面構えが違う

黒い着物を着た少年は本を二冊抱えていました。題は『痴人の愛』と『毛皮を着たヴィーナス』。教育に悪い、と口に出しそうになったが堪えました。

実は、どちらも私の好きな小説だったのです。理由は言いませんが。

皆さんはどうですか。そもそもこの二冊、ご存知でしょうか。



目が明く。

目の周りが腫れぼったい。

──目が腫れているということは、泣いていたということだろうか。

相も変わらず、誰かの言葉が脳味噌を駆け巡る。


柔らかな木の淡い香りが部屋中に漂う、木の柱に土壁の張られた和室。部屋には自分の眠っていたらしいベッドの他には……何も。

──誰もいない?

「起きた?」

糸のような音。繊細で、けれど軽快な声色。

初め、女性の声に聞こえたが、脳で反響させているうちに、男性の声のようにも感じられてくる。

──中性的な。

そう、そんな声だった。

脳天の方に目だけをむける。一冊の本を抱えた狐がいた。違う。狐の面が浮いていた。死角だったので、気が付かなかった。

「おはようさん」

狐の面を付けた、白と赤を基調とした着物を纏ったおそらく女性、が顎を撫でてくる。

──巫女服とは女性のものだ!

──おい!男が着ても良いだろうが!

「ぅが」

少しこそばゆい。

「どうだい?大丈夫かいな」

──大丈夫に、

「……大丈夫」

──大丈夫と返したところで会話にしかならないが。

「そうか。良かった」

表情の読めない狐の面。

「あなたは?」

「それは、名前を聞いている?」

「はい」

「私に名前は要らない」

「名前は言いたくないのですか?」

山本のように。

「違う。名前を付けるのは卑怯者のする事やから。括言主義者はゼンブ気持ち悪い」

──その名前は誰が付けたもの?

陰謀論者が、全ての名前が誰かに付けられたモノだから、信頼出来ないなどと言っていたのを思い出す。

もしかすると。この女性はヤバい人間なのかもしれない。

──陰謀論者が総てヤバいとは限らないが。

狐面を付けている時点で少々。

「……やばい人」

「ヤバいとヒッ括るとは、これまた卑怯やな。括言主義者かよ!ほんま卑怯」

卑怯。その言葉の意味は分からなかったが。

怒った様子だったので、半ば反射的に謝罪した。

「……すみません」

「病人でなければ、何がヤバいか追及してやるところやわ」

「……ほんと。すみません」

自分の粗雑な思考を、追及されるのは精神に甚大でない負荷がかかる。それを強制されるのは地獄だ。

卑怯の意味が少し解った気がする。

──少し。


「ああ、それじゃ。起き上がれるか?」

「はい、すみません」

「すみません病じゃん」

「卑怯ですよ」

──少し理解した気になれれば、その言葉を使用しても良い。

狐面が無表情に僕を睨んだ。

「……」

「……」

──すみませんじゃなくてありがとう、な!

「よし、もう少し寝ておけ。私はおさめてくるから」

僕の腹を撫でてから、狐面は部屋の外に出ていった。少しこそばゆかったけれど、それよりも。

何をおさめるのだろうか。おさめるとは何だろうか。

そんな疑問が浮かんでくる前に、瞼が静かに閉じて、思考がノンレム睡眠へと堕ちてしまう。


──を──を──を──を?

──納める──収める──修める──治める?

──他にも。



外から、猿の鳴き声が何重も重なったような騒音が聞こえて。

目を擦りながら、歩き慣れない部屋をゆっくりと出た。

「お、起きたか!」

狐面が、おはようを伝えてくる。

「……なんか五月蝿くて」

「ほんまや。おさめてて気付かなかったわ」

彼女は、スケッチブックを傍らに指に乗せたナニカの絵を書いていた。

「この鳥さんの絵描いてたんですか?」

見たところ、青い小鳥のように見えるが。スケッチブックに描かれた絵が。有体に言えば、下手過ぎて、なにを描いていたのか分からない。

──描かない奴が、批判する。


「鳥じゃないって……絵じゃないって……」

狐面は僕を睨んだ。僕は苦笑いする。

「じゃあ何なんですか?」

「……卑怯や!卑怯や!」

子供のように叫ぶ彼女に僕は噤む事しか出来ない。

──。

──。

──。


「……そりゃお前。わからんけども。かわいそうになぁ」

まるでな笑みを浮かべて、狐面は僕の頭を、細い指でわしわしと掴んで。

──どういうつもりだ!

「淀み切った思考は総て見切ったり!」

変な事を口走れば。

──怖い怖い!ヤバい!狂人だ!

「アレコレソレは総て見切った!」

頭を掴む力がだんだんと強くなる。

──痛い!──痛い!──痛い!

「ふん!」


「ぅあ」

痛い!痛い!痛い!

後頭部に突き刺すような痛みが走って。全身が叫んでいるような気がして。


「やっぱし、感動詞やな!」


狐面の狂言を反芻している内に。


痛みがひいてきて。



形容しがたい気分。

えっとなんというべきか。

ふわふわしたような気分。

やばい気分。



「ありがとうございます。神様。少し軽くなりました」

神様に感謝を伝えた。


ところが神様はこう言うのだった。


「卑怯者が!」


畢竟、神様はこういうのだった。


──そうだよ。そうだよ。そういうの。俺はそんなんじゃ離れない。












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