タバコとの想い出~三歳から生涯禁煙宣言~

黒星★チーコ

全1話(-.-)y-~


 私は煙草が大嫌いです。

 マナーを守って楽しんでいる愛煙家の方々を締め出したり、わざわざ喫煙可の店に入って文句を言うなんて事はありません。吸う人と吸わない人のエリア分けがきっちりしているのが理想だと思っています。

 でも私自身の個人的な嗜好としては大嫌いです。何故なら美味しくないから。



 さて、ここから先は「ほぼ実話を元にした小説」ですが、登場人物の名称、一部の心理や状況などは私の想像の産物です。

 また、令和の常識や倫理観から見るととても許されないような表現や状況があります。しかしそれは常識の異なる昭和後期の話であり、少々不幸な事故でもあったとご理解ください。


 賢明な読者様は、この先の展開についてタイトルからおよそ想像がつくでしょう。そういった話が苦手な方はブラウザバックをおすすめ致します。



 ◇◆◇◆◇◆



 或る母子の話。



 女はひどく疲れていた。

 そこは昭和のどこにでもある家庭の図だった。


 高度経済成長時代に建てられた団地の一角。

 もちろんエレベーターなど無い、三階の2DK。けして広くはないその中に住まうのは若い夫婦と三人の子供で構成された核家族。

 夫は家族のためとは言え、始発から終電まで働き詰めで朝のわずかな時間しか顔を会わせず、休日は寝溜めと勉強だけにその時間を費やして家庭など省みない。

 そのくせたまに余裕ができるとやることはやる。

 だから三人も子がいるのだ。


 双方の実家は500キロ以上離れており頼れない。今なら『ワンオペ育児』等と言えるが、当時はどこの家庭も母親が家事育児を全てやって当然と言う風潮だったのだ。

 三歳の長女はあまり手がかからなかったが、ある日突然気難しくなったり体調を一気に崩すので予想がつかない子だった。

 二歳の長男はイタズラ好きで常に危険なことをする。ダメと言えば言うほど実行するタイプなので目が離せなかった。

 生まれたばかりの次男は長女や長男に比べ小さく産まれ、常に健康面の心配がつきまとう子だった。


 彼らは要求し、泣き、わめき、どたどたと走り回る。

 たまに家事をしている時に静かだな……と思うと、長男が壁に落書きをしたり障子に穴を空けている。かと思えば長女と長男が喧嘩をしだす。

 新聞を読もうと広げると小さな手が上からにゅっと伸びて真下に勢いよく振り下ろされ、新聞を真っ二つにする。そこにはニイっと笑う子の顔があった。

 女は気が狂いそうだった。


 或る日、夫が置き忘れた煙草を見つけた。

 ほんの出来心だった。子供と遊ぶこともせず、いつも機嫌の悪い夫の煙草の数を減らしてやれ、という些細な仕返しの気持ちもあったと思う。


 口に咥え火をつけて吸ってみる。いつも夫が漂わせている匂いを何十倍にも濃縮した煙が一気に喉の奥に詰まり、女はむせて咳き込んだ。

 ゲホゲホと吐き出しながら、何故かイライラした気持ちも一緒に吐き出せたような気がした。


 そこから女は夫に隠れてたまに煙草を吸うようになった。

 副流煙の害が子供にも及ぶ事はあまり広く知られていない時代だったのかもしれない。いや、もし既に警鐘を鳴らされていたとしても、女にはテレビを見ることも新聞を読む事も許されていなかった。知りようがなかったのだ。


 ◇ ◆ ◇


 長女はちいちゃんと呼ばれていた。

 ちいちゃんは、大人が吸っている白い紙の棒みたいなものが気になっていた。


 確か、たまにしか会えないお父さんも時々吸っていた。でもお父さんは怖かったし「危ないからお父さんが吸っている時は近づいてはダメ」ってお母さんがちいちゃんを抱えて遠くに離してしまう。


 最近はお母さんも吸っている。その時のお母さんは、とても幸せそうだった。

 ちいちゃんはお母さんのそばにある、その白い棒の入った箱を掴もうとした。


「ダメよ! これは大人だけのものなの!」


 お母さんはとても怖い顔で大声を出した。ちいちゃんは怖くてすぐ手を引っ込めたけれど、ますます気になって仕方がなくなった。


(きっと、すごくすごく美味しいものなんだ。大人だけ食べるなんてズルい!)


 白い棒を吸う。その中でちいちゃんが知っている味はデパートの最上階のレストランで飲んだ、グラスに入って白いストローの刺さったオレンジジュース。

 あれはそれまで飲んだ中で一番美味しいジュースだったけど、きっとそれよりもこの棒は美味しいに違いない。

 この世の全ての美味しさを詰め込んだ味なのではなかろうか。


 ちいちゃんは、いつかそれを絶対に自分も味わうんだと心に決めた。


 ◇ ◆ ◇


 その日。

 次男はいつものように寝室のベビーベッドで寝ていた。長女と長男は積み木遊びをしている。普段目が離せない長男は積み木が大好きで、遊んでいる時だけは凄い集中力を見せる。

 そんな時は少しだけ気を緩めても平気だった。


 女は棚に隠していた煙草とマッチを取り出す。

 既に週に数日、1日一本程度だが習慣になりつつあった。今は自分で吸うものは自分で買っているが夫に気づかれるのも時間の問題かもしれない。


 火をつけてひと吸いした瞬間、ビー! と耳障りな呼び鈴が鳴った。

 女は躊躇う。これを消すのは勿体ない。一番危険な長男は呼鈴の音も聞こえないほど積み木に集中している……聞き分けの良い長女なら。


「ちいちゃん、お母さんはこれを置いて玄関に行くけど、あっちっちだから絶対に触らないでね」


 長女に言うと、まっすぐ目を見てこくりと頷いた。これなら大丈夫。

 女はアルミ製の灰皿に火のついた煙草を残して玄関に向かった。


 ◇ ◆ ◇


「ちいちゃん、お母さんはこれを置いて玄関に行くけど、あっちっちだから絶対に触らないでね」


 それを言われた瞬間、ちいちゃんの頭のなかに稲妻のように閃いた。

 これは千載一遇のチャンスであると。


 実は以前、お母さんが隠していた棚からあの白い棒を取り出して吸ってみたことがある。

 でも白いスポンジのような面に唇を当てておもいっきり吸ってみても何の味もしなかった。

 反対側はたぶん違う。お父さんもお母さんもいつもスポンジの側に口を当てていた。

 そこまで思い出して気がついた。お父さんもお母さんも吸う時には火をつける道具を使っていたのだ。


(……火は駄目。とても怒られる)


 以前お母さんが「ダメ」と言っていたのに弟がマッチを触り、とてつもなく怒られていたのだ。

 夏におばあちゃんのおうちに行った時だって、お仏壇のマッチやろうそくを取り上げられた。あのいつも優しいおばあちゃんがダメっていうんだから本当にダメなんだ……とちいちゃんは諦めていた。


 だから今、数メートルのところに火のついた煙草があるとわかり、こんなチャンスは二度とないと考えたのだ。

 ちいちゃんはお母さんの目をまっすぐに見てコクりと頷いた。

 それは、口には出していないが明らかな嘘だった。


 お母さんが部屋を出た瞬間にちいちゃんはこれ以上なく素早く行動した。

 どたどた走っては駄目だと思い、四つん這いで絨毯の上を灰皿めがけにじり寄る。

 灰皿の窪みに置かれた煙草を手にしてキラキラと目を輝かせた。ずっとずっと憧れていたその白い棒はどんな味がするんだろう。

 彼女はお母さんがするように煙草を咥え、吸い込んだ。


 それは、三歳児にはとても表現できないものだった。

 例えるならば、暗黒。

 暗黒が彼女の口腔内の全てを包んだ。


「うえっ……」


 吐きそうになった彼女の頭の中に一気に様々な感情が渦巻く。


(なんで。なんで美味しくないの。苦い。臭い。美味しいものじゃなかったの? だからお母さんはダメって言ってたの? お母さん……お母さんに嘘をついた。今吐いたり泣いたりしたら嘘をついたのがバレてしまう。触らないでって言われたのに触るどころか吸ってしまった。きっと弟の時よりも怒られる。きっとすごく……すごく。どうしよう!)


 ……泣いてはいけない。吐くのもだめだ。このまま知らぬふりを通すのだ。

 そう考えたちいちゃんは震える指で、そっと煙草を灰皿の窪みに戻した。

 でも舌の上の暗黒は消えてくれなかった。だからちいちゃんは顔をぎゅっとしかめて耐えていた。


 灰皿から少し離れると、お母さんが戻ってきた。

 この顔を見られてもバレてしまうかもしれない。

 ちいちゃんはお母さんに背を向けた。


 ◇ ◆ ◇


 呼鈴を鳴らしたのは回覧板を持ってきたお向かいさんだった。

 いつもならわりと世間話をするのだが、煙草を置いてきたことが気になっていた女はすぐに話を切り上げ、部屋に戻った。


 危ないものに手を出す長男は変わらず積み木に集中している。煙草は元通り火が着いたまま灰皿の上だ。女はホッとしたがすぐに気づいた。

 いつもならすぐに自分の方を向く長女が、窓に向かい背を丸めて座っている。こちらを見ようともしない。女は不思議に思って声をかけた。


「ちいちゃん? どうかしたの?」


「……ううん」


 おしゃべりな筈の娘がそれ以上言わない。また急に体調でも崩したのか。

 長女の様子を見ようと近づくと、彼女はひたすらこちらに背を向け、折った膝の間に顔を埋めてしまった。


「……変なちいちゃん」


 体調不良なら何か言ったり顔を見せてくる筈だ。またいつもの気難しやさんか。

 女はそう考え、煙草の残りを吸った。



 ◇◆◇◆◇◆



 ……とまぁ、とんでもなく煙草は不味いモノだと三歳の時に知ったので、私は二度と煙草は口にすまいと誓ったのですよ。

 実は成人してから一度だけ付き合いで嫌々吸ったことはあるんですけどね。やっぱり美味しくなくて、三歳児の感覚は正しかった! と再認識して終わりました。


 え? 三歳でそんな事考えている訳無いだろうって?

 いやいや、子供を舐めてはいけません。むしろ三歳児だからこそ個人差が大きいんです。考える子は考えるんですよ。


 実は私は「三歳児が人生の頂点だったね」と言われるほど、見た目も頭の回転も早熟な子供でした。

 三歳児の記憶が今でもかなり残っているのですが、マジで三歳児なの!? と驚かれるエピソードがあと二つばかりあります。

 でも弟の年齢、団地に住んでいた時期や、後から「あの時こうだったよね」と母親に尋ねて答え合わせをしてみた結果、間違いなく三歳の記憶でした。


 オチも何もありませんが、私は特に健康被害もなく元気にやっております。ただ、煙草は生涯吸わないし大嫌いだと言うだけです。


 ……あ、子供を持つ母親になってからは「昔の私、無謀チャレンジャーすぎるだろ!」と自分で自分に呆れておりますwww

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