第2話 魔法の手
ミハイルの予想に反して、少女はスープを食べ終わった後も出ていこうとはしなかった。
「帰らないのか?」
ミハイルは少女に問い掛ける。少女はすまなそうな顔をした。
外ではまた吹雪き出した音がする。確かにこれでは少女一人で町に帰りつくことは難しい。
「送った方がいいのか?」
ミハイルは自分でも信じられないことを口に出していた。少女を見つけた時には放置しておくことを考えていたくらいなのに、自ら送っていこうとするなど、どう考えてもおかしい。
考えてみれば、ミハイルのことを真っ直ぐにみつめてくるというだけで少女は貴重な人物だった。頭がおかしいのかとも思えてしまう。
少女がふるふると首を横に振った。
「行くところがないのか?」
少女が頷いた。
口減らし。ミハイルの頭の中にそんな単語が浮かぶ。口を聞くことも出来ない娘だ。真っ先に候補になってしまったとしてもおかしくはない。
雪山に捨てられて生きていけるのは、きっとミハイルのような男だけだ。
「好きにしろ」
少女が窺うようにミハイルの顔を見る。ミハイルの言葉の真意がわかっていないように見える。
「俺の顔が恐ろしくないのなら、ここにいてもいい」
もう一度、わかりやすくミハイルは言った。
少女は少し考えるように目線を泳がせてからミハイルを見て頷いた。
その顔は笑っていた。
少女は心が壊れているのかもしれない。
ミハイルの顔を見て恐れないのだから。
笑うことが出来るのだから。
けれどもう少し、ミハイルは少女のことを見ていたいと思った。
◇ ◇ ◇
少女がこの家に来てから数日が経った。
少女はあいかわらず話さなかったが、ミハイルの生活の邪魔になることは何一つしなかった。
少女には一つ、毎日続けていることがあった。今日も少女は外に出てスケッチブックに筆を走らせている。
魔法のようだとミハイルは思った。真っ白な紙の上に少女が筆を動かすだけで、目の前の森を切り取った風景がそこに現れる。何もない場所に突然現れるのだ。
そうして少女は雪に埋もれた白い森を何枚も何枚も書いているのだった。ただ一つ、実際の森とは違うところが絵の中にはあった。
真っ白な風景を描いているはずなのに、少女の絵はどこか暖かい。
どこがどう違うというのか、ミハイルには不思議だった。
「すごいな」
ミハイルが感心して呟くと、少女は何故か少し寂しそうに笑った。
少女に呼び名はまだなかった。勝手に付けることも考えはしたが、やめておいた。ここには二人しかいないのだから必要無い。
「そろそろ日が暮れる」
少女が手を止めてミハイルを見た。その目がもう少しと語っている。ミハイルはちらりと山の端に掛かっている太陽を見て言った。
「あと少しだ」
少女の手が素早く動き出す。もう少しで何も無かった紙の上に森が出来上がる。
言葉が滑らかに口から出るようになってきたと、ミハイルは思う。こんなにも話す必要があるのは本当に何年ぶりなのだろう。
少女が顔を上げて息を吐き出した。白い塊が少女の前に出来る。どうやら終わったようだ。
「出来たのか?」
少女は頷いた。少女の手の中には確かに森があった。
一日は暮れる。
◇ ◇ ◇
「これは、なんだ?」
少女の大きなかばんの中身は、絵を描く道具だけではなかった。何かが布に包まれて入っているのが見えた。
火の粉を散らす暖炉の前で体を温めていた少女が走り寄ってくる。慌ててかばんを閉じようとしたが、少し迷った様子で中身を見た。そして、探るような視線をミハイルに送る。
「無理にとは言わない」
ミハイルはそっとその場を離れようとした。
その時、少女がかばんを開いて中身を取り出した。
少女は布の包みをほどいていく。出てきたのは、また絵だった。紙の上に淡く色を付けたような簡単なものではなく、もっと丁寧に絵の具で描かれたものだった。木の枠に貼られた布の上に描かれている。
森の絵以外も少女は描くことが出来るのだと、ミハイルは初めて知った。
そこにあったのは白い世界ではなく、暖かな色彩に溢れた光景だった。笑い合う家族たちの絵だった。その中には見覚えのある人物もいる。
ミハイルが知っているとすればただ一人だ。
絵の中には少女がいた。
だとすれば、この絵は少女の家族なのだろうかとミハイルは思った。
絵の中の少女は、ミハイルには見せたことのない顔をしていた。
少女が絵の中の自分を指差す。それから自分を指した。
「わかる」
ミハイルが絞り出すような声で言うと、少女はほっとしたように息をついた。
『私の家族なの』
弾む少女の声が聞こえるようだった。
ミハイルは意識的に見ないようにしていた少女の顔を横目で見た。じっと絵をみつめている少女は、ミハイルの予想に反して悲しげに眼を伏せていた。
そうだ、とミハイルは気付く。訳を聞くことは出来ないが、少女は家族に捨てられたかもしれないのだ。辛い過去でも無ければ、こんなところに足を踏み入れているはずがない。
少女がこの絵を描いた時点では、もしかしたら家族とは何の問題も無かったのかもしれない。ミハイルも生まれた時からこんな顔だったわけではない。
「もういい」
少女はまだ絵を見ている。
「もう、見なくてもいい」
ようやく少女が絵から顔を上げた。こくりと頷く。少女は再び布で絵を包んだ。まだ布の中には他の絵もあったが、見せて欲しいとは言わなかった。
◇ ◇ ◇
何事も無いようにミハイルと少女との日々は過ぎていった。ずっと前から一緒に暮らしていると錯覚してしまう程だった。
ごうごうと風の吹く夜だった。
ミハイルはもう、少女の持っている全ての絵を見せてもらっていた。家族の絵は一枚だけで、後は何の変哲もない町並みだった。ただやはりその絵には暖かさが溢れていた。
あいかわらず、ここに住み着いてからの少女は白い森の風景だけを描いていた。
少女は暖炉の前で猫のように座り込んでいた。うとうとと頭が動いて今にも眠りの世界に行ってしまいそうだ。
ミハイルの顔が不意に引き攣る。いや、引き攣っているのではないとミハイルは思った。
少女と出会ってから、もしかするとミハイルは笑うようになったのかもしれない。この家には鏡などないからわからない。少女が話すことはないからわからない。
少女も時折ミハイルに笑顔を見せた。ここに置いてくれてありがとう、と言っているようだった。
ぱちん、と音を立てて暖炉の薪がはぜる。少女がほんの少し肩を震わせた。
そろそろ薪が乏しい。ミハイルが森に行っている時も少女の為に薪を使う。食料も豊富にあるとは言えなかった。なにしろここにはミハイルしかいない予定だった。
いないはずの人間がここにはいるのだ。
「それを薪にするのはよくないよな」
ミハイルは冗談のつもりで呟いた。そんなことをするようになるなどと、思ったことも無かった。一人でいては冗談の言いようも無かった。
少女が振り向く。ミハイルが絵のことを指しているのだとわかると、血相を変えて駆け出して、絵を抱えた。
「嘘だ」
ミハイルが吐き出す息と共に言うと、少女はほっと張っていた肩を落とした。
視線を外そうとすると、少女は謝っているような目つきでミハイルを見てきた。冗談と受け取ってもらえたらしい。
「気にしていない」
少女は大切な家族を抱き締めるように絵を抱えている。
少女がミハイルを描くことは無い。そんなことは決してあるわけがないと思う。ミハイルのようは男を描いてもしかたがないのだ。
ミハイルも頭ではわかっている。それでも、寂しかった。少女の絵の中に自分が描かれないことがほんの少しだけミハイルは寂しかった。
けれど、ミハイルが人並みの顔をしていたとしても少女はミハイルを描いたのだろうか。
もしかすると、少女は特別なものしか描かないのかもしれないとミハイルは思っていた。
では白い森は特別ということになる。確かに森はミハイルにとっても特別に違いは無かった。
どこにも行き場所が無かったミハイルを包み込んでくれるのは、この森だけだからだ。多分それは、少女にとっても同じなのだ。
ただ、どうしてあんなにも暖かそうな家族が少女を捨ててしまったのだけがミハイルにはわからなかった。
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