試練の時

かんだ しげる

第1話

 人は、ときとして、知らず知らずのうちに試練の時をむかえ、与えられた使命を果たすことがある。


 そのとき、市立北中学校三年の岡本郁美は、つい、ウトウトっとした。

(うわっ、やばっ!)

 でも、なんとか目を開けた。

 大きらいな国語の授業中だった。

 寝落ちしそうになったのを、虫明先生には見つからずにすんだらしい。

   ピーポー、ピーポー

 三階の教室の窓の外で、救急車が走って行く音が、七月の高い青空にすいこまれていった。

 郁美は理系女子、いわゆるリケジョだ。

 生物、特に昆虫に目がない。

 あんなに個性的で魅力的な生物を、なぜ一般女子が忌みきらうのか、まったく理解できない。

 SFにも、目がない。

 鞄には、必ず二冊以上のSFが入っている。

「それじゃあ、教科書の四十八ページを開けて。」

 教室の中に、虫明先生の声が響いていた。

 郁美は、名前からしても、虫明先生がきらいということはない。黒ブチの大きな丸いメガネをかけて、カマキリみたいな顔をしているのだから、なおさらだ。

 ただ、国語の先生がきらいなだけだ。

 でも、なんか変だ。

(さっきも、四十八ページって言ってなかったっけ?)

 その時も、たしか救急車の走って行く音がしていた気がする。

 今は、五時間目の国語の時間。

 教室の時計は二時十分で、長い針と短い針が重なっていた。

 先生にさされて、六月に転校してきた森君が、教科書を読み始めた。

 いつも低い声で、ボソボソと男子としかしゃべらず、なんとも近寄りがたい。色黒で、背が高くてバスケ部だから、ちょっと目がはなれているけれど、一部の女子には人気みたいだ。

 いずれにせよ、郁美にとって、『男子』という生物は、おしなべて不可解な存在である。

(さっきも森君が読んでなかった? 夢を見たのかな?)

 自分じゃ寝落ちしてないと思っていたけれど、しっかり眠っていたのかもしれない。

 お昼ごはんを食べた後は、どうしても眠くなる。

 しかも、郁美はしっかり食べる派だ。『ダイエット』とかいうものには、関心のかけらもない。適度な体脂肪は、持久性という観点からすれば、生物には必要不可欠だ。

 だから、郁美をおそう午後の眠気は、はんぱない。

 しかも苦手な国語だから、効果二倍だ。

(うわっ、やばっ!)

 また、ウトウトっとした。

 なんとか目を開けた。

「それじゃあ、教科書の四十八ページを開けて。」

 虫明先生の声が聞こえた。

   ピーポー、ピーポー

(えっ?)

 あわてて時計を見たら、二時十分だった。

(どうなってんの?)

 また、森君が教科書を読んでいる。

(ウトウトっとして眠っちゃうと、ちょっとだけ時間がもどるとか? いやいやいや、SFじゃあるまいし。)

 だめだ、また、眠くなってきた。

(うわっ、やばっ!)

「それじゃあ、教科書の四十八ページを開けて。」

 また、虫明先生が言った。

   ピーポー、ピーポー

(まただ。また、同じ事をくりかえしてる。)

 ウトウトっとするたびに、ちょっとだけ時間がもどっている。

 このままだと、同じ時間を無限にくり返してしまう。

(これって、タイムループってやつ? つまり、国語の時間から永遠にぬけ出せないってこと?)

 最悪だ。なんで、よりによって国語の時間に。

(なんで時間がもどるの? そうだ、こういう時は、タイムループがおこっているこの時に、わたしがやらなきゃならない使命があるってことじゃない? これって、わたしに与えられた試練じゃない? それをはたせば、タイムループからぬけ出せるっていうことじゃない?

 よし、これぞ王道だ。この国語の時間のタイムループから、見事ぬけ出してみせようじゃないか。)

 ちょっとファンタジー系YAの読みすぎかもしれないが、当たっているかもしれない。

 しかし、郁美は、どちらかというと直感で物事を把握するタイプだった。

 リケジョだが、いろいろと理論立てて、思考をめぐらすのは苦手だった。

(ええっと、ええっと、えええっと、)

 あせれば、あせるほど、郁美の直感は働かない。

(おお、そうだ。こういう時にこそ、図だ!)

 ノートにタイムループの図として、時間軸の直線の上に、小さな丸を描いてみた。

 だが、カタツムリにしか見えなかった。

(まずい、ここはなんとか、はたすべき使命をみつけないと、まずい。)

 ウトウトっと、

(うわっ、やばっ!)

「それじゃあ、教科書の四十八ページを開けて。」

   ピーポー、ピーポー

 また、虫明先生にさされて、森君が教科書を読み始めた。

(あれっ? なんか、森君の声って、虫っぽいかも)

 それは新たな発見ではあった。

 だが、今は、そんなことを言ってる場合ではない。郁美は虫の声を聞いていると、心地よくなって眠たくなってしまうのだ。

 ウトウトっと、

(うわっ、やばっ!)

「それじゃあ、教科書の四十八ページを開けて。」

   ピーポー、ピーポー

(しまった、また眠った!

 そ、そうだ! はたすべき使命なんかわからなくったって、眠らなきゃいいんだ。)

 これぞ、発想の転換だ。

 郁美は考えた。必死で考えた。

(どうする? どうすれば眠らない? なにをすればいいの?)

 眠気とたたかいながら、考えに考えた。

 とにかく、眠らないことだ。

 眠らなきゃ時間はもどらないはずだ。

 タイムループは、ふせげるはずだ。

(どうする、どうする、どうする、そうだっ!)

「先生!」

「な、なんだ、岡本?」

「わたしが、教科書を読みます!」

「えっ? そ、そうか。それじゃあ岡本、四十八ページから。」

 郁美は立ち上がり、大きな声で教科書を読み始めた。

 たどたどしかったけれど、いっしょうけんめいに読んだ。

 だって、立っていれば、声を出していれば、眠くはならないから。

「はい、そこまで。よくがんばったな、岡本。先生、岡本が自分から手をあげてくれて、とてもうれしかったよ。」

(なんだ、それ?)

 国語の虫明先生にほめられたって、うれしくともなんともないと思っていた。だが、若干うれしかった。

 郁美の眠気は、すっかり無くなっていた。

   キンコーン、カンコーン

(やった。終わった。)

 五時間目の間中ずっと起きていた。

(眠気に、勝った。)

 これで、国語の授業の無限のくり返し、タイムループからぬけだせたはずだ。

 立ち上がり、両手を組んで頭の上にグーっとのばした。

 なんだか頭もスッキリしている。いい気分だ。

「岡本さん。」

 声にふり向くと、すぐ後ろに、森君が立っていた。

「ありがとう。今日、のどがいたくって。代わってもらえて、助かった。」

 森君が、郁美を見つめて、ちょっとだけ笑った。

(森君の顔って、アブラゼミみたい。)

 それは、郁美にとっては『かわいい。』っていう意味だ。

 森君がこんなにアブラゼミに似てるなんて、それまで郁美は知らなかった。


 この時の岡本郁美は、まだ、知らなかった。知りようがなかった。

 森君は私立の男子校に行ってしまい、郁美と同じ公立高校にはならないのだが、ふたりは三年間メールでやりとりし、同じ大学を受験し、合格し、同じ大学の理工学部に通うことになるっていうことを。

 大学を卒業するときに、森君にプロポーズされ、その三年後に結婚することになるっていうことを。

 そして、ふたりの間に生まれる女の子が、将来、世界を救うワクチンを発明する運命にあるということを。


 森君の顔があんまりアブラゼミに似てたから、郁美の頭からは、タイムループのことなんか、すっかりぬけ落ちてしまっていた。郁美は、このままこの時間がずっと続いて、森君の顔をずっと見ていたいななんて、ちょっと思っていた。

 しかし、もう二度と時間はもどらない。

 与えられた使命は、はたされたのだから。

 岡本郁美の、試練の時は終わったのだ。

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試練の時 かんだ しげる @cckanda

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