第3話 来訪者
ほんの少し寒さが和らいだ日、その日は雪が降っていなかった。はらはらと舞っている雪は風で地面から巻き上げられたか、木の枝から落ちているものだ。
昼下がり、少女はいつものように家の側で白い森を描いていた。森の上にはどんよりと曇った空ではなく、薄青い空が描かれる。
薪を取りに行かなくてはと準備していたミハイルは、遠くの方から犬の吠え声が聞こえてきた気がした。外に出て辺りを見回す。いつもと変わらない光景の中に、ぽつりと小さく異質なものが見えた。
「イヴァンか」
ミハイルは呟いた。家の中に取って返して、フード付きの上着を羽織る。そして、フードを深く被った。少女は恐れないのでその必要が無い。
段々と小さな点は大きくなってくる。少女も気付いたようでそちらを見た。
「入っていろ」
ミハイルは少女に促した。まだ絵は描き掛けだったようだが、少女は動き出した。しかし、少し遅かった。
犬ぞりに乗ったイヴァンがミハイルの姿を見て手を上げる。イヴァンの顔が遠目でもわかるほど驚いているのが、ミハイルにはわかった。
犬たちに掛け声を掛けて、イヴァンがミハイルの家の前でとまった。
「よう」
イヴァンがミハイルに向かって軽く手を上げる。犬ぞりには食料が積まれているのが見えた。助かった、とミハイルは思った。イヴァンはふもとの村に住んでいるミハイルの幼友達だ。ミハイルが死なない程度に、ごくたまにだがこうして食料や燃料を運んで来てくれるのだ。
「誰だ、その娘は」
答えにくい質問をイヴァンは直球で問い掛けてくる。
「拾った」
ただ一言、ミハイルは答えた。
「なんだそれは」
「本当だ」
疑われてもミハイルにはそれしか答えようがない。そして、本当にそれ以上の説明はしようがなかった。
「勝手にここにいるだけだ」
「ふん」
イヴァンが納得出来ない様子で鼻を鳴らしながら、少女を上から下まで眺める。イヴァンの視線が一点でとまった。まだ少女はスケッチブックを持ったままだった。
「それは?」
イヴァンが指さす。
それまできょとんと立っていた少女だったが、弾かれるようにスケッチブックを両手で抱え込んだ。逃げるようにミハイルの後ろに隠れる。
「おいおい、見せてくれたっていいだろう」
イヴァンが苦笑する。
「描き掛けだからだろう」
ミハイルの言葉に少女が頷く。描きかけの絵を見せることをあまり少女が好まないことを、ミハイルは知っていた。
描きかけの絵を見たいのならば、少女の後ろから気付かれずにそっと近付くことだ。
「なら、他の絵を見せてくれるかい」
見せてもらえないとなると見たくなるものらしい。イヴァンは少しかがんで少女に目線を合わせると、小さな子にするように優しげな声で頼んだ。
少女がミハイルの顔を見て何かを目で問い掛けてきた。イヴァンは信用できるのかと聞いているようだった。
「見せてやったらいい」
少女はこくりと頷いた。イヴァンはその様子をじっと見ていた。
少女がスケッチブックをめくり始める。少女の持っているスケッチブックにはどのページにも白い森が描かれている。
少女がイヴァンの前に開いた絵を差し出す。
「ありがとう」
イヴァンが白い森の絵に目を落とす。その目が急に見開かられた。イヴァンの口からうめき声とも、ため息ともつかないものが漏れる。
「ちょっといいかい」
少女が小さく頷いたと同時に、イヴァンはスケッチブックを手に取って鼻を擦り付けんばかりに熱心に見始めた。
「他のページもいいかい」
少女が困った顔をする。
「描きかけのもの以外なら」
代わりに答えると、少女がミハイルを見てちょっと笑った。ここ最近で見ることが出来るようになった笑顔だった。
寒い森の中で、少女は暖かそうに笑う。
イヴァンはページをめくっていく。
「誰かに見せたことは?」
イヴァンが顔を上げて、少女をみつめた。少女が首を縦に振る。
「あるようだ」
もう一度イヴァンが唸った。
「誰も、何も言わなかったのか」
少女は困ったように小さくなっている。
「まさか、この男にしか見せていないということか」
今度は少女が首を横に振った。
「それはない、と思う。まだここには来たばかりだ」
「確かに、前はいなかったものな。どうして、こんなところに」
不思議そうにイヴァンが首を捻る。
「俺にもわからない」
ミハイルには少女のことを何も説明することが出来ない。名前だって知らない。
「聞いていないのか?」
いぶかしむようにイヴァンがミハイルを見た。
「この子は口が聞けない」
「ははぁ」
イヴァンは納得したように呻いた。ここにいる理由を少し納得したようだった。
「その子の親は才能に気付いていなかったとみえる」
少女は何も言わずに、またミハイルの後ろに戻ってしまった。知らない人と話すのが疲れたのか、あれこれ言われるのが嫌なのか。どちらにしても、ミハイルにもその気持ちはよくわかった。
「食料を持ってきてくれたのだろう」
「ああ、そうだった」
ミハイルが言うと、ようやくイヴァンは本来の目的を思い出したようだった。
「降ろすのを手伝ってくれ」
「わかった」
イヴァンは名残惜しそうな顔で、少女の手にスケッチブックを返した。
ミハイルとイヴァンは荷ほどきを始めた。少女は再びさっきの続きを描き始めたようだった。描きかけで止まっているのは気になって仕方がないらしい。
イヴァンは少女の様子を目で追っていた。
「一枚持っていってもいいだろうか?」
帰り際のイヴァンの言葉に、少女は首を勢いよく横に振った。少女は自分の描いた絵を持っていかれたくはないようだった。
「一枚でいいんだ」
少女は首を縦には振らない。
「毛皮よりもずっと高く売れると思うんだがな」
イヴァンが呻く。いつもはミハイルの狩った動物の毛皮と食料を交換しているのだ。
「だったら、私と一緒に町へ行くのはどうだろう」
少女が驚いたように口を開ける。ミハイルはもう少しで少女の腕を掴んでしまうところだった。
ミハイルの予想に反して、少女はその言葉にも首を横に振っただけだった。
「そうか」
イヴァンは残念そうに息を吐く。
「また近いうちに来よう」
近いうちになどイヴァンが言ったのは初めてだった。いつもならかなりの期間を置く。少女のことを気にしているのは明らかだった。
「イヴァン」
そりに乗ろうとするイヴァンをミハイルは引き留めた。不思議そうに、イヴァンが振り返る。
「スケッチブックと絵の具。それとなんだあれは、木に布を張ったものだ」
「キャンバスか」
絵の道具だとわかったらしく、イヴァンがすぐに答える。
「今度来るときに、持ってきてくれないか」
隣で少女がぱっと顔を輝かせた。
「もう残り少ない」
「任せておけ」
イヴァンは名残惜しそうに少女の顔を見た。
「またすぐに来るからね」
少女に向かって言ってから、イヴァンは犬たちに掛け声を掛けた。イヴァンの姿が来たときとは逆に小さくなっていく。
不意に、ミハイルは体に何かの重みを感じた。そして、暖炉の火とは違う暖かさを感じた。
下へと目線を送ると、少女がミハイルの体に抱きついていた。
「何をする」
驚いてミハイルは少女を振り払おうとした。こんなことをしてきたのは初めて少女が目を覚まして以来だ。今度は人違いであるはずがなかった。
少女は離れない。それどころか満面の笑みでミハイルに笑い掛ける。
絵の道具を頼んでくれたことが嬉しかったのだと、ミハイルはようやく気付いた。そんな感情表現をされたことは今まで一度も無かったのだから仕方ない。
「入ろう」
ミハイルは少女の肩を叩くと家の中へと向かった。さっきの絵は、もう完成したようだった。
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