第2話 3チャンネル
「時子…愛してるよ」と朝ごはんを作っている私の背後から健二が抱きついてきた。
昨夜、あんな事があったばかりなのに、何事もなかったように甘える声で私の耳元で健二が囁いている。そして、私の頬にキスをした。
私は拒む気力もなく、ただやり過ごす以外に何も思いつかなかった。私の無反応な様子に健二は怒りを露わにするのかと思ったが、予想もしない反応が返ってきた。
「昨夜は殴ったりしてごめんよ。ワイシャツなんて何色でも良かったんだ。商談が上手くいかなくて、本当は時子に慰めて欲しかっただけだったんだ」
健二は、再び強く私を抱きしめた。
「いいの。私も健二の言ったことを正確に聞き取れていなくてごめんなさい。私も愛してるわ」と心にもない事を私は言った。
これで良かったのか?昨夜の事は、夢だったのだろうか?しかし、人を刺した感触だけが今でも残っている。血でベトベトになった両手の記憶もある。これが夢だとしたら、人間の脳はどこまで卓越したものなのだろうか…。考えれば考える程、血の気が引いていく気がして気持ちが悪い…。
次の瞬間、バタンと音がした。
「時子!時子!大丈夫か?」
気を失いかけた記憶の片隅で健二がそう叫んでいた。
気がついたら、リビングのソファーに横になっていた。その傍らで健二が寄り添って私の頭を撫でていた。
「気がついた?今朝、急に倒れたから心配したよ」
「ごめんなさい。ちょっと疲れてたみたい。今何時?」
「今は、夕方の6時だよ」
「そんなに寝てしまってごめんなさい。ずっと側に居てくれたの?」
「あぁ…心配で離れられなかった」
「ありがとう…」
こんなに私の事を思ってくれてる人を私は殺そうとしていたのか?なんて私は愚かな人間なんだ。私は、バカだ!バカだ!でも、健二が死んでなくて良かった。死んだ方が良かったのは私の方なのかもしれない。夫の愛を信じられず、ただ見えるものだけに囚われ、辛いのは自分だけだと思い込んだ私が悪かったんだ。あぁ、なんて事をしてしまったんだろう?でも、死んでないのだから、私の罪も無かったのだろうか…。いや、そもそも殺したいと思ってしまった自分の気持ちにこそ罪があるのかもしれない。しかし、暴力を振るわれるのは怖いし痛い。ツライ…ツライ…。あれ?何がツライ?怖いのが?痛いのが?殺してしまいたい程の憎悪が?考えれば考える程、わからなくなってくる。
はっきりしていることは、ただ一つ。
―逃げたい―
逃げても逃げても、きっと健二は追いかけてくるだろう。この人から逃げるには、自分が死ぬしかないのでは?私が死んだら泣いてくれるのかな?それとも清々したと思うのかな?どちらにしても、もう、疲れたの。終わりにしたいの。
「今日は、出前にしよう。だから、ゆっくり休んでて良いよ」と健二が言った。
こんな優しい言葉を聞くなんて、いつぶりだろう?自然と涙が溢れてきた。
「あぁ…ごめんなさい。ごめんなさい。こんなに優しいあなたを殺そうとしたなんて…」
「別に気にしてないよ。だって、俺は死なないから。先に手を出したのは俺だし、時子が怒るのも無理もない。俺だって反省してるんだ」
そう応える健二の顔が気味悪くみえた。なんとなく違和感があったが気にしている余裕はなかった。
少し気持ちを落ち着けたくて、実家の母親に電話をしようとスマホの電話帳を開いた。
―登録件数 0件―
あれ?
届いた出前をせっせとテーブルに並べている健二が言った。
「そうそう、時子には、俺だけが居れば十分だろ?だから、電話帳の登録は全部消しておいたよ」
「なんで勝手にそんなことするの?」と少し語気が強くなってしまった。殴られると身構えたが何も起こらなかった。身構えた両腕を下ろすと、ゆっくり健二がやってきて、そっと私を抱きしめた。
「ごめん。時子には、俺だけを見ていて欲しいんだ。だから、他の人と繋がっているのが我慢できなかった」
怒りや喜び、憎しみや希望がぐちゃぐちゃになって健二の胸の中で泣いた。それを見た健二は何も言わず、私が落ち着くまで抱きしめていてくれた。
しばらくの沈黙のあと健二は言った。
「これからは手を上げないように、自分をコントロールしていくよ。それに、俺は、ずっと時子の気持ちを聞いてこなかった気がするんだ。だから、これからは言いたい事があったら言って欲しい。俺もダメなところは直していこうと思う。もう、時子に殺されるのはイヤだしな」と優しく冗談まじりだった。
それを聞いて少し安心感を覚え、ふと健二の顔を見た。当然、目が合うと思った。私を見て優しく微笑んでいる姿を想像していた。しかし、私の目に写ったのは、健二がテレビの方を見ながら話している姿だった。驚いてテレビの方を見たが何もなかった。
「健二、私の目を見て言って欲しかったです」
「あっ、ごめんよ」と言って、私の目を見てこう続けた。
「愛してるよ」と…。
その後は、2人でゆっくりと食事をした。何気ない会話をして2人で笑った。片付けは健二がしてくれると言うので、ゆっくりお風呂に入った。お風呂から出たら健二はソファーで眠っていた。
幸せなのか?不幸せなのか?わからなくなってきた。愛されているのか?いないのか?健二の本心が何処にあるのか全くわからなかった。
残った気持ちは、良心の呵責。こんなに優しい人を殺そうとした自分が許せなくなっていた。このまま一緒にいても、健二が幸せになれない。私が消えれば、もっと良い人との出会いも待ってるかもしれない。そう思って、昨夜、健二を刺した包丁で自分の胸を一気に突き刺した。
これで私も健二も楽になれるはず…。
さよなら…健二。
ドンっ!という音で目を覚ました健二は、血塗れで倒れている時子を見た。すぐに駆け寄り「時子!目を開けてくれ!」と時子の体を抱きしめながら泣きじゃくっていた。
そして、時子を床に横たわらせ、何かを思い出したかのようにテレビのチャンネルを手に取った。
「た、確かこれは3チャンネル。録画を…よし!消した!」
ジジっと音がしたと同時に時子が目を覚ました。
「良かった」と健二が駆け寄ってきた。
「お前、何やってんだよ。死ぬなんてバカな事を考えるなよ」
「え?私…助かったの?」と胸の辺りを見たが何もなかった。血も出ておらず、刺した痕跡さえない。どういうこと?
「お前も死なないんだ。俺とお前は永遠に一緒なんだ」と健二は、不気味な笑みを浮かべていた。
―自殺 2回目―
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