面構えが違う
黒い着物を着た少年は本を二冊抱えていました。題は『痴人の愛』と『毛皮を着たヴィーナス』。教育に悪い、と口に出しそうになったが堪えました。
実は、どちらも私の好きな小説だったのです。理由は言いませんが。
皆さんはどうですか。そもそもこの二冊、ご存知でしょうか。
■
目が明く。
目の周りが腫れぼったい。
──目が腫れているということは、泣いていたということだろうか。
相も変わらず、誰かの言葉が脳味噌を駆け巡る。
柔らかな木の淡い香りが部屋中に漂う、木の柱に土壁の張られた和室。部屋には自分の眠っていたらしいベッドの他には……何も。
──誰もいない?
「起きた?」
糸のような音。繊細で、けれど軽快な声色。
初め、女性の声に聞こえたが、脳で反響させているうちに、男性の声のようにも感じられてくる。
──中性的な。
そう、そんな声だった。
脳天の方に目だけをむける。一冊の本を抱えた狐がいた。違う。狐の面が浮いていた。死角だったので、気が付かなかった。
「おはようさん」
狐の面を付けた、白と赤を基調とした着物を纏ったおそらく女性、が顎を撫でてくる。
──巫女服とは女性のものだ!
──おい!男が着ても良いだろうが!
「ぅが」
少しこそばゆい。
「どうだい?大丈夫かいな」
──大丈夫に、
「……大丈夫」
──大丈夫と返したところで会話にしかならないが。
「そうか。良かった」
表情の読めない狐の面。
「あなたは?」
「それは、名前を聞いている?」
「はい」
「私に名前は要らない」
「名前は言いたくないのですか?」
山本のように。
「違う。名前を付けるのは卑怯者のする事やから。括言主義者はゼンブ気持ち悪い」
──その名前は誰が付けたもの?
陰謀論者が、全ての名前が誰かに付けられたモノだから、信頼出来ないなどと言っていたのを思い出す。
もしかすると。この女性はヤバい人間なのかもしれない。
──陰謀論者が総てヤバいとは限らないが。
狐面を付けている時点で少々。
「……やばい人」
「ヤバいとヒッ括るとは、これまた卑怯やな。括言主義者かよ!ほんま卑怯」
卑怯。その言葉の意味は分からなかったが。
怒った様子だったので、半ば反射的に謝罪した。
「……すみません」
「病人でなければ、何がヤバいか追及してやるところやわ」
「……ほんと。すみません」
自分の粗雑な思考を、追及されるのは精神に甚大でない負荷がかかる。それを強制されるのは地獄だ。
卑怯の意味が少し解った気がする。
──少し。
「ああ、それじゃ。起き上がれるか?」
「はい、すみません」
「すみません病じゃん」
「卑怯ですよ」
──少し理解した気になれれば、その言葉を使用しても良い。
狐面が無表情に僕を睨んだ。
「……」
「……」
──すみませんじゃなくてありがとう、な!
「よし、もう少し寝ておけ。私はおさめてくるから」
僕の腹を撫でてから、狐面は部屋の外に出ていった。少しこそばゆかったけれど、それよりも。
何をおさめるのだろうか。おさめるとは何だろうか。
そんな疑問が浮かんでくる前に、瞼が静かに閉じて、思考がノンレム睡眠へと堕ちてしまう。
──を──を──を──を?
──納める──収める──修める──治める?
──他にも。
■
外から、猿の鳴き声が何重も重なったような騒音が聞こえて。
目を擦りながら、歩き慣れない部屋をゆっくりと出た。
「お、起きたか!」
狐面が、おはようを伝えてくる。
「……なんか五月蝿くて」
「ほんまや。おさめてて気付かなかったわ」
彼女は、スケッチブックを傍らに指に乗せたナニカの絵を書いていた。
「この鳥さんの絵描いてたんですか?」
見たところ、青い小鳥のように見えるが。スケッチブックに描かれた絵が。有体に言えば、下手過ぎて、なにを描いていたのか分からない。
──描かない奴が、批判する。
「鳥じゃないって……絵じゃないって……」
狐面は僕を睨んだ。僕は苦笑いする。
「じゃあ何なんですか?」
「……卑怯や!卑怯や!」
子供のように叫ぶ彼女に僕は噤む事しか出来ない。
──。
──。
──。
「……そりゃお前。わからんけども。かわいそうになぁ」
まるで不定形な笑みを浮かべて、狐面は僕の頭を、細い指でわしわしと掴んで。
──どういうつもりだ!
「淀み切った思考は総て見切ったり!」
変な事を口走れば。
──怖い怖い!ヤバい!狂人だ!
「アレコレソレは総て見切った!」
頭を掴む力がだんだんと強くなる。
──痛い!──痛い!──痛い!
「ふん!」
「ぅあ」
痛い!痛い!痛い!
後頭部に突き刺すような痛みが走って。全身が叫んでいるような気がして。
「やっぱし、感動詞やな!」
狐面の狂言を反芻している内に。
痛みがひいてきて。
■
形容しがたい気分。
えっとなんというべきか。
ふわふわしたような気分。
やばい気分。
■
「ありがとうございます。神様。少し軽くなりました」
神様に感謝を伝えた。
ところが神様はこう言うのだった。
「卑怯者が!」
畢竟、神様はこういうのだった。
──そうだよ。そうだよ。そういうの。俺はそんなんじゃ離れない。
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