第8話 使者
深夜に屋敷に戻った私に、執事のケインはちょっとだけお説教したけれど、結婚が迫っている私に同情してくれたのだろう、両親には黙っていてくれた。
そして翌日の午後、とうとうリッチー子爵夫妻とトルドーが我が家へとやってきた。清貧を是とする簡素な我が家の応接室に通された3人は、全身を最新の衣服や宝石で飾り立てており、見ているだけで胸やけがしそう。だけど、そんな本心をおくびにも出さず、私は父と母の隣でにっこりと微笑んだ。
「リッチー子爵、子爵夫人、トルドー令息、本日はご足労いただき痛み入りますわ」
「この日を待ち望んでいたよ、ヘザー嬢」
うっすらと脂ぎった顔のトルドーが、にやりと口の端を歪ませて言う。リッチー子爵が、息子にそっくりなギラついた顔で豪快に笑う。
「まさか女の身で研究科まで進学されるとは、本当に待ちくたびれましたぞ!」
「…お待たせしまして、大変申し訳ございません」
父がハンカチで額の汗をぬぐいながら、絞り出すような声で謝罪する。誇り高い父が札束で頬を叩くような相手に詫びているのが、悔しくてたまらない。リッチー子爵夫人が、羽根飾りとダイヤモンドで装飾された立派な扇子を開き、口元を隠してほほほほ、と甲高い声で笑う。
「まあ、そんなに畏まらなくてもよろしゅうございますわ。それよりも、早く式の段取りを決めませんと」
「そうですわね。慣例ですと、式の準備にはだいたい3カ月ほど……」
母がそう言いかけたところで、トルドーが横柄な態度でそれを遮った。
「3カ月だって?これまで散々待たされて、これ以上1分だって待てないぞ」
「そうは言いましても…」
「式の準備は、うちの商会にすべて任せてもらおう。明後日にも準備が整うはずだ」
トルドーがふんぞり返って言い、リッチー子爵がでっぷりと太ったお腹を揺らしてうなずく。
「式は明後日でよろしいな?」
「そ、そんな急な……」
父が抗議しようとするが、リッチー子爵は意に介さず、「決まりですな」と太い声で押し切った。目の前が、真っ暗になった気分だ。トルドーの薄い茶色の目が、舐めるように私のボディラインをなぞっている。全身に鳥肌が立ちそう。
「本来なら、ヘザー嬢は今日からでもボクの邸宅に連れて帰りたいところだけど…」
トルドーの目が細められ、私はあわてて背筋を伸ばし、彼をにらみつける。
「とんでもございませんわ、正式に式を挙げる前に居住を移すなど。伝統と格式を重んじる、貴族にあるまじき行為です」
つまり、「まさかそんな成金丸出しの下品な行為をしないわよね?」というけん制のつもりだった。しかし、これがリッチー子爵のプライドを傷つけてしまったらしい。ピクリと眉を吊り上げた子爵が、濁った目で私をにらみ返す。
「伝統と格式…?そんなものを有難がっているから、アンジェローゼ伯爵家は今にも没落寸前なのでは?」
「なっ……!」
「我がリッチー子爵家は、悪しき慣習などにとらわれず、成功してきた家系でしてな。…決めましたぞ、ヘザー嬢は今日から我が家へ居住を移すこととする。明後日には我が家の一員となる身だ。数日早まってもなんら問題なかろう」
ざっと全身の血の気が引いた。慌てて父と母とともに抗議の声を上げようとしたところだった。普段滅多に取り乱すことのない執事のケインが、慌てた様子で応接室に駆け込んできた。
「だ、旦那さま…!」
「どうしたのだケイン、来客中だぞ」
父が慌てて立ち上がり、リッチー子爵がケインに怒鳴りつける。
「無礼だぞ、何様だこの使用人は!今は婚儀にかかわる大事な話の最中だぞ!」
「そ、それが……」
ケインが、震える手で羊皮紙を差し出す。そこには、王家の証である黄金の薔薇の紋章がはっきりと刻印されていた。
「お、王宮からの使いの方々がいらしてまして…」
「王宮から?一体何が……」
「それが、ヘザーお嬢様の婚約に関することだそうで…」
ケインが説明を終えるのを待たず、応接室にひょこっと顔を出したのは、切れ者と噂の若き宰相であり、この国の筆頭公爵家を率いるルイス・クロムウェル公爵だった。
「いやーすみませんね、アンジェローゼ伯爵。先ぶれもなく訪問してしまいまして…」
見事な金髪碧眼を持つ、圧倒的オーラの美男子であるクロムウェル公爵の登場に、その場にいた誰もが圧倒されてしまい、あのリッチー子爵でさえぽかんと口を開けることしかできなかった。
「クロムウェル宰相閣下……あの、本日はどのようなご用向きで…」
父があたふたと問うと、クロムウェル公爵は気まずそうな顔で後ろを振り返った。すると、深紅のマントと見事な装飾の軍服で正装した、明らかに王族という風体の黒髪の男性が、大股で現れた。
――ユーゴだ。
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