学の頃。結愛ちゃんとの出会いの場面から同じゼミの皆で遊んだり勉強したり、俺含め周りの幸せな顔だけが脳内に駆け巡った。


 思い出27:見覚えのある、さっきの花のにんじんが入った味噌汁。それは年末だった。課題に追われろくに寝ず授業やバイトの連日だったからか風邪をひいてしまった。一人暮らしの大学生の家に氷枕や冷却シートはありもせず、泣く泣く布団の中にこもって熱と戦っていたところに買い物袋片手に来てくれた結愛ちゃん。看病ついでに何も食べてないでしょ、と作ってくれたあの味噌汁。あの事がきっかけで俺達は付き合い始めたんだった。

 なんでこんな大切な事さえ忘れていたのだろうか。彼女との思い出は全て光に満ち溢れていて、人生の内、ほんの一部を映像で見ただけなのに、俺の心は彼女の作った味噌汁と同じ温かさで満ち満ちていた。




 となると、最初に見た彼女2の方が気がかりだ。

「痛っ……!」

 が、彼女2の記憶を思い出そうとするたびひどく頭痛がする。……こんなこと考えたくはないがおそらく俺は浮気をしていたんだろう。気の迷いか、結愛ちゃんの仕事か何かで忙しく会えない時期、俺の寂しい時間を埋めてくれたとかそんなとこだろう。とにかく、ストーカーというとんでもない勘違いの結果に、どっと力が抜けて口から空気が漏れた。



 遠くから激しめの足音が聞こえるとほぼ同時に勢いよく病室のドアが開いた。



 立っていたのは明るい茶髪の凛とした雰囲気のナースだった。

「どこかで……」


「颯斗……!起きたの!?」


 文字通り頭を抱える。確実に彼女2だ。そして俺を見るなり良かったと顔を覆う。確定だ。彼女2のこの反応、やっぱ俺達付き合ってる。


「……その人」


「あ、えと、違くてその〜俺記憶が無くてですね」


 足元の結愛ちゃんを驚愕の目線を向けるから、咄嗟に情けない言い訳が出た。

 本来浮気の言い訳としたら最悪の誤魔化し方だろうが、俺は本当に記憶が無い。認知はしているがある意味無敵状態なのだ。記憶喪失最高!どんな質問でもどんと来い!全部覚えてないで通してやる!と胸を張る。



「逃げなきゃ……」

「え?」


「この人でしょ?颯斗がおかしくなるくらい追いつめた人って」


 理解に苦しむ。頭が割れるように痛み始める。


「……何言ってんの、結愛ちゃんは、俺の彼女で……」


 二人の会話でゆっくりと起き上がる足元の彼女に頭痛を無視して唾が飛ぶくらいに叫んだ。


「結愛ちゃん、俺全部思い出したよ!出会った時のこともあの味噌汁のことも……!」


 何かを脳が拒否してるみたいに口だけが回る。


「……全部?」

「うん、全部!」


「良かった!」


 彼女は満点の笑顔でそう言い放った。


「あなたのせいで颯斗は苦しんだ!あなたから逃げても毎晩毎晩震えて取り乱して、あいつにいつか殺されるって!」


 ナースの言葉に体が震え出す。


「あの日操られたみたいに外へ出ていくからついていったのそしたら」

「私の颯斗にそんなホラ話聞かせないでくれる?」

 遮る声の持ち主はりんごの残骸に備えてあるナイフを取りナースに近づいた。




「颯斗に擦り寄る奴らは全員私が殺す、今までそうしてきたでしょ?」


「覚えてる颯斗?何回も死体一緒に運んだもんね」


「私から離れていったことまで思い出しちゃったの?」


「でも颯斗が事故してくれたおかげで、颯斗の居場所がわかった。その為に事故したんだよね?」



 待っててねすぐ戻るから。とびきりの笑顔で言い残した後、とっくに部屋から飛び出したナースを追いかけていく。



 俺一人取り残された病室で、ガチャ10連最後の記憶がモニターに流れる。


 映るのは俺とナース。二人狭い部屋で身を寄せ合っている。虚な目の俺は夜中足元もおぼつかないままアパートを出る。

 長く暗い道のり。一歩踏み出せば来た道は戻れないほどの暗闇。



 ナースの叫び声がかすかに聞こえる。


 道路に立つ俺。ヘッドライトが視界を真っ白に包み込む。

 ここで映像は終わった。


「まただ……」


 何度目だろう、そう呟いたのは。

 俺さえいなければ、繰り返さないと確信したのは。


 本当に蘇ってしまった記憶の果て。

 取り戻した記憶のせいで空っぽになった心。


 腕に刺さった針を抜き、元凶となった心電図のシールも剥がす。


 遠くからあの日と同じナースの叫び声を耳にしながら、病室の窓に一歩ずつ足をかけた。


 次こそ死ねますようにと願って。







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