第7話 別れ

 その後目覚めると、ユーゴはもう着替えを済ませて、窓辺で何かの書類を熱心に読んでいた。体を起こして見回すと、外は真っ暗で、時計はすで深夜を回っている。慌てる私を落ち着かせ、ユーゴはいつも通りの飄々とした表情で、ベッドの脇に腰かけた。


「寝てる間に回復魔法かけといたぞ。体は大丈夫か?」

「……まだ何か挟まってるみたいな…変な感じだわ」


 正直にそう言うと、ユーゴはおかしそうに笑った。


「ま、何回もやればそのうち慣れてくるだろ」

「……そうかしらね」


 これからはあの婚約者と何度もこんな行為をするのか、と思うと一気に気が重くなった。――本当に、ユーゴにこんなこと頼んでよかったのかしら。

後悔はしないつもりだったけど、ちょっとだけ悲しくなった。性行為は、自分が想像していたよりも何倍も…何十倍も気持ちよくて、何百倍も素敵なものだった。こんな感覚を知ってしまったからこそ……もしかしたら、これからの人生がもっと辛くなってしまうかもしれない。知らないほうが、まだ幸せだったのかも……。

――本当に、私ってとことん不運な女だわ。

そんなことをふと考えてしまって、私はあわてて首を振る。


「ゆっくりしている時間はなかったわ。帰らなきゃ」

「じゃあ人を呼ぶから、着替えしな」


 ユーゴは私の頭をポンと撫でてから、てきぱきとメイドを呼んで、部屋を出ていった。私はまだ体に力が入らずに、お風呂に入るのも一苦労だったけれど、メイドの手を借りつつなんとか身支度を終えた。

処女膜が戻ったのかどうか、自分ではよくわからない。だけど、ユーゴが胸元にたくさんつけていたはずのキスマークは、跡形もなく消えていた。――二人の間には“何もなかった”ことになったんだな、と思い知らされた気分。自分でそう頼んだくせに、どこか傷ついている自分がいる。


寝室を出て、応接室に顔を出すと、ソファでせわしなく何かの書類を作っていたユーゴが振り返って、おう、と手を上げた。


「準備できたか?」

「ええ。ありがとう、何から何まで」


 なんだか恥ずかしくて、彼の目を見ることができない。立ち上がったユーゴが私のほうへ歩いてきて、優しく額にキスをした。


「こっちこそありがとう」

「……帰らなきゃ」

「おう、馬車を用意しといたから」


 いつの間にか、馬車を呼んでくれていたらしい。正直に言うと、まだ帰りたくなかった。油断すると、ユーゴの胸元に飛び込んで、すがりついて思いきり号泣したくなる。だけど、帰らなきゃいけない。それはよくわかっていた。


「ごめんな、俺もちょっと急ぎの用があって送っていけないんだけど」

「そんな、いいのよ。本当にありがとう」


 ユーゴが急ぎ足で馬車の前までエスコートしてくれて、私はバタバタと座席に乗り込む。――これで、お別れなのね。


「じゃあな」


 ユーゴがいつものようにひらひら手を振る。まるで何もなかったかのような、いつも通りの笑顔で。私は涙がこぼれそうになって、慌てて馬車のドアを閉めた。

 そして、顔を見られないように窓から手を振り返す。


「さよなら、ユーゴ。いつまでも元気でね。あなたの幸せを祈ってるわ」

「おう」


 馬車がゆっくりと走り出す。たまらず窓の外を見ると、ユーゴが踵を返して屋敷の中に駆け戻っていくのが見えた。その大きな背中を目に焼き付ける。――あまりにあっけない、別れだった。


 これで、私の幸せだった時代は終わり。涙がとめどなくあふれ出る。さぁ、現実に戻らなきゃ。私はハンカチで涙をぬぐい、ぐっとため息を飲み込んだ。さっそく明日の午後には、リッチー子爵夫妻と婚約者のトルドーが、結婚式の準備を進めるために伯爵家を訪れることになっている。逃げられない現実に、立ち向かわなきゃ。

 ――頭はそうわかっていたけど、体に残っているユーゴのぬくもりと、力強い腕の感覚は、なかなか去っていかない。私は彼の亡霊にいつまでも抱きしめられているような気持ちで、揺れる馬車の中、いつまでもぐずぐずと泣いていた。


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