タツに突く

山城渉

諸刃の正義


 ナイフ病。

 現代社会に突如として現れ、瞬く間にその名を広めた謎の病。

 感染源、不明。

 感染経路、不明。

 症状、不明瞭。

 罹患者、増加傾向。

 その大部分が解明されていない、全く新しい未知の病。

 一般に、そう流布される……“奇病”。

 罹患者には特殊な能力が備わるという、いわくつきの噂だけが一人歩きして、この現代社会において随分と幅を利かせているのだ。症状さえ特定できない病のくせに。

 すり鉢状の教室の外縁でひとり、タツキは、端末に接地した親指の腹を、つまらなそうに上下させていた。

 あの都合の良い病が世に広まってからというもの、世間はこぞってナイフ病を事件や事故の犯人に仕立て上げている。挙句、逮捕された人間が、自分はナイフ病だからなどと罪逃れに使う始末だ。

 ニュースアプリは開いて固まり、ようやくのろのろと動きだす。

 教室内の電波が悪い。タツキは小さく舌打ちした。

 画面へ不規則に浮かんできた見出しにはどれも、ナイフ病の文字が見えた。閲覧数稼ぎだかなんだか知らないが、流石に『動物園で生まれた赤ちゃん特集』にその言葉を入れるのは、些か必死すぎやしないだろうか。

「次はタツキさんね」

 冷めた目で画面を眺めるタツキを嗜めるような、ボソボソ声がこだました。

 声の主は、すり鉢状の底に教壇を構え、ゆったりと座っている教授だ。タツキは画面を爪でひっかいたが、気にせずアプリの閲覧を続けた。

 何を言われるかは大体分かっているからだ。

「これね。まあ口当たりは良いけれど、まるで中身がね……実際、読み手に対して何を伝えたいのか、言い換えれば、貴方が何を言いたいのか分からないんだよね。詩として鑑賞するならね、まあ言ってしまうと僕は好きじゃないなあ。風刺とか言葉遊びがしたいのなら、ラッパーにでもなったらどうかなといった感じだね」

 早口で言いきった教授は、ペラ一枚の提出用紙を「添削済・返却」のファイルに入れた。

「次はクロガネさんだね」

 教室が俄かにざわついた。タツキの指が止まる。教授の声は明らかに柔らかくなっていた。

「これはね、良いね、凄く。クロガネさんのはいつも良いんだけど、今回も良かった。型破りな面もあるけど、詩の心がとても伝わってくる。良い詩でした」

 教授はそう言った後に、提出用紙を「添削済・保管」のファイルに入れたのだった。

 タツキは、自分のちょうど真向かいに座っているクロガネを睨めつけた。

 ウェーブのかかった白い髪をクラゲのかさのようにかたどったクロガネは、何か思案しているのか、虚空を見つめていた。

 スマホを握る手に力が入る。

 この教授のクロガネ贔屓は、今に始まった事ではない。彼女の一年目の作品から、いや、入学試験の時からなんて言われている。型にはまらない、柔軟で奔放な詩だが、読む人の心を掴んで離さないのだそうだ。

「ああ、今ので最後だった。じゃあ諸君、この時間はおしまい。課題はオンラインでお知らせするので、各自で見といてください。それじゃ」

 教授が立ち上がるのと同時に、チャイムが鳴り響く。学生達は足早に、すり鉢状の教室から出ていった。

 それをぼうっと眺めつつ。面白くない、といった様子でタツキは頬杖をついた。視線の先のクロガネは、感情の読めない顔で佇んでいる。

 彼女はいつも両手に包帯を巻いている。色白で何を考えているか読めない風体も相まって、実は彼女はナイフ病の罹患者で、それで教授を脅しているのではないか、なんて憶測まで飛び交っている。

 タツキは信じてなどいないが、ただ、クロガネのことは好きではなかった。

 能力を褒められているのだから、もっと嬉しそうにすればいいのに。

「うーん……行くかぁ」

 人がまばらになった頃、ようやくタツキは腰を上げた。退室前に振り返ってもう一度クロガネのほうを見た時、彼女は教授が去った扉をじっと見つめていた。

 キャンパスは春の陽気に包まれていた。

 大学には、詩人や俳人といった者を目指している人間が多くいる。大人になるまでに、半分は四年のうちに現実を突きつけられて、思いもしなかったほうに進路を変える。もう半分はというと、諦めきれずに夢を追いかけて、だらだらと学生のような生活を続ける。稀に才能を見出され、望んだほうへと舵を取れる奴もいる。クロガネのように。

 不安を抱えた展望とは裏腹に、図書館に向かうタツキの足取りは軽かった。

「タツキさん」

「こんにちはー先生」

 にこやかにタツキを迎えたのは、本棚を整理していた男性だ。四十代半ばほどで、優しげな笑みを口元に湛えている。

「先生じゃなくて、ただの事務員」

 彼はそう言って頭を振った。

「でもお医者さんでしょ。あ、そういえば、先生のおかげで課題間に合ったんだ。ありがとう」

 タツキの言葉を聞いて照れくさそうに肩をすくめると、彼は本棚の向こうに消えた。

 授業の時間割変更やら課題の提出期限やらをなぜかよく覚えている彼。他の学生にはお母さんなんて言われたりもしている。

 図書館に缶詰状態のタツキにとってしてみれば、毎度そういった連絡をくれる彼はありがたい存在だ。

 彼女はどんなに偉ぶって講釈をたれる教授よりも、そんな彼を先生と呼ぶほうを好んだ。

「また調べ物?」

「うん、そんなとこー」

 本棚ごしに会話をするのも、いつものことだ。

 彼の言葉がかすかに重くなる。

「また……ナイフ病?」

「またナイフ病だよ。悪い?」

 そう、と息を吐いたのが聞こえたのち、足音が遠ざかっていく。

 敷かれた絨毯がざくざくいった。

 タツキは先ほどよりも声を張った。

「何か新しい記事とか出てない?」

 返事はない。タツキはゆっくりと机に荷物を置いた。そして脇目もふらず、医学と書かれたシールが貼られた棚に近づく。

「か、か……か。身体の仕組みとナイフ病、感染が広がる社会の構図、感染症とは……うーん、やっぱりこの辺のは全部読んじゃったな。伝染病の本はほとんど貸出中だし」

 タツキは『身体の仕組みとナイフ病』の本を手にとった。取りしな、その指は「な」の列をなぞる。見覚えのある背表紙ばかりだ。

 ここに所蔵されているナイフ病関連の本はすでに、読み尽くした。

 出版が許される程度の知識、つまり公にされている事しか書かれていないのは承知の上だ。

 しかし、やはりどこかで期待してしまっていて、ナイフ病の根本的な発生源や原因、世間で噂されているような症例といった具体的な説明を、ページをめくっては尋ねる日々だ。

 解明がなされていないからこそ、ナイフ病は市井の興味を買い、憶測が憶測を呼んで、半ばオカルトじみた話題となってしまっている。

 タツキは『ナイフ病のあらわれ』という本を手に取り、席に戻った。

 座った彼女が開いたのは、どこかの大学の所属だという研究者による書籍で、彼女が何度も読み返している本の一冊でもある。

 なぜ、病の解明がされないのか。

 されていたとして、公にできない理由とはなんなのか。

 罹る原因は、治す方法は、明らかなのか。

「はい、これ」

 目の前に紙が差し出される。

「タツキさんが休みの内に、探しておいたよ」

 振り返ると、彼がいつの間にか傍に立っていた。

 受け取ったタツキは、題を読みあげる。

「感情発現症候群に関して……なにこれ、レポート用紙?」

「の、コピー」

 裏返した後、タツキはそれをしげしげと眺めた。ぱっと見、ナイフ病のナの字も見当たらない。

「読んでみて」

 タツキの顔が怪訝そうに顰められたのに気がついたのか、彼が促す。

「そんな顔しないでよー、頑張ったんだから」

 訝しみながらも彼女の瞳が文字を追い始めたのを見つめ、彼は頰をかいた。

「この間、タツキさんに仮にも得意分野でしょって怒られちゃったから」

「先生、これって……」

 タツキは目を見開いた。

 論文の内容は、驚くべきものだった。

 感情発現症候群。

 本文でそう呼称されている病は、症例がナイフ病に類似していた。さらに症状が事細かに記されていたことも、彼女の驚嘆を助長した。

「すごいよ、先生。これ、ひょっとしたら、ひょっとするかもしれない」

「そうでしょ」

 興奮気味に言うタツキと一緒になって彼も目を輝かせる。彼は紙面の一部分を指さした。

「特にこの、CASE:712ってとこ」

「これが何?」

「こうやってナンバリングされている病気って、未だ有効な治療法が見つかっていなかったり、罹患者が極めて少ないのが原因で病そのものの情報が少なかったりして、不治の病として登録されているものなんだ」

 タツキは彼の指先から視線を外さず、首を傾げる。

「それが、何?」

「ナナ、イチ、ニで、ナイフって読めるじゃない」

 大真面目にそう言った彼に、タツキは思わず吹き出した。

「ちょっと、真剣だよ」

「まさか」

「でもほら、よくあるんだよ。昔はポケベルというのがあって、挨拶やメッセージなんかもこういう語呂合わせでー…」

 彼はそう言いながら、流れるようにタツキのノートに数字やアルファベットを羅列していく。

 本から得られる情報を書き留めるために、開いていたページ。そこにスラスラと記号を綴っていくのだ。

 呆気に取られて見ていたタツキが我に返る。

「わー、ちょっと、ストップストップ!」

 大慌てでノートをひったくった。紙に書かれた文字を擦る。指に黒いインクがつき、文字が引き伸ばされたように歪んだ。

「ボールペンじゃん!」

 彼女が肩を落とす。

 ネタ帳に謎の暗号が書かれてしまった。

「てか、ポケベルって数字じゃなかった?」

「そうだよ」

「なんでアルファベットとか記号とかまで書いてんの、デタラメでしょこれ!」

「まだまだ途中だったのに」

 先生はつまらなさそうにペンを胸ポケットにしまうのだった。

「ないかな、語呂合わせ」

「確かに、読む限りナイフ病に酷似してるけど、これがナイフ病かどうかはまだ分からない。決定的な部分が濁されてる。それにここ」

 タツキは紙面の下に振られた数字を指した。

 ページ数と見られるそこには一と振ってある。

「この論文には前後があるはずなんだよ。先生、見つけられたのはこれだけ?」

「うーん、そうだね。探せばあるかもしれないけど、タツキさんに渡せるなと思ったのはその一枚だけだったから」

「そっか」

 しかしこれは収穫だ。これまでナイフ病という名前にこだわって文献を漁ってきたタツキだが、これからはもっと視野を広げて調べるべきだと判明したのだ。

 考えを巡らせている様子のタツキを、彼は少し気遣うように声をかける。

「……ね、タツキさん。タツキさんは、そっち専攻じゃないでしょ。もっと自分のやりたい事、突き詰めたらどうかな」

 再三言われてきた言葉に、タツキは目を閉じる。

「私はただ正義の心だのジャーナリズム精神だのに囚われて突き進んでるわけじゃないよ」

「勿論、分かってはいるよ。だけどさ、やっぱり心配。何もかも犠牲にしても、望んだ答えが得られない事だってある。タツキさんは……」

「大丈夫!」

 遮ったところで、チャイムが鳴った。

 俯いたまま立ち上がり繰り返す。

「大丈夫。じゃあ、私行くね。ありがと、先生」

 そして小さく会釈をし、早足で図書館をあとにした。彼の表情を想像して心苦しくなりつつも、タツキにはナイフ病の調査を諦めるという選択肢は無かった。

 湿気のある床を蹴る。きゅ、と鳴いた。

 先程の講義にて、教授に風刺と片付けられた詩は、ナイフ病を取り巻く世間の異常性に触れたものだった。

 ナイフ病と認められると、患者は身体にタグを埋め込まれる。罹患者である事を周囲が視認できるのだ。それが多くの差別と問題を生んだ。失わなくて済んだかもしれない命を捨てさせた。

 その異物感や違和感をSNSのハッシュタグとかけて詠んだのだが、教授はお気に召さなかったらしい。

 自嘲を込めて笑う。

「まあ、あんなの肯定しても否定しても非難の的か」

 それでもこれが、タツキのやりたい事なのだ。どれだけ止められようと、やめるものかと空を見上げる。

 穏やかで緩んだ風は、日暮れを迎えた時間にしては暖かだった。

 図書館の角を曲がって、地下駐車場の入り口に差し掛かる。

「だからさあ、いい加減わかるよね?」

 ボソボソ声がやけに響いて聴こえてきた。音の方向へ首を向けると、地下駐車場の入り口だった。

 地下から聞こえてくる。何やら話し込んでいるようだった。

「君には才能がある。君の作品には常に良い評価をあげてる。こんなに君の将来を思ってあげてるんだよ」

 なんだか気色の悪い会話だ。

 知らぬふりをしてさっさと通り過ぎようと思ったのだが、いや待てと立ち止まった。このボソボソ声、聴き覚えがあるぞ。

 タツキは耳をそばだてた。

「だからね、僕の言いたい事、分かるだろう?」

 彼女は思わず嫌な顔をした。

 あのクロガネ贔屓の教授じゃないか。

 好奇心に負けたタツキの足は、自然と声の方に向かっていく。

「分からない」

 案の定、彼と話していたのはクロガネだった。いつも見ているのと変わらない、何を考えているのかはっきりしない表情だ。

 柱の陰に隠れて様子を窺う。

 教授はじりじりとクロガネとの距離を詰めていた。

「あのねえ。それで誤魔化せると思うのかい。知ってるんだよ、君のような澄ました人間こそ、実はそういったことに興味津々なんだ。僕が育ててあげた子達はみんなそうだったんだから。観念して素直になりなさい」

「そういったこととは。詩の話でしょうか」

「全く、君はとんだ小悪魔だね。だけど今日こそは帰さないよ。君が心を開いてくれるまで、僕の持てる言葉の限りを尽くそうじゃないか」

「うえー」

 教授がクロガネに何を求めているのか理解してしまったタツキは舌を突き出した。当のクロガネは眉ひとつ動かさず、冷ややかに彼を見据えている。

 彼女は存外、気分を害しているようだった。

「靡きませんよ、貴方の言葉など。どれだけ受けても」

「……そうかい。じゃあ、これならどうかな」

「!」

 タツキは息を呑んだ。

 教授が懐から取り出してみせたのは、果物ナイフだ。蛍光灯の光を受けて、ぎらぎらと反射している。

「こんなこと打ち明けるのもなんだが……僕はナイフ病でね。君も知っているだろう。罹患者のナイフで傷をつけられれば、そこから感染し、君もナイフ病になる」

「は」

 思わず後ずさって、タツキは口を手で覆った。

 驚きと呆れ、そして怒りと失笑を我慢するため奥歯を噛み締める。ここで音を立てれば、あいつに気づかれてしまう。

 教授がナイフ病だというのは、真っ赤な嘘だ。

 病を偽る彼を、タツキは強く睨んだ。

 当のクロガネは果物ナイフに全く動じた様子を見せず、冷静に見解を述べる。

「成程。刃物による脅し。それもナイフ病を騙って。これまでの被害者が強く反抗できなかったのも頷ける」

 教授は既に勝ち誇った笑みを浮かべていた。

「おやおや。強がりかな。それとも、大人しく僕に従う気になってくれたのかな」

「違う」

 タツキは霞のごとく呟く。クロガネの表情は相変わらず読めないが、彼女の佇まいに、彼が言ったような虚勢や怯えは感じられない。

 しかし、教授はそんな風には考えていないようだ。

「そうだろうとも、賢明だよクロガネさん。ナイフ病になった者への風当たりは強い。あんな仕打ちを受けたくはないだろうからね」

「……」

 クロガネがあまりにぼうっとしているので、タツキは徐々に不安になってきた。

 もしかしてあの女、ナイフ病を知らないんじゃなかろうか。

 ここまで世間を賑わせているナイフ病、知らぬ者はいないだろうとは思うが。あのクロガネなら、あり得ない話ではない。

「だってあいつ、俗世に疎そうじゃん」

 思わず口走った。

 常に心ここに在らずといったふうな彼女の事だ、ナイフ病という言葉自体は知っていても、具体的にどういった危険があるのかとか、一般にいる非罹患者がどれだけ感染を恐れているのかとか、知らなくても不思議ではない。

 教授の果物ナイフは相変わらずクロガネに向けられたままである。

 当事者でもなんでもない、通りがかりのタツキが最も肝を冷やしていた。

「浅い」

 おもむろにクロガネが口を開く。

「何?」

「浅はか」

 きっぱりと言ってのけた彼女は、鼻から息を抜き、憐憫の眼差しを教授に向ける。馬鹿にされていると理解したのか、教授の眉が痙攣した。

「僕が手を出さないとたかを括っているんだろうが」

 彼はそう言って一歩、クロガネに歩み寄る。

 瞬間、タツキの体は飛び出して、教授に掴みかかっていた。

 何をしたのか、自分でもよく分かっていない。

 教授は完全に虚を突かれたのか、よろけて地面に倒れる。果物ナイフを握り締めた右手を押さえ込みながら、タツキはクロガネを見た。そして叫ぶ。

「警察!」

「っ!」

 クロガネは目を丸くした。

 すかさず教授が反撃に出る。

「このっ」

 怒号を飛ばしたタツキに、鈍い衝撃が走る。口の中に、鉄の味が広がる。殴られたのだと理解するまでに、数秒かかった。

 隙と見るや彼の右手が逃げていく。まだ果物ナイフを持っていた。

 カッと血がのぼったタツキがその腹を蹴りつける。呻いた彼はすぐさま、仕返しとばかりにナイフを振り回した。

 その切っ先がタツキの手首を掠める。

「いっ……」

 着けていたリストバンドを貫通して、皮膚を裂かれた痛みが伝わる。

 タツキがうずくまっても、逆上しているのか、彼は雄叫びをあげて襲い掛かってくる。

 彼女は固く目を瞑った。

 しかし、彼女の体に届いたのは痛みではなく、けたたましい金属音だった。

「……ん?」

 恐る恐る目を開ける。

 視界に映るのは、転がる男。

 持ち手と刃が真っ二つになった果物ナイフ。

 それと、手に長い刃を携えた、クロガネだった。

「痺れるだろ。金属をも叩き斬る衝撃だ」

 彼女の言う通り、教授は体の自由が効かないようだった。何かをぶつぶつ言いながら、痙攣して動けないでいる。

 タツキは驚愕の表情でクロガネを見上げた。

「クロガネ……ナイフ病だったの」

 上擦った声で呟く。

 タツキの視線は、クロガネの手中にある刀に注がれていた。

 柄の部分が、ああ、鮮血で染まっている!

 ナイフ病が世間に恐れられている最たる理由。

 それは、体内で金属を生成するという症状。

 さらに重度の症状を持つ者は、それが精錬され、自身の組織を傷つけながら体外に排出される。他人にとっても殺傷能力のある、刃となって。

 刀を握るクロガネの手に、血が滲んでいる。

 それが何よりの証拠だった。

「平気…じゃ、ねえよなあ」

 背に感じた手の温もりに驚いて振り向くと、タツキの傍に、彼女を庇うようにして寄り添っている青年と目が合った。

「警察は呼んだし、騒ぎを聞きつけて警備員もこっちに向かってる。安心しな」

 見渡すと、普段人気のない地下駐車場に、俄かに慌ただしい空気が漂っている。青年の言った通り、間もなく警備員が到着するのだろう。

 遠くからサイレンの音も聴こえてきた。

「よく頑張った」

 青年が、彼女の前腕にタオルをきつく巻きながら、そう言った。止血してくれたのだろうか。

 タツキはまだ状況を把握しきれず、半ば上の空で首を縦に振った。

 立ったままのクロガネが青年に声をかけた。

「シノギ。足音がそこまで来てる。面倒だからもう行く」

「あいよ、俺もこの子が保護されたら行く」

 面倒というクロガネの言葉に、タツキが反応した。

 そして彼女はぽつりと言った。

「私も、逃がして」

「え?」

 クロガネが目を丸くする。タツキはふらりと青年に寄りかかった。

 青年は即座に彼女を抱き止める。

「気絶してる。失血かな」

「逃がしてとは。な……なぜ」

 困惑した様子で、シノギ、とクロガネが訊く。名前を呼ばれた青年は、タツキの血まみれた患部を、真剣な眼差しで見つめていた。

 クロガネもそれに倣う。倣って、その目が捉えた物に、ぴしりと呼吸が止まった。タツキの左手首、深手ではない傷口の裂かれた表皮から覗く、人の体に不釣り合いな真っ白のタグ。

 それは紛れもない、ナイフ病罹患者の印。

「これで隠してたんだなぁ」

 無惨に切られたリストバンドを、シノギが拾った。

「罹患者だ、この子」

「なら話は早い」

 ぐったりと力の抜けたタツキの体を、クロガネが抱き上げる。

「先に行ってる」

「それがいい」

 彼女は頷きを返し、さっさとその場を去っていく。足音が近づいてくるのとは反対方向へ。

 二人を見送ったシノギは、倒れ伏す彼を見、まだ動ける状態でないのを確認してから、真っ二つになった果物ナイフを見下ろす。

「あいた」

 刃の部分を拾いあげた際、指に切り傷ができた。滴る血が地面に落ちる前に、慌てて口で吸いあげる。

「果物ナイフにしちゃ、物騒な切れ味だ」

 クロガネによって無様に倒れた男はまだ起き上がれない様子だった。

 注意深く彼を見る。

「……な、なんだ、お前は」

「ああ、喋れるくらいにはなった?」

 彼はふらりと視界に入ってきたシノギに面食らっていた。

「クロガネは、クロガネはどうした。それと、あの、野蛮な女……」

「もういないよ」

「お前、お前は」

「俺はクロガネのお友達。ナイフ病を傘に着て悪いことしてる奴に、お灸を据える人。アンタはハズレだったけど。ま、いい勉強になったよ。非罹患者でもナイフ病を騙って悪さする奴がほんとにいるって分かったし」

 穏やかに話してはいるものの、シノギの瞳には妙な威圧感があった。男は口を開いたが、その目力にたじろぎ、何も言わずにその口を閉じた。

「ちゃんとお縄を頂戴しろよ。罪の無い女の子に怪我させた挙句、傷まで残したんだからな」

 まるで絵本でも読み聞かせているような態度だ。

「ああほら、お前の客が来たぜ」

 シノギは愉快そうに顎で示した。男は苦しみながら、頭をそちらへ向けた。

 数名の警備員が駆け寄って来ていた。

 口々に何かを叫んでいる。

 先頭を走っていた中年と思しき警備員が、シノギに対して言った。

「無事ですか!」

「俺はただの通りすがり。野次馬だから」

「えっ。そ、そうですか」

 ハンカチで額を拭い、彼は倒れ伏す男を見て驚愕した。

「あなた、講師の方じゃないですか」

「では、未成年に暴行を加えている男というのは、職員だったと?」

「なんという事だ」

「警察が到着したら詳しい話を聞いてもらわなくては」

 後続の警備員達も驚きを口にした。

 ざわめきが広がる。

「それも、ナイフ病絡みだったみたいよ」

 深刻そうな声音でシノギが言うと、彼らは一斉に男を見た。

「それで学生を脅してたみたい」

 あたかも全ては知りませんという体を装う彼を、男は忌々しそうに睨んだ。

 こいつは一体、何を企んでいるんだと言いたげに。

「あ、貴方は全部見てたんですか?」

「いやあ。最初はなんかヤバそうな現場だと興味本位で撮ってたんだけども、段々と本格的にまずそうになってったから、守衛室と警察に通報したの」

「通報者の方でしたか」

「そう。だから、途中までしかよく分かってないんだ、俺も」

「待ってください。撮ってたと言ったのはつまり、途中までの動画はあるという事ですよね」

「あるよ」

 中年の警備員は小刻みに頷いた。

「ああよかった。物的証拠があるなら、警察も捜査に乗り出してくれるでしょう」

「けど、これはおおごとですよ」

 そう言った警備員以外の者も皆、怪訝な面持ちだった。

「彼の逮捕は勿論のことですが……学校側にも問題があったのではと問われるかも」

「ナイフ病関連なら尚更。そうだ、そんなような法案が出来てましたよね」

「ええ。キャンパスは一定期間、閉鎖を余儀なくされるでしょうな」

「うわあ、大変だ。その間の給料は出るんだろうか」

「ま、まあまあ。私らはただの警備員ですから。学校側の判断がどうなるかをここで議論してもどうしようもないですって」

 白熱しだした彼らを我に返すかのように、中年の警備員が割って入る。

 シノギも助け舟を出す。

「そうそ。ほら、警察も到着したしさ、目の前の事件に集中しようぜ」

 彼が指し示した先を、皆が振り返る。

 シノギの言う通り、数名の警官が駆け足で向かって来ているところだった。

 全員の視線が紛れたのをいいことに、シノギは素早い動作で、その場に放り出されたままだったタツキの荷物を肩にかける。

 大きな布製のトートバッグは表面が汚れてしまっていた。

 中身の無事は保証できそうにないが、警察に没収されるよりはマシなはずだ。

 シノギは手にしていたビデオカメラを、中年の警備員に握らせた。

「んじゃ、俺はこれで」

「えっ、えっ。ちょ、ちょっと待って下さい!」

「ここに全部が記録されてるし、俺もそれ以上の事は知らない。なら、そっちのが確実でしょ?」

 そっち、と言いながらビデオカメラを指さして、シノギはずんずん後退していく。勿論、警察官がやって来るのとは逆方向に。

「ですが……」

「じゃ!」

 諦めきった顔で伏す男を一瞥してから、踵を返して走り去る。

 留まるような指示を飛ばされたが、無視して進んだ。

 蛍光灯に照らされていても、地下駐車場は暗がりだ。警官がシノギを視認したとて、眼前の事件より優先する事はまずないといえる。

 彼は人知れず呟いた。

「国家権力とは敵対しない。協力もしない。それが俺らのセオリーなんでね」

 静かに校門へと足を進める。

 夜空に映える大きな桜の木は、このキャンパスの顔だ。ライトに照らされた桜色を横目に、シノギは少しだけ残念がった。

 あと数時間もすれば、マスコミがこの場を賑わすだろう。

 今見ている景色は、卑劣な事件の起こった場所として、人々の記憶に残るのだ。

「見事なのになあ、お前さん」

 彼は桜の木に向かって緩く敬礼した。

 クロガネはねぐらに着いた頃だろうか。

 珍しい顔をしていたなと思い返す。

「私も逃がして」

 あの子がそう言った時のクロガネの表情だ。

 感情の起伏は激しいが、それが表に全然出ないのが彼女だというのに。

「あんなに目をまん丸くして。やあ、からかいてえなあ。からかっても、怒んねえけど」

 いつも予想外の反応をする彼女のことを想像して、シノギは鞄の埃を払った。

 うーむと唸る。

「あの子なあ」

 重傷ではないから、病院の世話にはならない。しかし、重傷ではないからこそ、彼女は俺らのねぐらで目覚めるだろう。

 罹患者とはいえ、彼女についてはきちんと調べる必要がある。

「とりあえず、残んないといいなあ、あの傷」

 シノギが放った独り言は、夕闇と共にさらわれていった。

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