水中を揺蕩っている感覚。

 飛び込む高さを度胸試しで競っていた頃に戻ったような、そんな懐かしい触感を覚えた。

 目の前に広がっているのは、あの海の色だ。

 浅瀬の底は砂地になっていてくすぐったかった。

 周りの友達もみんな、日に焼けて真っ黒で、大笑いすると白い歯が浮くんだっけ。

 見上げればいつでもそこに、満点の星空が見える夜。

「?」

 思い出を数えるうちに、左手の付け根に痛みが走る。

 ああそうだ。痛かった。

 痛いのだ、ここは。ずっと。

 これは走馬灯なんだろうか。

「傷を負った事によるショックから来た錯乱、に近いと思う」

 自分のものでない声が降ってきて、驚いて周囲を見回す。

 気がつくと、タツキの身体は起き上がっていた。寝ていたらしい。

 ぱちぱちと瞬きをする。

 見覚えのない部屋で目覚めた頭は、当然追いつかない。

「良い思い出でいっぱいの部屋に逃げ込む。脳の正常な反応。あと……」

 言ったのはクロガネだった。ソファにもたれ、タツキをじっと見ている。

「……いや、いい。気分はどうだ」

「え、喋ってた、私?」

 タツキがばつの悪そうな顔をする。

 クロガネは頷いた。

「走馬灯って聞こえたから。起きたのかと思って」

「…………まあ、起きられて良かったよ。あのまま続いたら嫌な方向に行きそうだったし」

「夢か」

「何だか分かんない。悪夢かもね」

 クロガネはそうかと短く返した。

 まさに寝起きといった様子のタツキは、覚醒とは程遠い、腑抜けた顔をしていた。

「まぶしっ」

 青い光が明滅して部屋を照らしているのを確認する。手で陰をつくって窺うと、テレビがごくごく小さな音で報道番組を流しているのだった。

 映像を見て、タツキは小首を傾げた。

 見慣れたキャンパスが映っていて、その前で何か深刻そうに女性リポーターが唇を動かしている。

 さっきの事件かと納得するまでに、かなりの時間を要した。

「クロガネ、さん」

「ん」

 タツキはすぐに口にすることを躊躇い、数秒置いた。

「……ナイフ病、だったんだ?」

 クロガネはタツキを見た。

 彼女がナイフ病であるというのは根も葉もないただの噂話と思っていたが。案外、周りの目というのはよく見てるんだな。

 タツキが彼女に向かって頭を下げる。

「怯えなくていい、すまない。それと、その怪我も」

 今度はタツキがクロガネを見た。

 タツキが思い描いていたクロガネでは言いそうもない台詞だった。

 謝罪されるのは意外だった。

「いやいや、大丈夫」

 知らないだけの人を嫌な奴と決めるのはよくないんだな、やっぱり。

「私はただ、巻き込まれただけというか、巻き込まれに行っただけというか」

「ああ、そうだな。正義感と命とを秤にかけるのは危険」

 タツキは渋い顔をした。やっぱり嫌な奴な気がしてきた。

「だが助かった」

 クロガネはソファの肘かけから体を起こす。

「あんたのおかげで、あの男は罪を重くした。はずれだったが、結果は上々」

「あの男って、教授の事?」

「教授?」

 不思議そうにテレビを指すクロガネに従うと、学校の映像に合わせてちょうど、彼の実名が報道されているところだった。

「あれのことなら、講師止まりだ」

「へえ。違ったんだ」

「教授だったら、もっと学校の権威は失墜したろうな」

 まるでそうあってほしいみたいに、クロガネは手をひらひらさせた。彼女なりの冗談、という事だろうか。

 タツキは口角を上げた。

「なーんだ」

 あの男。偉ぶっているものだから、教授なのだとばかり思い込んでいた。

 あんな人間にボロクソ言われたところで元から痛くも痒くもないが、かねてより彼が教授である事に疑問を抱いていたタツキは、自身の嗅覚を誇らしく思った。

 クロガネが面白そうに彼女を見る。

「人に興味がないんだな、あんた」

「ブーメランじゃない、それ?」

 看過できずにムッとしたタツキに対し、クロガネは間髪入れずにいやと反論する。彼女がこちらを指してきて、タツキは眉間に皺を寄せた。良い気はしなかった。

「タツキさん、だろ。ファンなんだ。あんたの作品の」

「はは、まさか」

 社交辞令じゃ済まない言葉だ。敵に塩を贈られたも同然。

 普段なら暴れ狂うような台詞だったが、タツキは堪えきれずに吹き出すくらいで済ませた。

 それは彼女自身にとっても心外な反応だった。疲弊しているからなんだろうと、勝手に言い聞かせる。

「詩の心があるクロガネさんが、風刺と言葉遊びだけの詩を好きな訳ないって」

「いーや」

 クロガネは食い下がった。

「私のは、自分の心に我儘なだけ。あんたは違う。自分以外の誰かの詠い方ができる。それは私には出来ないこと。尊敬してる」

 他意のある批評も、まともな講評も聞き流して、自分本位で創作していたタツキにとって、ここまで面と向かって自分の詩が評価されるのは初めての経験だった。

 タツキは言葉に詰まった。

 その時、ドアが開く音がした。

「シノギだ」

 玄関に首を向けたクロガネが立ち上がる。

 数秒おいてやって来たのは、確かにタツキにも覚えのある姿だった。

 黒いレザーのシャツを着た細身の青年は、タツキを見てほっとしたようだった。

「ただいま。ああ、目が覚めたのね、良かった」

「私の鞄」

 にこりとして、シノギは彼女の足元に荷物を置いた。

 私物が手元に戻って来た事に安心すると共に、急に羞恥に襲われる。自分の物に執着するがめつい女と思われたかもしれない。

 そもそもまだ礼も言っていないと気付いた彼女は、弾かれたように頭を下げた。

「あ、あの、ありがとうございました」

 ああこの下手くそめ。取り繕っているのが見え見えだ。

 タツキは恥ずかしくなって顔を伏せた。

「いーえ。困った時はお互い様。切れ者なら、なおさら、ね」

 切れ者、というのはナイフ病罹患者を表すスラングだ。蔑称ではなく、罹患者が自ら使う隠れ蓑の役割をする言葉である。

 侮蔑を込められないのは、元の意味が一役買っているから。

 タツキは慌てて左手首を見た。リストバンドがない。代わりに包帯が巻かれている。湿っている感触がするのは、軟膏でも塗られているからか。

 シノギを見ると、彼は首を横に振ってクロガネを指す。続いて彼女を見ると、彼女は自身の両手を胸の前まであげて、手のひらを見せてきた。タツキの手首と同じように包帯が巻かれている。

「これのついで。気にしないで」

「……ありがとう」

 左手首をもう片方の手で優しく握り、タツキは頭を下げる。

「で、どこまで話したの」

「お前が期待してるようなことはまだ何も」

「まだ何も?」

「お前が来てからのが良いと思って」

「あの。それって私が聞いてても大丈夫な話、ですかね」

 いまいち話の内容が掴めず、タツキが口を挟んだ。

「もしそうじゃないなら、私、また寝ますんで」

「ははは!」

 タツキの立てたお伺いがかなり面白かったようで、彼は脱力してソファに倒れ込んだ。それはクロガネが座っているのとは別の、タツキから見て右に位置するソファだ。クロガネの方と向かい合うようにして置かれている。

「大丈夫、あんたについての話だから」

 クロガネは笑い転げる彼の様子もどこ吹く風で、タツキを見る。彼女は目をぱちくりさせた。

「私?」

「ここにいる二人は、あんたのタグを見た。つまり、あんたがナイフ病の罹患者だと知ってる。その上で、話がしたい」

 クロガネはそこで一度口を閉じ、シノギの笑いがまだ収まっていないのを横目に見てから、またタツキへ視線を戻した。じっと見られたタツキは、彼女が自分を待っているのだということに気付き、ゆっくりと頷いた。

 クロガネの口が再び開かれる。

「私と、シノギ。ここにいる二人もナイフ病罹患者。端的に言うと私達は、ナイフ病を盾にして他の罹患者や非罹患者に害を加えるような、危険人物を追っている」

「ああ、それで」

 それで、あの男を。

 はずれというのはつまり。あの時見た刀はやはり。

 色々な意味で納得したタツキが小さく呟いた言葉にも、クロガネは律儀にそうだと返した。

「ごめん」

 タツキは顔を覆った。

「私、まーじで余計な事しちゃったんだね」

 クロガネは男の悪事を暴く為の囮だった。

 あの時のやりとりも、録音なり録画なりしていたということになる。

 あの場面でタツキが割って入ったせいで、彼女らが本来想定していた筋書きは崩れてしまったはずだ。

 それに、ああも見事な刀を錬成出来るのだ、クロガネにとってあの男がちらつかせた果物ナイフなど、何の脅威にもならないだろう。

 そう、彼女一人で、どうとでも出来たはずだ。

 クロガネとシノギの計画を壊し、怪我を負ってアジトまで逃がしてもらい、挙句、助けてくれた事への礼より前に自分の荷物を心配した。

 何をやっているんだと自分で自分を蹴り飛ばしたくなる痴態だ。

 クロガネが首を斜めに振った。

「いや、私は助かった」

「あそこを舞台に選んだ俺らの責任でもあるしな」

 シノギも彼女に加勢する。ようやく笑いの波が引いたようだった。

 二人の真摯な気持ちが温かく、タツキはもう一度、謝罪と感謝を口にした。

 クロガネがふ、と笑った気がした。

「それにしても大捕物だったなあ!」

 すっくと立ち上がったシノギが、興奮気味に言う。

「俺は気配を消して陰から撮影してた訳だけど、ほんと、凄まじかった。突然背後から掴みかかって、相手は刃物を持ってて、対する自分は空手だぜ。勇気と覚悟は表彰もんだ。あれ目の当たりにしてる俺のスリルときたら!」

 タツキを讃えるように両手を広げた彼は、そこまで言ったところで、がくりと膝を付いた。

「うっ」

 眉間に皺を寄せ、痛みに耐えているような素振りを見せる。

 シノギの体がぐらりと揺れた。

 突然のことにタツキの全身が強張る。彼の手は床に付いて体を支えているものの、今にもくずおれそうだ。

「大丈夫ですか!」

 駆け寄ろうと腰を上げたのを、クロガネに止められる。

「放っておけ」

「で、でも」

「いつもの発作」

 そう言う彼女は落ち着き払っていて、シノギが浅い呼吸を繰り返しているのを静かに見守るのみだった。

 タツキは、クロガネにともシノギにともとれる質問を口にする。

「私に何か出来ることは?」

「気にしなくていい。いつものこと」

「そんな、あんなに辛そうなのに!」

「命に別状はない」

 押し問答をしている内にも、彼の顔はみるみる青ざめていく。

 これ以上クロガネと言い合っても仕方ないと決意したタツキは、彼に近付いた。その背に手を延ばす。

 せめて背中でもさすってやれば、いくらか気分も落ち着くはずだと。

 しかし。その刹那。

「おえ」

 苦しげにシノギがえずいたのと、ほぼ時を同じくして、鈍い金属音が鳴り響いた。

 タツキが目にした光景は、信じがたいものだった。

「……えっ?」

 ナイフ。

 先程までそこに無かった、あるはずの無い、銀色のナイフが、シノギの手元にカランと転がっていたのだ。あの男の果物ナイフが可愛らしく思えてくるような、戦闘用の厳めしいナイフ。

 タツキはシノギとナイフとを交互に見た。

 彼女が目にしたもの。それはつまり、彼がこのナイフを吐き出したという事実に他ならなかった。

「え、えええええっ!?」

 稲妻で打たれたかのような衝撃が走る。

 タツキはただただ叫ぶ事しかできなかった。既にキャパオーバーとなっている彼女の頭は、パンク寸前。理解しようとする前に、脳がそれを拒否した。

 固まっているタツキを見て、クロガネは呟いた。

「妙だな」

 そのまま、口元を拭っていたシノギに向かって声を飛ばす。

「なあ。あのタグ。ナイフ病の罹患者以外に用いられることって無いよな」

「切れ者の象徴シンボルだぜ。ある訳ないだろ」

 息切れしつつも、彼はそう答えた。

「なんで?」

 シノギがクロガネを見ると、彼女はタツキの方を視線で指した。

 まるで時が止まったようにナイフを凝視している彼女を見上げる形になったシノギは、クロガネの言いたい事が分かったのか、ぽんと膝を打った。口の端が吊り上がっている。

「あー…ははあ、さてはお嬢さん、ろくに説明もされずに烙印を押されたクチだな?」

 タツキは尚もショックから抜け出せていない様子で、壊れたロボットのようにシノギと、床のナイフとを交互に見ている。

「タツキさん」

「あ……あっ、は、はい」

 クロガネの呼び掛けで、彼女はようやく息を吐いた。呼吸を忘れる程、驚いていたらしい。

「タツキっていうの、ふうん。じゃあ、タッちゃんだね」

 血色の戻ったシノギが、こともなげにその場からタツキを立ち上がらせ、元いた毛布の山に座らせる。

「タッちゃん、まあまずは落ち着いて。ショッキングなとこ見せて悪かったね」

 謝る気はあまり無さそうな態度のシノギがソファに戻っていく。

 彼は体をソファに預けて、顎を撫でた。

「俺らの見立てでは、タッちゃんは罹患者だと診断されたものの、そこが専門機関じゃなかった上に、怯えた担当者がまともにナイフ病の説明をしなかったのかな。そのせいで、ナイフ病についての知識が、非罹患者と同等程度にしかない」

「同等か、それ以下」

「そうね。そんな感じだと思った。どうかな、合ってる?」

「…………やっぱりそういうの」

 シノギの言葉を咀嚼して、段々と元の調子を取り戻したタツキは、膝かけに目を落とす。

「分かるもの、ですか」

「あんなにびっくりされちゃあね」

 飄々とシノギが両手を挙げた。

 タツキから、感服の笑いが漏れる。

 実際、二人の推理は当たりも当たり、大当たりだった。

 これまで彼女が躍起になってナイフ病の情報収集をしてきたのは、無論、創作の為でもあるが、最たる理由は、自分の身に何が起きているのかを知りたかったからだ。

 タツキは目を閉じた。

 流星の降る島と呼ばれる、美しい星空で有名な島。

 そこで生まれたタツキは、周囲から大事にされて育った。数少ない子供はみんながみんな友達で。学校が終わって帰ればすぐに飛び出し、遊び、夕暮れになればそのうち大人まで集まって、歳の差など無いかのように海辺で過ごす。

 良い子供時代を過ごしたと、今でも胸を張って言える。

 だが、そんな故郷ですら、いや寧ろ、そんな閉鎖空間だったからこそ、ナイフ病の脅威もまた凄まじかった。

 彼女の手首のタグを見て、それでもまだ以前のように接してくれる人間はいなかった。ただ嫌悪と恐怖、それと僅かな憐れみの眼差しで、彼女を遠巻きに見るだけだった。

 母親が泣いているのを見た時、タツキは島を出ようと決意した。

「都会ならよっぽど情報が集まるでしょ。たとえ不治の病でも、何もしないでいるよりマシ。調べていけばもしかしたら、治す方法も見つかるかもしれない」

 誰にも明かした事のない、タツキの心の内だった。

「治したいんだ」

「だから、東京に?」

「うん。そう。結果は、知っての通りこの有り様だから……もしかしたら、無駄な足掻きだったのかもね。意味なんて、なかったのかも」

「意味くらい後からいくらでもつけ足せる。行動を起こすこと自体が尊いんだ」

「そうとも」

 シノギが頷きながらナイフを手に取った。その切っ先をタツキに向けながら。

「道を切り拓いた。その結果、俺らと出会ったんだ。凶悪犯に立ち向かったあの勇気に対する礼くらい、貰ったってバチは当たらねえだろう」

「詫びの間違い」

「後ろめたいみたいだろ、詫びだと」

 シノギはあっけらかんとしていた。

 やれやれ、とクロガネはため息をつく。しんみりと下唇を噛むタツキに、彼女は気遣わしげな目を向けた。

「ナイフ病を知るというのは、罹患者の義務でもあるが、何より権利でもある」

 タツキは黙りこくっていたが、クロガネの話を聞き流してはいなかった。彼女に応える為、ゆっくりと頷いた。

 マグカップに口をつけて、クロガネが言う。

「あんたの行動が助けになったのは事実だ。感謝したいのは私も同じ。協力させてほしい」

「…………ありがと」

 目頭が熱くなる。溢れてくる涙がこぼれ落ちないように堪えるのに必死で、タツキは上手く喋れなかった。シノギも、クロガネを茶化さず、口を挟まずに優しい笑みを浮かべる事を選んだ。

 一口飲んだクロガネは逡巡した後、カップを持ったままソファから立ち上がった。

「温めなおしてくる。ついでに、あんたの分も持って来るから」

「俺も俺も」

「自分でやれ」

 ぴしゃりとクロガネに断られたシノギが、文句を垂れながら彼女の後に続く。

 ひとり残されたタツキは、自然とテレビを眺め始めた。

 流れているのは、ナイフ病に関する報道だ。異変を感じたらすぐに病院へ行くこと、とスーツの男が繰り返している。

「罹らない為には、気をつけるしかない、というのが現状です。インターネットには誤った情報もたくさん載せられています。鵜呑みにせず、まずは落ち着いて信頼できる媒体から情報を集めて下さい」

「そうそう。例えば、ナイフ病は伝染する、とかな」

 音もなく戻って来たシノギが、部屋の入り口でそう言った。その腕には刀が何本か抱えられていた。

 タツキは面食らう。

「しないんですか」

 それこそ、先の事件であの講師の男が放った“ナイフ病の罹患者に斬り付けられると感染する”というのが嘘なのは分かったが、その他の感染症の様に、人から人へうつるものだと考えていた。

「しないよ。罹患者が非罹患者をナイフ病にする、なんて。そんな吸血鬼やゾンビじみたこと、出来ない」

「実際、吸血鬼もゾンビも一般にはそう信じられている、というだけだからな。ナイフ病はある種、現代社会ナイズされた〝人の形をした化け物〟ともいえる訳だ」

 随分な事を言いながら、クロガネも帰ってきた。両手にマグを持って、片方をタツキに差し出した。湯気が立ちのぼっている。甘い匂いがした。

「ココア」

 中を覗き込んで、タツキが声をあげる。

 彼女の表情がほどけてゆき、クロガネに感謝を述べた。

 刀を置いたシノギも、自身のコップを傾けて笑う。

「言うねえ」

「未知に恐怖するのは人間の生存戦略。大勢が感化されるのは自然の流れ。知ろうとしても一定以上を知れない。そうなる様に規制されてるんだぞ。怖くて当然」

 きっぱりと言う彼女に、シノギは頼もしそうに頷いた。

 タツキはマグカップを包み込んで、両手を温めていた。

「規制は、どうしてかかってるんでしょう」

「なんてったって、まだ五年。全部が分かっちゃいないからなあ。それも重要なとこが。だから、断言可能なとこまで研究が進めば、ってところだな」

「病原菌が存在するような感染症じゃないだろうが、絶対にそうとも言い切れないから、注意して下さいとしか言いようがないんだ、マスコミなんかは」

「そういう報道を勘繰って、憶測で固められた結果が今、っつうことだなあ」

 腑に落ちた様子で、タツキはココアを一口飲んだ。

 そして、おやと首を傾げた。

 クロガネがタツキを見る。

「口に合わなかったか。いつもより甘くしたんだ」

「あ、ううん。ココアはすっごく美味しい」

 クロガネに笑いかけてから、タツキはシノギに問うた。

「病原体が分からないのに、ナイフ病だと分かるものなんですか」

「おっ鋭いねえ。じゃあ、お次はナイフ病と診断されるにはどんな要素が必要かをお話ししよう」

 気が散るから、と彼はテレビを消した。

 室内が暗闇になったと思ったら、明かりがつく。見ると、クロガネが壁のスイッチを切り替えたところだった。シノギの行動を読んでいたらしい。

「ナイフ病は自覚症状の有る無しに関わらず、採血が主な診断基準。タッちゃんも血、採られたでしょ」

 思い返してみれば確かにそうだ。タツキは頷いた。

「ナイフ病は、体内で金属が生成される身体異常が症状として現れる。あ、主な症状ね、もちろん」

 シノギはタツキの様子を逐一、確認しながら話した。

「だから血中における金属物質の濃度が高いか、もしくは他の金属成分を含有している場合、ナイフ病の疑いありと診断される」

「一発でナイフ病と認められるのが重度の症状、つまり精錬された金属の体外での発露。タツキさんの場合は……あの様子を見るに前者か」

「だろうな」

 シノギが同意を被せた。

「……てことは、私、ナイフ病予備軍だったんですね。完全な罹患者ではなく」

 初めて知った事実に愕然として、タツキは手首をちらと見る。

 シノギも腕を組んだ。

「世間の風潮で、ナイフ病とはっきりしていない患者にもタグを付けちゃう病院も増えてるらしいからなあ」

「疑わしきはなんとやら、だな」

 澄まし顔でクロガネが言った。

「結果、ナイフ病の威を借る輩が出てくる訳だ。腹立たしい」

「まあまあ。それを懲らしめるのが俺らの役目だから」

 そう説いてから、シノギはタツキに向き直る。

「ナイフ病と診断された時、医師が患者に話すべき事は三つ。診断基準、人に感染しない病気であること、ナイフ病の主な症状と特徴について」

 シノギは指を折り曲げていった。

「俺らみたいな重度の罹患者は、体外に金属を排出する仕組みを持つだろ?」

「はい」

「じゃあ、その仕組みが具体的にどんなもんなのかは知ってる?」

「えっと、分かんないです」

 タツキは考える素振りを見せてから、首を横に振る。

 彼女の反応を見ながら、シノギは愉快がってけたけた笑った。

「そらそうだ。俺らだってちゃんとは分かってねえんだもの」

「そうなんですか?」

「んんん、そうねえ、実はそうなのよ」

 シノギの足下に転がっている刀のうちの一振りを、クロガネが手にとった。

「感情の起伏に呼応して、金属が精錬されんだ。どんな感情によって、どんな金属を形作るかは個人差が大きくって。どの部位からそれが排出されるか、なんてのも人それぞれ」

「私の場合は、強い怒り。これに応じて手のひらから刃が顕現する。あんたは、見てたよな」

「うん」

 彼女が抜いた刀を見つめる。

「……もしかしてそれ全部、クロガネから?」

「ああ」

 クロガネが頷く。

「感情の強度がそのまま刃の強度になるんだ。激情であればある程、その時生まれる刃は鋭く、切れ味も増す。業物にするには、精神を落ち着けること」

「えっ、それって共存できる作業なの?」

 タツキが首を傾げた。

 激情と精神の安定は、対極にあるものだと思うが。

 クロガネは少し黙ってから、刀を鞘に納めた。

「あんた、言霊を信じるか」

「は?」

「なんと言ったらいいか…シノギ」

「こいつは刀を精錬する時に詩を詠むんだよ。必殺技の詠唱みたいにな」

 クロガネを見かねて、シノギがあとを継いだ。

「かっこいいぜ、センスあるしな。俺あれ好き」

「……言葉に激情を乗せ、精神は研ぎ澄ます。そうやって生み出した刀は、業物になる。無論、怒りのままに打った即席でも、切れ味は保証できるが」

「じゃあ、さっき駐車場で見えたのは」

「あれも即席だな。あとで柄を巻かないと」

 タツキは、包帯で巻かれたクロガネの手のひらをじっと見つめ、真っ二つに斬られた果物ナイフを思い返して身震いした。

 その場凌ぎの威力と表現していいものではなかったと思う。

「とはいえ、任意で出したり引っ込めたり出来るものじゃない。自分の体も傷つくし、ちゃんと痛い。ただ、そういう大事なとこだけ世間に広まってないんだ、何故かな」

「俺らがナイフ病を盾にする奴らを取り締まってるのは、そういった諸々の理由のせいで誤解を受けやすい罹患者の名誉を守る為でもあるんだぜ。どうにか、分かってもらいたくてなあ。怯えて目が曇るほど、神経質になる必要はないのよって」

「だからといって甘く見てると損するのが今の社会だけどな…まあ、そういう意識の均衡を取る為の鎺か」

「はばき?」

 聴き慣れない単語に思わず訊き返す。

 ああそうか、と、クロガネが合点がいった様に頷いた。

「そういえばまだ名乗ってなかったな。鎺。私達の名だ。刀の部品からとった名称。刀身を浮かせて守り、必要な時にのみ抜刀を可能にする働きを持つ留め具をそう呼ぶ」

 シノギが別の刀を持ち上げて、タツキに示した。

「ここね、ここ」

「へー……?」

「難しく考えなくていいぜ。正味、俺らもあんま気にしてないし」

 タツキの眉間に皺が寄っているのを見たシノギは苦く笑った。クロガネも、確かにと相槌を打つ。

「特に重要視はされてない。そう呼ぶんだ、とだけ知っておいてくれれば」

「お、おっけー」

 怪訝ながらもタツキは親指を立てた。

 あまり理解は出来ていなかったが、それよりも他にも訊きたいことがあるので、ひとまず、だ。

 彼女はそのままシノギを見た。

「シノギさんは、さっき、何であんな風に……?」

 自分の醜態を掘り返されたシノギは、わざとらしくきゃあと言った。

 クロガネが冷たい視線を送る。

「あれがシノギの症状。緊張と興奮が引き金」

「簡単に言っちゃうとまあ、スリルを覚えた時だな。ナイフを吐くんだ。俺の場合、体内を傷付けずに排出されるから痛みもないし、血も吐かないで済むんだけど」

 彼がへらへら笑う。

「タネも仕掛けも無いぜ」

 シノギは両手を開いて差し出す。

 タツキは、シノギの態度が信じられなかった。そんな軽薄に言えてしまうことなのか。会って間もない人間に、冗談めかして話せてしまうことなのか。

 つい先程の、床に這いつくばっていた彼の姿を思い出す。

 だってあんなにも。あんなにも、苦しんでいたのに。

 唖然とする彼女をよそに、シノギの話は続く。

「さっきの、タッちゃんが男に掴みかかったとこ。あん時も実は俺、発作が出ちゃってさあ。カメラ越しの映像が逆にリアルっつうか、もう大興奮で。それで駆けつけるのが遅れちゃったんだわ」

「そんなとこだろうと思った」

 クロガネは呆れ顔だ。

 シノギがタツキの傷を指さす。

「タッちゃんが斬りつけられたくらいで、流石にやばいなと思って我に返ってさ、慌てて間に入ったけども。ほんと、ごめんなあ。女の子の体に傷をつけちまって」

「それについては本当に悪かった。なるべく穏便に済ませようとした私達が甘かった。結果、通りすがりのあんただけが怪我を負った。よくないこと、実に」

「いや……うん。痛いは痛いけど、大丈夫。この経験は苦い思い出。良い教訓って事で、肝に銘じとくよ。私はそれよりも、二人が自分の症状を他人事みたいに話せちゃうのが……凄く悲しいなって思った。私、自分以外の罹患者に会ったの、初めてなんだ。重症の人は、みんなそんな感じなの?」

 シノギとクロガネが静かに顔を見合わせる。

「まるで、二人とも、治りたいって……治したいって、思ってないみたい」

 口走ってからハッとして、タツキはそこで口を噤んだ。

 今のは、あまりにも配慮に欠けている発言だった。

 彼らはタツキよりも重度の罹患者である。治療したいのは山々だろうに。

 長く、息を吐いてから、シノギが口を開く。

「そらあ、治せるもんなら治してほしいよ」

 声には無念が乗っていた。

 咄嗟にタツキは頭を下げる。

「ご、ごめん、失礼なこと言って」

「……いやぁ、いいさ。実際、鎺の連中はナイフ病の恩恵に肖ってる。だけど、本当は居ない方がいいんだ、そんな奴は。病のせいで本当に、もっとずっと苦しんでる奴が居て、もっとずっと救われたい奴が居るのを、俺らは知ってる。ナイフ病の特効薬やら特異療法やらが発明されれば、ナイフ病の脅威は薄れ、それを悪用する奴も減るだろう。俺らはお役御免だが、それが一番いい未来だ」

 クロガネは、ふ、と寂しげに目を伏せた。

「だとしても俺らが治療を受け入れるのは、他の全ての罹患者が治療を受けた後だぜ。刃を守る。それが鎺だからな」

「そっ…か」

 タツキは、ただそう返すしかなかった。

 これが彼らの信念であり、覚悟なのだと、痛いくらいに伝わって来たからだ。

 シノギが眉尻を下げる。

「いじわる言ってごめんなあ。タッちゃんはナイフ病を治したくて、ひとりで頑張ってきたんだもの。そういう気持ちを持って当たり前よ。大丈夫」

 その言葉に、クロガネも頭を上下させた。

「ちょっとやそっとじゃ、俺らは傷つかないからさ」

 シノギはまたへらりと口角を上げた。

 裏を返せばそれは、今までもっと酷い目に遭って来たということだ。

 彼らは痛みに慣れてしまっているのだ。慣れてしまうくらいに、経験してきたのだ。タツキは胸に手を当てた。

「これ、書かなきゃ」

 彼女の瞳に光が宿る。

 シノギが足元に置いてくれた、自分の鞄をあさった。痛みと脱力で左手がうまく機能せず、痺れを切らしたタツキは、大胆にも鞄ごとひっくり返した。

 ばさばさと床で音を立てる私物から、目当てのノートを探し当てる。

 落ち着きない彼女の行動に、シノギが腰を浮かせた。

「なになに、ご乱心?」

 問われたクロガネも、さっぱりといった顔で首を横に振る。

 タツキは愛用のノートに、己の気持ちと、彼らの心を綴った。

「い、った……」

 左手が言う事を聞かず、思うようには書けなかった。

 彼女が何か書いているのを確認したクロガネは大きく頷いた。

「ああ、新作の種だ。臨場感のある新鮮な匂い」

 シノギはしきりにどういうことかとクロガネに訊く。しかし彼女は眉を上げ、

「傑作の予感」

 とだけ呟いた。

 タツキは自分が左利きであることを恨めしく思った。

 ペンを持つだけで痛みが走り、力は入らず、一文字書くのにもやっとだった。

 涙が滲む。

 それでも、書いておきたくて、時間をかけて歪んだ字を綴っていく。

「あっちにやっとくぞ」

 散らかった荷物の山から、ココアを避難させるために近寄って来たクロガネにも、タツキはあまり気がついていない様子だった。

 タツキのマグカップをローテーブルに置き、再び彼女にクロガネの影がかかる。

「触るからな」

 彼女はタツキが特段何も言わないことを確認してから、周囲を整頓し始めた。

 図書館から借りてきたであろう蔵書、ファイルから流れ出た書類、はなればなれになったミントのガム、財布、ポーチ、眼鏡ケース。それらを丁寧にひとまとめにしていく。

 その間、彼女の側では痛みを堪えるような呻きをあげて、タツキが言葉を書き連ねていた。

 書類を整理していたクロガネは、一枚のレポート用紙に目を留める。

 他と同様に上から下へ流し読んだところで、彼女が珍しく大きな声をあげた。

「シノギ!」

「何よ」

 ひとり蚊帳の外にされていたシノギは、拗ねてしまって、コーヒーを飲んでいるところだった。彼女達に完全に背を向けてまでいる。返事も若干、不貞腐れていた。

 しかしそんな態度も、クロガネの続く台詞で一変する。

「CASE:712の研究書類」

「マジ」

 飛び起きた彼は、すぐさまクロガネの隣に座り込む。差し出された紙をひったくって、目を通していく。

「間違いない」

 シノギが目を見開いた。

 彼のそう結論づけたのと時を同じくして、タツキが顔を上げる。

「あ、それ」

 作業が一段落ついたのか、ペンを置いていた。

 シノギが彼女に詰め寄る。彼は用紙を、自身の顔の横まで持ち上げた。

「これをどこで?」

「図書館。学校の」

「所蔵されてたのを見つけた?」

「違う。貰ったの」

「誰に」

「図書館の、事務の人。私の調べものをいつも手伝ってくれてて」

「その人の名前は?」

「え? えーっと……」

「シノギ」

 のめっていく彼の体を、クロガネが引き戻した。突然の質問攻めに、タツキも狼狽している。それを見たシノギは素直に反省した。

「ごめん。急にいっぱい訊かれても困るよな」

「い、いや大丈夫。びっくりは、したけど」

 気にしていないという意で、タツキが首を横に振る。

 彼女は記憶の中で、彼の首にかけられていた名札の文字列を、必死に思い出そうとしていた。だが、どんなに頭を捻っても、ついぞ先生の名前が出てくる事はなかった。

「今ちょっと思い出せないや。いっつも先生って呼んでてさ」

「そうかあ」

 残念そうにシノギが俯く。

 タツキには彼がそんなに必死になる理由が分からなかった。

「それ、私も読んだけど。ナイフ病と関係あるの?」

「俺らも追ってるとこ」

 それきりシノギは黙ってしまった。

 タツキは、彼の手の中にある用紙をじっと見る。

「……感情発露症候群」

 代わりに口を開いたのはクロガネだ。

「難病であり不治の病。報告されている症例はナイフ病に酷似。精神の興奮によって、本来は体内に無いはずの物質が、質量を持って体外に排出されるというもの」

「うん」

 頷いてクロガネを促す。

「確認された患者は後にも先にもCASE:712のただ一人。ナイフ病の発見よりも前だった事が分かっている」

 クロガネがシノギを見やる。

 彼女の視線に気がついて、シノギはぱし、と紙を弾いた。

「俺らの推理ね。感情発露症候群、及び罹患者のCASE:712は、ナイフ病のプロトタイプである」

「え、ええ?」

 目を白黒させて、用紙を指さす。

「そんな事、どこにも」

「書かれてない」

 紙面から目を動かさずに、シノギが短く言った。

「このページには、な」

 彼の言葉にそう付け加えたクロガネは、立ち上がって部屋の隅に向かった。そして、手に一冊のファイルを携えて戻ってくる。

 出席簿みたいだとタツキは思った。

 紐で括られた左綴じの、艶のある黒い表紙のファイルだ。

「見せても?」

「どうぞ」

 シノギの了承を得てから、クロガネはそれをタツキに渡す。右手だけで受け取った彼女の意に反してファイルには重みがあったが、力を込めた事で、辛うじて落とさずに済んだ。

 開いてみると、中には十枚に満たないくらいの紙が収められていた。どれも、タツキが持っていたレポートと同じ様式、文体で書かれ、一目でそれらが同じ人間によって制作された物だと分かる。

 驚いて見入っていると、シノギが足をパタつかせた。

「ナイフ病ってのは、俗称が広まってそのまま病名になっただけでね。今んとこ、この病の正式名称は、ないか、秘匿されてるかの二択だ」

「じゃあ、感情発露症候群が、もしかしたら……」

「もしかするかもしれないってこと」

 タツキは、図書館での彼とのやりとりを思い出す。

「先生はCASE:712がナイフって読めるから、ナイフ病と繋がりがあるのかもしれないって」

「へえ? 面白い事考えるね」

 シノギは舌を出す。

「けど残念。ナイフ病が世間からそう呼ばれる様になった原因は別にありまーす」

「そりゃ私だって真に受けてないですぅ。CASE:712なんて今日知ったし、非罹患者の先生が知ってるとは思えないし」

 ムッとしつつも、タツキは顎に指を当てた。

「……言われてみれば確かに。ナイフ病がなんでそう呼ばれてるのかなんて、調べたこともなかった」

「理由はごくごく単純明快」

 眉を顰めた彼女に対し、シノギは自身の首を片手で包み込んだ。

「一番初めの罹患者が、ナイフを吐き出す奴だったからさ」

「え」

 タツキがまじまじと、口角を上げる彼を見る。

「それってつまり」

 彼女に指されたシノギは黙って頭を縦に振った。

 タツキは絶句した。

「ま、だから何って訳でもないんだけどねえ」

「最初にナイフ病と称したのは、シノギに付いた医師と研究者達だ。“先生”とやらが言ったようにCASE:712のもじりという線もある。そもそも、故が一つだけとも限らないし」

「それもそうね」

 クロガネに同意して、タツキの手にあったファイルを取る。

「だとしても。一番初めに罹った奴も、治療法なんて分かんねえのよ」

 シノギから、諦めに近い笑みがこぼれていた。彼はおもむろに立って、そのファイルを戻しに行きながらこうも言った。

「治らないと腹を括ってみるのも肝要よ、お嬢さん」

 クロガネがかすかに目つきを変えた。

 振り向いたシノギには、さっきまでの陰りは見られなかった。

 彼は笑顔で、ポケットから取り出した小さなナイフを、手の中から消してみせる。

「タネも仕掛けも無いんだ」

「……なら」

「うん?」

「CASE:712なら。分かるかも。最初の罹患者にすら、分からなくても」

 顔を上げたタツキの瞳は、強い決意に満ちていた。

「私、CASE:712を捜します。私は治したい。治す方法を見つけたい。どんなに無いと言われても、可能性がある限り、諦める気はない。その為に、その為に私は、ここで生きている」

「あのねえ…」

「それはいい」

 シノギを遮って手を打ったのはクロガネだった。

「協力しよう。鎺とあんた。お互いに」

「マジで言ってる?」

 信じられないという風に、シノギが首を横に振った。

「この計画に関わるには脆弱すぎる」

「協力関係を結ぼうと言っているだけだ」

「認めない、認められない。鎺の頭目として、一介の罹患者にこれ以上深入りさせる訳にはいかない」

「悪事を暴くのが常の鎺とは別に、自由に動ける彼女がいれば、こちらも都合がいいはずだ。彼女が治療法を見つける事に専念してくれるなら、鎺の足並みも揃う」

「いいや、だめだめ。危なすぎるもの。その子の手首をご覧よ。俺らみたいに咄嗟に抵抗出来ないんだよ」

「咄嗟に抵抗出来る奴が守ってやればいい」

「何よ、お前にしてはしつこいね」

「ああ。私達がどうしようと、彼女はやめないだろうから。だったら、鎺と共にある方がいい」

「……ふうむ」

 正直タツキには、何故クロガネがここまで自分の肩を持つのか理解出来なかった。彼女が言った通り、鎺にどう扱われようと、それはタツキが調査をやめる理由にはならないというのに。

 顎に手をやりながら、シノギは手品で消したポケットナイフを弄んでいた。虚空を見つめて唸っている。思案を巡らせているのか、顔は真剣そのものだ。

 クロガネの言う事にも一理あると彼は思っていた。危なっかしい存在ならば、尚のこと監視下に置いた方が良いというのは正論だ。罹患者の彼女は、鎺に守られるべき位置に居る。クロガネは常に、最良の結果を考えて発言する。今回の提案も悪いものではない。

 ただ。シノギが再三言った通り、タツキは軽症患者で、非力だ。刃を扱いこなす重篤患者に襲われようものなら、真っ先に危険が及ぶ。

「ううーん」

 シノギはクロガネを見た。

 それを守ってみせると、彼女は言った。あの、クロガネがだ。

 悩んでいる体を装ってはいたが、シノギの心は半分決まっていた。

 タツキがシノギに向かって頭を下げる。

「私の身を案じてくれているなら、それは、ほんと、ありがとうございます……でも、なんかシノギさん、ナイフ病を大きく見すぎだと思う。だって、ナイフ病じゃなくたって、戦う術は幾らでもあるでしょ」

 タツキは僅かに憤っていた。

「病床の命は掛け捨てですし?」

 彼女の鼻先がつんとそっぽを向く。

 シノギから乾いた笑いが漏れた。嘲りと、憧れが混じっていた。そこまではっきりしているのなら、何も言うまいと彼は思った。

 彼は両手をあげて、降参のポーズをとる。

「わかったよ。歓迎は出来ないが、協力は認める。CASE:712の件について、君も一枚噛む事になる。刺客に襲われたら、お前がちゃあんと守ってやれ」

 目を合わせられたクロガネは、睫毛を伏せて頷いた。

「任せろ。一人が二人になるだけだ」

「最近のお嬢さん方は逞しいねえ」

「いつの時代だって、女は強い」

「頼もしいこと。んじゃ、タッちゃん。明日からスリーマンセルだ。CASE:712の更なる調査を進めよう」

「それなら私、先生に相談してみます。きっと力になってくれるはず」

「あー……多分それは、ない」

 クロガネの気まずそうな声が割って入る。

 水を差すような発言に、タツキは訝しんだ。顔を向けると、彼女はスマホの画面を見つめていた。表情が少し険しい。

「ないというか、出来ない」

「どうして?」

「学校から連絡だ。一斉メール。今回の事件を受けて、一週間は完全に学校を閉鎖。その後、警備を強化した施設から徐々に開放していくらしい。事件が起こった場所は最後に開放するそうだ。地下駐車場の上だったよな、図書館は。だから、当分は、開かない」

「そんな」

 タツキにとっては彼もまた頼りだったのだが、当てが外れてしまった。

 ここまで学校の尻拭いが大掛かりになるのは想定外だったらしく、クロガネもため息をつく。

「困ったな。その先生とやらには、私も是非お会いしたかったんだが」

「その彼、どうも怪しいなあ。何かのタイミングで鎺の影に気がついて、この事件を隠れ蓑に逃げようって魂胆か。この事件に乗じて、学校の警備が強化されるよう仕向けたかな」

「先生はそんな事しない!」

「ああ、いじわるだったなあ。けど、考えられる全ての仮定を考えてみなくっちゃ。ナイフを吐くその時まで、自分がナイフを吐く時が来るなんて思ってもみなかったんだから。そうだろ?」

「でも、そんな人じゃないです」

 タツキは鼻を膨らませた。

「決めました、私、先生の無実も一緒に証明してみせますから」

 彼女が喧嘩腰で宣言しても、シノギは手を叩いて頑張れなどと言うものだから、余計に腹が立つ。

 肩を怒らせてから、またタツキはそっぽを向いた。

「もう寝ます」

 初めに起き上がった場所、毛布の山にばさばさと潜り込むと、彼女は眠りについてしまった。

 山からくぐもったタツキの挨拶が聞こえた。

「おやすみなさい!」

「あらら」

 シノギはクロガネを見た。

「嫌われちゃった」

「芯が炭になるぞ、あの勢いだと」

 クロガネが肩をすくませる。

 タツキのココアはしっかり空になっていた。クロガネは静かにそれを持ち上げ、洗い場に向かう。自身の物も、ちゃんともう一方の手にあった。

「何であの子を気に入ってんの」

 シノギが冷めきったコーヒーを飲み干しながら歩いて来た。

 迷いなくクロガネが答える。

「彼女の詩のファンなんだ」

「それだけ?」

「それだけ」

 泡のついた手で、シノギの手からマグを取り上げる。ふうんとかへえとか言いながら、彼はクロガネを見定めるかの様に目を細めていた。

「妬けるな」

「はは、勝手に燃えてろ」

 クロガネは可笑しそうに言って、リビングを見やる。

 つられてシノギもそちらを向いた。

「そういえばあの毛布の山、お前がやったの?」

「ああ」

「不器用すぎんだろ」

「うるさいな」

「あれじゃあ寝床ってより、巣だぜ、巣」

 二人の言い合いは、徐々に小声になっていく。

「……消してやるかあ、あっちの電気」

「頼んだ」

 幸か不幸か、いつもは賑やかなアジトも、今はちょうど人が出払っていて、どこも静寂に包まれている。

 タツキの潜っている毛布の山に苦笑して、シノギが壁のスイッチを押した。程なくして部屋が暗くなる。外の明かりも差し込んでは来ていたが、こんもりとした布の山の中に居るのなら気にもなるまい。

 カーテンは開けたままにした。

 この時期なら冷気が伝うこともない。

 毛布の巣へ、シノギはいっとう優しい声をした。

「それじゃ、おやすみ」

 彼はシンクへ戻っていって、クロガネにも同じ様にしたが、はて、という視線を向けられただけだった。

 遠くでまた、サイレンが鳴った。

 あの事件だか事故だかも、朝が来れば電波に乗る。

 そこに真実が流れる日が来るのを、シノギは心待ちにしている。

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